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第九章 隋王朝 六

 さて、楊堅と伽羅は、楊俊ようしゅんの出家を許したであろうか?

 いや、許さなかった。


 楊俊が生まれる二十年ほど前に没した、とある他国の賢帝が、仏教に傾倒するあまり身を持ち崩したことを記憶していたからである。


 その皇帝は倹約を美しとし、殺生を好まず、しかも文武両道の素晴らしい皇帝であった。名を蕭衍しょうえんと言う。

 今は滅んだ南朝『りょう』の皇帝であった。


 しかし、この皇帝は大変な凝り性であった。


 仏教に傾倒してからは、皇帝でありながらも仏教の戒律に従って菜食粗食を常とし、自ら仏典に対する注釈書を作成するなど高僧のような振る舞いを始めたのだ。

 これは五十代を過ぎてからのことなので、当時の寿命から考えても、死に対する恐れや極楽浄土への過剰な憧れも動機のひとつとしてあったに違いない。


 その程度であれば問題は無く、むしろ立派とも言えよう。

 しかし振る舞いは、徐々に過激になっていった。

 多くの寺を建てるやら、莫大な寄進をするやら。

 ついには皇帝でありながら、突然思い立って『捨身しゃしん(自らを寄進して寺院の奴僕ぬぼくになること)』までする始末。

 それも幾度もであった。


 その度に梁の太子や諸臣は驚き慌て、還俗げんぞくのための莫大な金銭を寺に払って玉体を買い戻した。

 ついにはその支払いが国家財政を揺るがすほどになってしまったのだ。


 当然、皇帝の頭からは政務への関心が薄れており、考えるのはいかにして功徳を積み、極楽浄土に向かうかだけである。


 そのうちに、重大な局面で政治的判断を誤った。

 ついには大乱が起こって捕らえられ、極楽へ往生どころか、幽閉されたまま飢えに悩み、最後に牢番に蜂蜜を所望したが叶えられず、惨めに飢えて亡くなったのだ。

 このことは、伽羅や楊堅にも大きな衝撃を与えた。


 この皇帝には更なる悲惨な逸話がある。


 大いに喜捨きしゃし、寺院を次々建立したので、皇帝えんは『その成果』に大満足であった。

 成果に太鼓判を押してもらうために、ついに、意気揚々と高名な大師を呼びつけた。

 そう、日本でもなじみのある、高名なあの『達磨だるま大師』を呼んだのだ。


 しかしながら全く褒められもせず、問答の結果、大師には「無功徳」つまり「功徳など有りはしない」と断じられてしまっている。

 功徳は喜捨の多少や寺院建立などで計れるものではないのだ。


 仏教に傾倒しすぎた皇帝衍。あれほどに励んだのに、達磨大師の言うとおり、仏からの加護はついに与えられずに獄死した。

 何とも哀れの極みである。


 話戻って三男楊俊であるが、何度も出家を願い出たが、認められなかった。

 くだんの仏教皇帝のような危うさが感じられたせいである。


 そのためか、すっかり傷心して呆けてしまった。

 いや、反転して放蕩になってしまったと言うべきか。


「現世も良いものでございますよ。

 美女を用意致しましたのでどうぞ可愛がってやって下さいませ」


 傷心の皇子に気に入られようと、怪しの者が次々と取り入ってくる。

 それも水面下で。


 すでに正妻の居た楊俊である。

 母に一妻の尊さを叩きこまれていたので最初は抵抗していたが、隙の出来た心では誘惑にあがらいきれなかった。

 手練手管の美女もあてがわれ、若さも手伝ってかすっかり快楽の虜になってしまった。


 そうして心の隙間に入り込んだ佞臣ねいしん達が、日ごとに富貴の甘みを説くのである。


 并州へいしゅう総管に封じられた頃には、父母から遠く離れたを良いことに、地味な正妻などは放っておいて、美妾にねだられるまま贅沢三昧。

 もう仏の教えなど、忘却の彼方である。


 つまり、彼は両親が思っていたような『上人』ではなく中人――――せい桓公かんこうのような人間であったのだ。


 桓公かんこうせいの第十六代君主である。

 宰相管仲かんちゅうが傍らに居れば立派な行いをし、その宰相の死後『三貴』と呼ばれる佞臣どもが傍らに居れば、たちまち国を乱した。


 三男楊俊も仏教が身近にあれば仏教に。

 善行を行う父母と暮らしていればそのように。

 享楽が身近にあれば享楽に。

 優しいというよりは流されやすく、周りの影響を受けて善人にも悪人にもなれる人間であったのだ。


 派遣された地で住まう宮殿も、美妾や奸臣ねいしんに言われるがままに、身分に相応しくないほど壮麗なものを造らせた。

 彼は軽く考えているが、すべて、民を不当に使役し、過分に税を搾り取って建てたのだ。

 そうして女の数も段々と増えていき、宴会三昧の日々を送ったあげく、自身がないがしろにした正妻に毒を盛られて昏倒した。


 一命は取り止めたものの、両親に乱行を知られ、彼はほどなく王都に呼び戻された。


「面目次第もございませぬ」


 楊俊は正気を取り戻し、恥じて頭を床に擦り付けたがもう遅かった。

 自分に厳しい者は他者にも厳しいことが、往々にしてあるものだ。

 悪皇帝に苦しめられ続けた楊堅と伽羅は、子息たちの悪行には殊の外、厳しかった。

 皇子として与えた官職はもちろん取り上げ、取り成そうとする臣もいたが、皇帝堅は決して許さなかった。


 そして、


「朕は九児をもうけた父である。

 しかしながら、子は他にもあって、それは数多の国民である。

 どうして楊俊のみを特別扱いして法を穢せようか」


 と臣に向かって言い放ったのだ。


 楊俊に対しては、


「朕は禅譲されて皇帝となったが、帝位を引き受けたからには、天に恥じぬように振る舞い、国民の手本となるよう心掛けて生きてきた。

 また、心血を注いで国家を興隆させてきた。

 お前は朕の息子でありながら、領民から搾り上げた税で贅沢三昧とはなにごとか」


 と、一喝し、愚息の集めた贅沢品をすべて皇庭に集め、焼き捨てさせた。

 以後楊俊は、毒に侵された若い身を寝床に横たえたまま蟄居ちっきょさせられることとなるのである。


 しかし、幼少時の賢さをひるがえして堕落に走ったのは、実は三男の楊俊のみではなかった。

 王都に住まう、太子・楊勇よう ゆうもまた同じ。

 こちらの方が世継ぎである分、遥かに深刻である。


 この勇もまた、過去には優れ者として有名であった。

 楊堅の子らはすべてそうなのだが、幼いころから父母と共に学問に親しみ、温厚で才があったのだ。

 勇の性格は、それに加えて陽気で寛大であったため、臣下からの評判も高く、特に期待されていた。


 しかし楊堅が皇帝となり、勇が東宮(太子の宮)に移って独立すると、段々とおかしくなってきた。

 まだ二十歳を超えたあたりである。大物ぶりたい年頃である。


 おそらくはであるが、付け入る隙のない皇帝夫妻に取り入るのは『無理』と諦めた奸臣ねいしんどもが、手を尽くしてまだ若く、苦労を知らぬ太子に、富貴の甘みを教え込んだのではないだろうか?


 こうして三男だけでなく、国を担っていく太子までが快楽の前に陥落したのである。








 

第九章はこれで終わりです。

お読みくださりありがとうございました(^^♪

感想、評価くださった方、励みになりました!!


今回のおまけ話は史書についてです。

当時、あるいはごく近い時代に書かれた書物であれば、物凄く正確に書かれていると感じませんか?

ところがそうでもないようです。

現代のウィキなどもそうですが、全部信用するのは危険なことのように思われます。


基本出来事などは合ってる場合が多いのですが、当時の書物は全部手書き。書き写すさいに間違ったりします。

たとえば伽羅の享年きょうねん(数え年での)ですが、『隋書』后妃伝であれば享年五十歳。

『北史』であれば五十九歳と記されています。

主人公には長生きして欲しいので、もちろん結城は五十九歳説押しです。

というか享年五十歳説だと、色々計算すると、一桁の年齢で長女麗華を生んだことになるので流石にありえないと思います(^_^;)


他にも色々な要因によって不正確な情報が書かれているのですが、長くなるのでまた次回に書こうと思います(^^♪



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