第八章 女帝 四
夜空には星はなく、薄ぼんやりとした月が雲を通して微かに見えるのみである。
伽羅は庭に出て、一人夜空を見上げていた。
すぐそばには街路へと繋がる門が黒々とそびえている。
異母弟に会うために密かに使ったこともあるが、今回は外出の支度をしている様子は無い。
だから、外に行くつもりは無いのだろう。
今日は五月二十五日。
独孤陀が猫鬼を仕掛けて四十九日目の、満願の夏の夜である。
満願の日が近づくにつれて、悪帝は体調を崩していった。
それは伽羅が放った間諜、そして夫である揚堅の話からも確実だ。
最後の半月ばかりは高熱にうなされて、腰も立たぬ有様と聞いている。
そしてついに、夜の静寂をわずかに破って間諜からの報が入った。
『悪皇帝贇崩御す』
坊壁を超えて、文が指定の場所に投げ込まれたのである。
伽羅は小石を包んで重しとした文を袖に隠すと、ひっそりと自室に引き上げた。
続いて公式な報がもたらされて、楊堅は当分皇宮に詰めることになるだろう。
楊堅は、悪皇帝の長男・幼帝闡の補佐をすっかり任され事実上、全ての政務を取り仕切っている。
独孤陀の腕は、実に確かであった。
鮮やかすぎて恐ろしいほどである。伽羅はその事に小さく身震いをした。
北周王朝の皇帝はすべて若くして亡くなっているが、悪皇帝が帝位についたのが西暦にして五七八年六月。
譲位を経て崩御したのが二年後の同月。
天下を握ってたったの二年。
彼もまた二十一歳の若さで散ったのである。
臣下たちは、皇帝(天元皇帝)が亡くなったというのに、あからさまにホッとした表情を浮かべていた。
宮中や城下では『荒淫がたたったのだ』と悪しざまに囁かれているようだ。
宇文温の怨霊に取り殺されたのだと言う者もいた。
皇帝崩御の一ヶ月前、尉遅熾繁の元夫・宇文温がとうとう皇帝に対して乱を起こし、戦死している。
宇文温が妻と共に過したのは約四年間。嫁いで来た時はまだ八つだった。
一緒に人形で遊ぶばかりの、幼い妻であった。
「このお人形は、わたくしなの。
こちらのお人形は、だんなさまなのよ。
とても仲良しなの」
幼い声で、嬉しそうに温の手に『旦那様』役の人形を握らせる小さな手。
温が思い出すのはいつもその情景であった。
先帝と共に出征すると決まったとき、尉遅熾繁は夫の袖にすがって泣いた。
寂しく、怖いのだという。
それでも、そのときには十二歳になっていた。
妻として、夫を困らせてはならないと思ったのか、しばらくすると泣き止んだ。
そうして、侍女に頼んで細く美しい紐を何本か持ってこさせた。
「だんなさま。わたくしと一緒に『かざり紐』を編んでくださいませ。
今、街ではやっていると、侍女たちが話してくれたのですわ。
そしてどうぞ、その『かざり紐』をわたくしだと思って、ずっと持っていてくださいましね
わたくしも、だんなさまが無事に帰っていらっしゃるまで、肌身離さず……かならず持っておきましょう」
出征前に幼妻と編み上げた、小さな小さな『同心結』の飾り紐。
それをまだ大切に持っていたこと、それ故に悪帝に激しく『天杖』で打たれたことを伝え聞いた宇文温は、男泣きに泣いた。
妻というよりは、娘のような心持ちで接していたのかもしれない。
しかしそこには確かな愛情があったのだ。
死の間際、彼は悪帝に向かって壮烈な呪いの言葉を吐いたという。
悪帝の乱行を知らぬ者はなく、誰一人としてその『若い死』を不審に思う者はいなかった。
「そういえば、陛下に謀殺された斉王様も、『私は死後、上は天帝様に訴え、下は冥界におられる先帝様に訴えて陛下を誅していただきますぞ』と叫んだとか」
「おお。そうであった。
天帝様、もしくは先帝様が、やっと陛下を誅して下さったか」
荒淫、過度の飲酒、宇文温の呪いのほかに、天誅であるとか、父である先帝が愚息を案じて迎えに来たのだとか――――そんな説までが、まことしやかに流れ出た。
人々はそれらの説に、もっともらしくうなずくのみである。
しかし伽羅だけは皇帝崩御の本当の原因を知っていた。
それは、彼女にとって恐ろしい罪を負った瞬間であったのだ。




