第八章 女帝 三
楊堅が屋敷に戻ってきたのは、昼を過ぎた頃であった。
その寸前に、伽羅は屋敷に滑り込んだ。
身代わりに立てていた腹心の侍女と素早く入れ替わり、男装もすでに解いている。
「伽羅、陛下に拝謁したというのは本当か!」
楊堅は、それはもう、顔を青ざめさせて駆け込んできた。
今日は洗沐日(休暇)ではない。
代理でも立て、何とか駆け戻って来たのだろう。
伽羅はすでに床についていた。
名目上は『寝込んでいる』ということにして『腹心以外の家人』との面会を拒んでいたのだ。
気丈に起きているわけにはいかない。
それに、あの皇帝なら、伽羅が寝込んだと聞いた方が喜ぶだろう。
油断させる必要があった。
妻の額に巻かれた包帯を見て、楊堅は、
「嗚呼!」
と、小さく悲鳴を上げた。
そうして横たわったままの伽羅の手を取って涙ぐんだ。
「話は全て、高将軍から聞いた。
なんという酷いことを。これが『国の父』たる皇帝のすることか」
高将軍とは高熲の事を指す。
極めて能力が高く、清廉な人格であったため揚堅が気に入り、特に信用していたのだ。
高熲はかつて、伽羅の父・独孤信の部下でもあった。年は楊堅より下だと思われるがはっきりとしていない。
後に重要な人物として登場するが、ここでは覚えていなくても良いだろう。
「わたくしのことは良いのです。
傷の手当ても済ませましたし、命を保ったまま館に戻ることも出来ました。
しかしながら、麗華の身が心配でございます」
「聞いたぞ。麗華のことも。
あの『悪皇帝』は、麗華を『天杖』で二百回あまりも打ったとか。
元々後宮の女人に対しても暴力を振るう『蛮人』であったが、あまりにも残酷なことだ。
屈強な武人でさえもこたえるのに、女人にあのような振る舞いをしたら、死ぬことだってありえるぞ。
いくらなんでも、許せることではない」
普段は用心深い楊堅であるが、妻子をいたぶられてさすがに気が高ぶったのか、すでに『悪皇帝』『蛮人』呼ばわりである。
いや、楊堅だけに留まらず、最近は『ここそこで密かに囁かれている名称』ではあった。
「高将軍が懇意の宦官から聞いた話では、あの後、傷の手当さえ終わらない麗華に向かってまた暴言を吐いたのだそうだ。
『楊家の一族は揃って生意気だから、反乱をたくらむに違いない。近いうちに滅ぼしてくれる』と」
「――――そうでございますか」
予想は出来たことだった。
麗華を屈服させるためならば、あの悪皇帝は『どんな手段』でも取るだろう。
「私も明日、宮中に参内するよう申し付けられている。
今日は急病を装って帰宅したが、明日はそうは行かぬだろう。
麗華の身が案じられるからな」
夫の言葉に、伽羅はしばらく考え込んだ。
「では、平静を装いながら、悪皇帝の前ではわたくしのことを貶めて下さいませ。
『愚妻がでしゃばって腹立たしい』でもよろしゅうございますし、『女の身の浅はかさにあきれた』でもよろしゅうございます。
そうでもしないと、あの悪帝は、本当に楊家を滅ぼしかねませぬ。
悪皇帝を満足させて、時間を稼いで下さいませ。
わたくしに、考えがありまする」
楊堅は「ふうむ」と考え込んだ。
愛妻を貶めるなど、楊堅には到底出来難い。
しかし、やらねば麗華の身に何が起こるやら。
結局、楊堅はその案を飲み、心で泣いて、悪皇帝の前では妻を貶めた。
まわりの臣下たちは事情がすでに呑み込めている。楊堅が愛妻家であるのも知れ渡っているので気の毒そうな視線を彼に向けたが、悪皇帝は大いに満足したようであった。
その間にも、独孤陀の準備は整えられていった。
ことが成るのは、順調に行けば、四十九日後。
独孤陀には昼の仕事もあるが、夜になると、熱心に呪った。
その間に、独孤陀が思い出すのは『母』のこと。
夫たる独孤信が捕らえられ、すぐに母は宇文護を呪殺するための支度を整えた。
だが、その願いは叶わなかった。
『猫鬼』を操る術は、とにかく準備に時間がかかる。
満願までは四十九日間。夜毎、高度な集中力も要する。
母親が呪いを始めて間もなく、独孤信が自殺させられた。
突然の報に、母は大いに嘆いた。
泣いて、泣いて、そのために心乱れ、母の呪術は破れてしまった。
呪術が破れるとどうなるか。
その呪いは術士に還るのである。
世間的には『病死』であるが、本当は独孤陀の母は『呪い』に食い殺されて死んだのだ。
祖母も愛娘の死によって心弱くなり、体を壊して数年後に亡くなった。
独孤陀は、そのことを異母姉には言わなかった。
知れば、姉は弟の身を案じてためらうだろう。
しかし一人きりになった独孤陀にとっては『姉の幸せ』こそが、自分の幸せなのだ。
そのためには『悪皇帝の排除』が必須であった。




