第三話 苦肉の策
その日の夜、レオノーラは自宅で祝福の検証を始めた。
神授の祝福。それは、歴史上ごく限られた人物にしか与えられたことのない、極めて希少な恩恵である。伝承に残る神授の戦士たちは、いずれも常人をはるかに超える力を持っていたという。
自分にもそれが授けられた。軍人として、これほど喜ばしいことはない。しかも、女神は自分の長年の研鑽を認め、その願いに応えるために授けてくださったのだ。
身に余る光栄である。
……。
光栄ではあるのだ。
レオノーラは、まず普段の鎧を身につけた。長年の戦場をともにしてきた黒鉄の重甲冑。幾度もの改修を重ね、彼女自身の身体に合わせて調整された、まさに愛用の一領である。
実際、身につけた瞬間から身体が軽く感じられた。いつも以上に力がみなぎり、重い大剣も容易に振るえる。どうやら祝福は、確かに働いているらしい。
次に、彼女は衣装棚から一つの小物を取り出した。プリムローズの袖口を再現した、桃色の布飾りである。原典の衣装を研究するために製作したもので、細部の再現には相当な手間をかけている。
それを腕に巻き、再び大剣を手に取った。
……。
明らかに違う。
先ほどまでとは、力の入り方がまるで違った。
レオノーラは布飾りを外し、再び身につけた。何度繰り返しても結果は同じだった。
愛する装いほど、強くなる。
女神の言葉に偽りはない。そして、レオノーラは理解した。最も強くなるためには、最も愛する衣装を着ればよい。単純な話だ。
……。
いや。
そんなことができるはずがない。
レオノーラは布飾りを外し、しばらく考え込んだ。やがて、一つの方法を思いつく。
完全な衣装を着る必要はないのではないか。この小物だけでも、十分な強化が得られている。ならば、普段の軍装に部分的な意匠を取り入れればよい。
それならば、軍人としての体裁を維持できる。
*
翌日から、彼女は密かに装備の改良を始めた。
最初に手を加えたのは、鎧の裏地である。
黒鉄の胸甲の内側に、プリムローズの衣装に使われているものと同じ色合いの布を縫い付けた。
もちろん、ただ桃色ならよいというわけではない。原典の生地は、単純な桃色ではないのだ。わずかに青みを含んだ淡い色調と、光の当たり方によって柔らかく変化する陰影。あの絶妙な色合いがあってこそ、プリムローズの衣装は成立している。
レオノーラは何種類もの布を比較し、最も近いものを選んだ。
もっとも、原典の衣装そのものには到底及ばない。そもそも、あの可憐な衣装の一部分を、無骨な黒鉄の鎧の裏側へ縫い付けるなど、意匠としては極めて不本意である。
しかし、祝福の効果は確かに向上した。
そして何より、外からは見えない。
これならよい。
……。
よい、はずだ。
レオノーラは、桃色になった鎧の内側を見つめた。
ふと、いつもの訓練場で新兵を点検する自分の姿が脳裏をよぎる。
『貴様ァ! そのクソみたいな桃色の裏地は何だ!!!』
……。
レオノーラは、静かに鎧を裏返した。外側は、いつもどおりの黒鉄である。
……。
問題ない。戦闘能力は向上している。それ以上、何を問題とする必要があるというのか。
彼女は鎧を元の位置へ戻した。
*
それからしばらくして、レオノーラは次の改良に取りかかった。魔王軍との戦いが続くなか、さらなる戦闘能力の向上が必要になったためである。
今回、手を加えるのは胸当てだった。
プリムローズの衣装には、胸元に美しいハート形の飾りがある。中央に星を抱いた、実に優美な意匠である。その造形を鎧の胸当てへ取り入れる。
無論、原典の形をそのまま再現できるわけではない。金属製の胸甲に装着する以上、強度や重量、剣の滑りなども考慮しなければならない。何度も図案を引き直し、ようやく実用に耐える形状へ落とし込んだ。
完成した胸当てには、桃色のハートが付いていた。
……。
レオノーラは、それを見つめた。
違う。まったく違う。
本物はもっと繊細で、衣装全体の造形と美しく調和しているのだ。こんな無骨な鉄板に貼り付けたハートなど、原典の足元にも及ばない。
しかし、中央に配した小さな星の形状だけは、なかなかよく再現できている。
あの星飾りが舞台の照明を受けて輝く場面は、実に見事だった。とりわけ第三幕、プリムローズが両手を胸元で重ねる場面など――
……。
いや。
今は胸当ての話だ。
レオノーラは、姿見の前に立った。
黒鉄の重甲冑。その胸元には、桃色のハート。
……。
ふと、訓練場での自分の怒声が脳裏に響いた。
『貴様ァ! その胸のクソみたいなハートは何だ!!!』
……。
『貴様は戦場へ何をしに行くつもりだ! 恋文でも配る気か!!!』
……。
『そのふざけた飾りを胸に付けて、敵に何を伝えたい!!!』
……。
レオノーラは目を閉じた。
その問いに、自分ならどのような言葉を浴びせるか。考えれば考えるほど、いくらでも思いついてしまう。何しろ、そうした罵倒を何十年も新兵に浴びせ続けてきたのだ。
しかし、その直後。もう一つの言葉が脳裏によみがえった。
『いいか!! 貴様らに必要なのは、立派に見える装備ではない! 生き残るための装備だ! わかったか!!!』
……。
まったく、その通りだ。
このハートには、祝福による明確な強化効果がある。軍装にとって最も重要なのは、実用性である。ならば、採用すべきだ。
……。
レオノーラは、鏡の中の自分を見つめていた。
しばらくして、静かに胸当ての留め具を締め直した。
*
翌朝。
「……隊長」
「何だ」
副官セルマが、何かを言いかけた。その視線は、明らかにレオノーラの胸元へ向けられている。
……。
桃色のハート。
……。
「……いえ。何でもありません」
「……そうか」
セルマは、いつもどおりの無表情に戻った。レオノーラもまた、何事もなかったかのように歩き始めた。
……。
その日の訓練は、いつもより少しだけ厳しかった。
それから数日。祝福の効果について検証を重ねるうちに、レオノーラは新たな事実を確信しつつあった。
装いに対する愛情が深いほど、効果は大きい。そして、原典を強く思い起こさせる意匠ほど、より強い効果が得られるらしい。
魔王軍の攻撃は日増しに苛烈さを増している。現在の装備のままでは、いずれ押し負けることが目に見えている。
ある夜、レオノーラは資料棚から一枚の絵を取り出した。
そこには、プリムローズの象徴である星うさぎの頭飾りが描かれていた。ふんわりとした、長い兎の耳。先端がわずかに内側へ垂れた、実に愛らしい形状である。
……。
レオノーラは、しばらくその絵を見つめていた。




