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パルミナがグレアムと初めて出会ったのは、彼が同僚に連れられ、パルミナが働く店を訪れたときだった。
大通りから一本入った裏通りに、その店はあった。
上品で落ち着いた雰囲気の店内で、美味しい食事と酒を楽しめると評判の店だった。
勤務を終えた王宮の騎士たちも、よくその店を利用していた。
グレアムも、そんな客の一人としてやって来た。
銀灰色の髪に金色の瞳を持つグレアムは、周囲の騎士たちの中でも目を引く存在だった。伯爵家次男である彼は、身のこなしも洗練されており、パルミナはひと目で彼に心を奪われた。
それからは、グレアムが店を訪れるたびに積極的に声をかけ、客と給仕という関係から一歩踏み込もうと躍起になった。
そうして、少しずつ距離を縮めていった。
そんなパルミナの様子に、周囲も二人の仲を揶揄するようになったが、それ以上の進展はないまま月日が過ぎていった。
そんな中、グレアムに番が見つかった。
相手は、パルミナと同じ平民の女性だった。貴族の令嬢ならまだしも、平民の女が番というだけで彼の隣に立つことができる。
パルミナには、それがどうしても受け入れられなかった。グレアムを諦めるには、彼への気持ちが大きくなりすぎていた。
グレアムが番となった女性について話すときだけは、普段は固い表情がふっと和らぐ。
その姿を見るたび、パルミナの胸には嫉妬が積もっていった。
自分のほうが彼を理解できる。
自分のほうが彼にふさわしい。
――もし、番の絆さえなければ。
そう考えるようになった頃だった。
ある夜、閉店間際の店内で、一人の男が酒を飲んでいた。
男は外套をまとい、フードを目深にかぶっているため、顔はよく見えなかった。
隅のテーブルで酒を飲む男に、閉店の時間だと告げるために近付くと、その男はグラスを置き、パルミナに話し始めた。
「君、知ってる? 番になれる香水があるんだよ」
パルミナは、唐突な男の言葉に訝しげに眉をひそめた。
酔っぱらいの戯言だと、聞き流そうかと思ったが、『番』という言葉を無視することはできなかった。
「……番になれる香水?」
「番になれる、というのは少し語弊があるかな。まるで番を思うように、その香りに強く惹き寄せられるんだ」
男は、小さな瓶をテーブルに置いた。
「たとえ本当の番がいたとしても、その衝動に抗えなくなるらしいよ。……それこそ、香りをまとった相手を番だと思い込むほどにね」
「そんなものがあるなんて、聞いたことがないわ。それが本当なら、番だらけになってしまうじゃない」
「表には出まわらない、貴重な香水だからね。……これを身にまとえば、君も愛しい人の番になれるかもしれない。まあ、信じるかどうかは君次第かな」
男はそれ以上説明することなく、テーブルに酒代を置くと、そのまま店を出ていった。
気付けば、小瓶だけがテーブルに残されていた。
パルミナは、しばらくそれを見つめていた。
胡散臭い話だ。無視して捨ててしまえばいい。
そう思いながらも、どうしても小瓶から目を離せなかった。
ただの冗談だと思った。
……でも、もし本当だったら?
彼女は、そっと小瓶を手に取った。
中には、無色透明の液体が揺れている。
パルミナはそれを見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
パルミナの働く店にグレアムが顔を出したのは、それから数日後のことだった。
あの男の話を信じたわけではない。
それでも胸の片隅に残っていた期待を振り払えず、パルミナは香水をほんの少しだけ身につけてみた。
淡い期待を胸に、グレアムのテーブルへとゆっくり近付いていく。
最初、グレアムは同僚たちと談笑していた。
しかし、パルミナがそばに来た途端、ぴたりと会話を止めた。
一瞬押し黙ったかと思うと、彼は勢いよく立ち上がり、彼女の肩を掴んだ。
あまりにも唐突な行動に、パルミナは驚き、その場で硬直した。
グレアムは何かを言おうとしているようだったが、口を開いたり閉じたりするばかりで、言葉にならない。
やがて彼は、パルミナの腕を強引に掴んだ。
そのまま彼女を引きずるようにして、店の外へと連れ出していく。
目の前で起きた出来事に、周囲の客も同僚の騎士たちも、ただ呆然と二人を見送ることしかできなかった。
グレアムに腕を掴まれたまま、近くにあった宿へと連れて行かれた。
香水のあまりの効果に、パルミナ自身も驚愕した。同時に、長く募らせた思いが報われたことに歓喜した。
その日から、彼女は香水の小瓶を肌身離さず持ち歩くようになった。
昼近い陽射しが差し込むベッドの上で、グレアムが目を覚ますと、傍らではパルミナが静かな寝息をたてて眠っていた。
昨夜のことは、朧げながら覚えている。
パルミナに近付いた瞬間、グレアムの意識は彼女の存在だけに捕らわれていった。
彼女から漂う甘い香りが鼻腔をくすぐり、得も言われぬ高揚感が込み上げてきた。
胸の奥から突き上がる衝動に戸惑いながらも、抗うことができなかった。
彼女から目を離せない。触れたい。自分のそばに置きたい。
今まで、誰かに対してこんな激しい感情を抱いたことはなかった。
――この胸を焦がすような衝動は一体……。
グレアムの脳裏に、リゼットの顔が浮かんだ。
彼女と出会ったとき、確かに番の絆を感じた。
だが、リゼットと過ごす時間は、もっと穏やかなものだった。
陽だまりのような温かさがあり、そばにいるだけで心が安らいだ。
彼女に番だと告げたとき、リゼットは戸惑い、なかなか心を開いてはくれなかった。
少しずつ距離を縮め、彼女の警戒心を解きながら、互いの心を近付けていく。
手をつないだときの、彼女の照れた顔。
自分の言葉に、恥ずかしそうに笑う姿。
そうした小さな積み重ねが、二人の絆を深めていくのだと信じていた。
リゼットのペースに合わせ、彼女の覚悟が決まるまでゆっくりと待つことに、焦りはなかった。
けれど、パルミナは違った。
彼女の香りを感じるだけで胸の奥が熱くなり、ひとときも離れていたくないほどの焦燥に駆られた。
触れれば、もっと強く求めたくなる。
満たされるどころか、欲求は際限なく膨らんでいった。
理性ではなく、本能が彼女を求めている。
これほど強く、抗いがたい衝動こそが、真の番の絆なのではないか。
ならば、リゼットとの絆は何だったのだろう。
彼女を愛していると思っていたし、永遠に共に生きていこうと誓ったことにも、嘘はなかった。
それなのに、パルミナを前にすると、これまで知らなかった衝動に心を支配される。
この違いは、一体何なのか。
考えれば考えるほど、グレアムの中で疑念が膨らんでいった。
――リゼットは、本当の番ではなかったのではないか。
そう考えれば、すべてに説明がつくような気がした。
穏やかで温かな感情を、番の絆だと思い込んでいた。
自分は、番を見誤っていたのだ。
本物の番であるパルミナに出会うまで、それに気づかなかった。
リゼットとの絆が偽物だったのなら、彼女と過ごした時間も、交わした誓いも、すべて間違いだったことになる。
パルミナこそが真の番なのだから。
リゼットのせいで、本物の番に出会うのが遅れてしまった。
そんな歪んだ考えは、いつしか彼女への憎しみへと変わっていった。
そして、リゼットを偽物の番だと断じ、彼女に別れを告げた。
パルミナを正式な伴侶として、父に紹介する準備を進めていた頃だった。
彼女がそばにいても、以前ほど強い衝動を感じなくなっていた。
最初は、疲れのせいだと思った。
彼女から漂う、意識を酩酊させるような香りも、以前ほど強く感じられない。
彼女に向けていた情熱も、いつしか色褪せ始めていた。
その変化に、次第に苛立ちと不安が募っていった。
ある夜、パルミナの部屋を訪れたとき、グレアムは決定的な違和感を覚えた。
彼女が近づいても、何も感じなくなっていたのだ。
胸の奥にあるはずの番の絆が、まったく感じられない。
「……パルミナ」
「はい、グレアム様?」
「こちらへ来てくれ」
彼女が近づくと、グレアムはその身体を自分の胸に抱き寄せた。
あの甘い香りはする。だが、胸を震わせるような高揚感は、もう感じられなかった。
「……どういうことだ?」
グレアムは彼女を引き離し、凝視した。
そのとき、パルミナの首元から覗いていた銀の鎖が目に留まった。胸の奥に、小さな疑念がよぎる。
グレアムは鎖を掴み、強引に引きちぎった。
「それはっ……!」
パルミナの顔から、さっと血の気が引いた。
鎖の先には、小さな瓶がついていた。
彼女がいつも身につけているものだ。
グレアムは、抱いていた違和感の正体がそこにあるような気がした。彼は有無を言わさず、小瓶の蓋を開ける。
そこから漂ってきたのは、あの『番の香』だった。
だが、残りが少ないせいなのか、それとも香りに慣れてしまったせいなのか、以前のような衝動は湧き上がらなかった。
「答えろ。お前は、本当に俺の番なのか?」
しばらくの間、沈黙が続いた。やがて、その沈黙に耐えかねたように、パルミナは両手で顔を覆った。
「……それは……。私は……あなたに選んでほしかったのです。グレアム様の番として……」
グレアムは突き刺すような視線を彼女に向けた。
「俺を騙したのか」
「違います! 私は本当にあなたを愛しています!」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
これまでパルミナには一度も聞かせたことのない、荒々しい怒声が部屋中に響き渡った。
「グレアム様! お願いです、私の話を聞いてください!」
パルミナは顔を青ざめさせ、必死に彼の腕を掴んだ。
「離せ!」
「私は、本当にあなたを愛しているのです……」
「俺を騙した女が何を言うか!」
「それは……!」
パルミナは言葉に詰まった。
ほんの少しの好奇心だった。それなのに、彼が自分を求めてくれた。
愛していると言われ、夢心地になった。
その幸せに溺れ、真実を打ち明けることが怖くなった。
グレアムとのすべてを失うのが怖かったのだ。
「……お前の顔は、もう見たくない」
グレアムは彼女を睨み据え、冷たく言い放った。
「二度と俺の前に現れるな」
その言葉に、パルミナは呆然とした。
全身から力が抜け、壁に寄りかかる。
「……そんな」
やがて、彼女はその場に崩れ落ちた。
「どうして……」
しかし、グレアムは振り返らなかった。
部屋を出たグレアムの脳裏に、苛立ちとともに、懐かしい笑顔が浮かんだ。
――リゼット。
彼女こそが、本当の番だ。
今なら分かる。
あの偽物の香りに惑わされ、真の番を手放してしまったのだ。
彼女に会いたい。
以前のように、二人だけで過ごしたい。
俺たちこそが、真の番なのだから。
「……リゼットを迎えに行かなくては」
真の番である自分を、彼女は待っているはずだ。
グレアムは、そう信じて疑わなかった。
すぐに、グレアムは伯爵家の情報網を使い、リゼットの消息を探した。
調べたところ、彼女は現在、カブラギ商会で働いていることが分かった。
そして、その商会を率いているのが、シオン・カブラギだった。
グレアムはその名を聞いた瞬間、悔しげに顔を歪めた。
シオンはリゼットの幼馴染だ。
昔から、彼女のそばにいた男。
グレアムがリゼットを番だと告げた後も、あの男は皮肉げに笑い、俺達の邪魔をしてきた。
そして今も変わらず、彼女の隣にいる。
グレアムは拳を強く握りしめた。




