8
私はシオンを意識しないように、なんとか仕事に集中した。……集中したつもりだった。
「リゼット、そこの報告書とってもらえる?」
「え、ええ」
書類を渡すとき、指先がシオンの手に触れた。その瞬間、顔がサッと熱くなり、私はその手をすぐに引いた。
シオンに触れた指先も、じんわりと熱を帯びている。
今までだって、シオンに触れることなんて何度もあったのに、なんでこんなに熱いのだろう。
「リゼット? なんだか挙動不審だね? 体調でも悪いの? 顔も赤いし」
シオンは心配そうに私を覗き込み、額に手を伸ばしてきた。私は思わず一歩下がり、その手を避けた。
「大丈夫よ。熱なんかないわ」
「本当に? 何かあったら、すぐに言ってよ?」
シオンが少し目を細め、気遣わしげに私を見つめる。
その眼差しが、なんだか気恥ずかしくて、私は目をそっと逸らした。
以前なら何とも思わずに見つめ返せたのに、今は緊張してしまい、目を合わせることさえ難しい。
仕事中のシオンは、私の知っている彼とは少し違う。
取引先との交渉では、相手の言葉を穏やかに受け止めながらも、決して譲るべきでないところでは一歩も引かない。
部下の失敗には厳しいが、必要以上に責めることはしない。失敗を取り戻すための道筋を、きちんと示している。
私の知らない顔。
私の知らない彼の世界。
それを知るたび、シオンがひどく大人の男性に思えて、落ち着かなくなった。
そして、女性たちが彼に惹かれる理由も、以前よりよくわかるようになってしまった。
自分の気持ちは、もう疑いようもない。
私は、シオンにどうしようもなく、惹かれている——
そう気づいた途端、今まで見ないようにしていた気持ちが溢れ出した。
彼が私のために何かをしてくれると、特別な存在でいられるような気がする。
彼の隣に別の女性がいると、胸が苦しい。
ずっと一緒にいた幼馴染を、いつの間にか、こんなにも好きになっていた。
「リゼット、家まで送るよ」
仕事が終わると、シオンはいつも私を家まで送ってくれる。
疲れているのはシオンも同じだからと断っても、彼は笑顔で譲らなかった。
いつの間にか、こうして毎日二人で帰ることが当たり前になっていた。
けれど、自分の気持ちに気が付いた今は、どんな顔をしてシオンといたらいいのか分からなくなってしまった。
外はすっかり暗くなり、街灯が石畳を照らしている。私達は肩を並べ、街路樹のある通りをいつものように歩いていた。
「今日は疲れた?」
私に歩幅を合わせて歩くシオンが、静かに尋ねた。
「……大丈夫よ。疲れてないわ」
「そう? 口数が少なかったよね」
「……ちょっと、考えごとをしてたから……」
シオンの顔を見ると変に意識してしまいそうで、前を向いたまま返事をした。
「……へえ。僕にも、言えないことなの?」
低く、昏い声が私の耳に届いた。
その質問には答えられず、下を向いて黙っていると、シオンの足が止まった。
「今日はずっと、僕の目を避けてるよね? そのことと関係があるの? ……ねぇ、教えてよ。リゼット」
先ほどより低くなった声の響きに、私は思わずシオンを見上げた。
そこには、瞳の奥に仄暗い光を灯したシオンが、まっすぐに、瞬きもせず私を見つめていた。
「……それは……」
どんな顔をして、話せばいいのか分からなかった。私は少し目を伏せて、何度も口を開きかけては閉じた。
「……シオンは、心に決めた人がいるの?」
思わず口にした瞬間、私の心臓はバクバクと大きな音を立て始めた。
聞くつもりなんてなかったのに、聞くのが怖かったはずなのに。
「私、知らなくて……。シオンにそんな人がいるって……」
一度、口にしてしまったら、誤魔化すことなど出来なかった。
「盗み聞きするつもりじゃなかったんだけれど、ごめんなさい……」
「……」
シオンは片手で顔を覆い、押し黙った。怒っているのか、呆れているのか、その表情は見えない。
「それで?」
「え?」
「君は、どうしてそんなことを聞くの?」
静かな問いかけに、私は答えに詰まった。
どうして? そんなのは決まっている。
あなたが誰かのものになってしまうのが嫌だから。
私以外の女性を好きになってほしくないから。
ずっと、私の傍にいてほしいから。
そんな自分勝手な気持ちが胸の中を渦巻く。
けれど、それを口にする勇気はなかった。
「……私の知ってる人かな、って……」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも情けないほど小さかった。
シオンはしばらく黙ったまま、静かに私を見ていた。やがて、困ったような顔で笑みを浮かべた。
「……リゼットの、よく知ってる人だよ」
私は大きく目を見開き、愕然としてシオンを見る。彼は眉尻を下げたまま、私を見つめていた。
「その人は、ずっと僕の隣で優しく笑って、泣いて、忙しい人なんだ」
瞼が震え、泣きそうになるのをこらえながら、じっとシオンの言葉を聞いた。
「ずっと大切に思ってたのに、ある時言ったんだ。『番が見つかったの』ってね」
「……っ!」
紡がれたシオンの言葉が矢のように胸をついた。
私は息が止まりそうになり、胸を押さえた。
『番が見つかったの』、それは、その言葉は——。
「その人は優しくて残酷な人だ。僕の気持ちに気付きもせず、他の男の話をする」
シオンの口元には、もう笑みは残っていなかった。
私はそんな彼へかける言葉が見つからず、唇を震わせた。
「……それでもっ! それでも、ずっと隣にいたかったんだよ、僕は! 君が、アイツを見ていても、僕はただの幼馴染でも、それでも、ずっと傍にいるために、一緒にいるために……。離れるなんて選択肢は、見つからなかったんだよっ」
堰を切ったように思いを吐き出すシオンに、私は打ちのめされた。
居ても立ってもいられず、彼に縋るように胸元へしがみついた。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、シオン」
シオンの思いが濁流のように押し寄せてくる。
それを受け止めようと、私はただ必死に彼の胸にしがみついていた。
「謝らないで、リゼット。君が悪いわけじゃないんだ」
シオンの手が私の肩に回る。
そして、しがみついていた私の身体を、優しく引き離した。
「君への思いは僕だけのもの。番とか関係なくて、僕が育ててきた感情なんだ。辛い気持ちも含めてね。誰にも奪えないものだ」
そう言って、彼はほんの少しだけ私から距離を取った。
「今も君に答えを求めるつもりはないよ。僕の気持ちを知ったからって、無理に何かを変えなくていい」
その言葉に、私は胸を締めつけられた。
私は、彼の何を見ていたんだろう。
ずっと傍にいてくれたのに。
ただ甘えて、泣いて、自分のことばかり話して。
彼がどんな気持ちで私の傍にいてくれたのか、考えようともしなかった。
グレアムの件もそう。
自分の辛さばかりを吐き出して、寄り添ってくれた彼の気持ちを考えもしなかった。
そして今も。
私は、自分の気持ちばかり優先してきた。
勝手に妬いて、気持ちを持て余して、彼を避けていた。
シオンがどんな思いで私と向き合っていたのか、知ろうともしなかった。
彼はこんなにも長い間、私の隣にいてくれたのに……!
私を見放すことなく、ずっと。
彼だけは、いつだって傍にいてくれた――。
「……ごめんなさい。シオン」
「リゼット。だから謝らなくていいよ」
シオンの言葉に、私は涙をこらえながら首を横に振った。
「ううん、言わせてほしいの。気付かなくてごめんなさい。……そして、私の傍にいてくれてありがとう」
もう、シオンから目を逸らさなかった。
「シオンがいてくれることを、いつの間にか当たり前のように思っていたわ。東国に行った時も、お母さんを亡くした時も、グレアムに振られた時も……」
胸の中にあった思いが、少しずつ言葉になっていく。
「シオンがいつだって隣にいてくれることに、なんの疑いも持たなかった……。でも、そうじゃなかったのにね。全部、シオンが私のためにしてくれたのに……。シオンはいつも、私の気持ちを優先してくれていた。それなのに、私は自分のことばかり考えていた」
言葉を紡ぐたび、胸の奥で、何かがストンとはまっていくような気がした。
「私ね、ずっとシオンのことが好きなの」
口にした瞬間、その気持ちは確かなものになった。
「私は、ずっとシオンが好きなのよ。隣にいることが当たり前過ぎて、気付くのが遅くなってしまったけれど、幼いころからシオンのことが一番だった」
溢れる涙を止めることなく、私は言葉を続けた。
「グレアムを番だと思いながらも、シオンの隣に居続けたのは、あなたと離れたくなかったから……。グレアムに偽物と言われた時も、気付いたらシオンの家に向かっていたの」
シオンは息をのみ、静かに言葉を聞き入っている。
「薬を飲んだ後、グレアムとの思い出が薄れていく中で、何度も浮かんできたのは、あなたとの思い出ばかりだった。番の絆がなくなっても、私の心には、幼い頃から積み重ねてきたあなたへの思いが溢れていたの……」
微動だにしないシオンへ一歩近付き、私は彼の手をそっと両手で包み込んだ。
「私はシオンのことが誰よりも大好きです。幼いころからずっと、大好きなの」
シオンは何も言わず、ただ、その瞳に私を映していた。
いつも浮かべている笑みは消えている。
その表情はひどく真剣で、どこか切なげで、私は初めて、彼の心の奥に触れたような気がした。
「……本当に?」
ようやく聞こえた声は、かすかに震えていた。
「ええ」
「僕が好きなの?」
「シオンが好き」
「幼馴染として?」
身体中の熱が顔に集まるのを感じながら、私は何とか言葉にした。
「……男性として、シオンのことが大好きです……」
「……っ!」
返事のないシオンに不安になり、私は彼を見上げた。
視線の先では、シオンが顔を真っ赤にして、口元を押さえていた。
「……僕はね、リゼット。君を甘やかすし、大事にするし、離さないよ」
「ええ」
「嫉妬もするし、縛りつけるし、離れないよ」
「……ええ」
「それでもいいの? ……いや、もう遅いね。今さら逃げ出すことなんて、許さないから」
シオンは目を閉じ、長く息を吐くと、私の手を取った。
大きな手だった。
子供の頃、私の手を引いて歩いてくれた手。
泣いている私に、何も言わず差し出してくれた手。
今、その手が、少しだけ震えている。
「リゼット。僕は、ずっと君が好きだった」
彼は私の手をそっと握った。
「君が僕に初めて声をかけてくれた日から、ずっと」
懐かしい記憶がよみがえる。
異国から来たシオンに、周りの子供たちはなかなか近付こうとしなかった。
けれど、私は彼に声をかけた。
シオンの黒い髪が綺麗だと思ったから。
彼のアッシュグレイの瞳が、どこか寂しそうに見えたから。
そして、彼から目が離せなかったから。
「……あの時から?」
彼の指が、私の指に絡む。指先から伝わる彼の熱を、私はしっかりと受け止める。
「ああ。僕はあの時からずっと君だけだった。君だけを求めていたんだ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……私もシオンだけを求めたい」
その瞬間、彼の瞳の奥が揺れた。
いつもの余裕も、飄々とした笑みもなく、ただ縋るような表情で、私を見つめていた。
「本当に?」
「ええ。遠回りしてごめんね。私がもっと早く気付いていれば、番の絆に気持ちを傾けることもなかったのに……。待ち続けてくれてありがとう、シオン」
シオンが、絡み合った指を強く引き寄せた。
次の瞬間、温かな腕が私を包み込んだ。
懐かしい香りがする。子供の頃から知っているシオンの匂い。
この場所こそ、ずっと私が求めていた場所だったのだと気付く。
やっと、ここに辿り着けた。
私は腕を伸ばし、シオンの背中にそっと手を回した。
「ここが私の居場所だったのね」
彼の腕に、少しだけ力がこもった。
顔を上げると、シオンは真剣な眼差しで私を見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を近付ける。
触れた唇は、思っていたよりも優しかった。
ほんの短い触れ合いだったのに、離れたあとも唇は熱く、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
かつて、私は番の絆こそが、愛の証だと信じていた。
けれど今、私は別の道を歩き始めている。
定められた番の絆ではなく、私自身が長い時間をかけて育て、選んだ絆を。
私はシオンを見上げた。
「シオン」
「ん?」
「これからも、ずっと傍にいてね」
彼は一瞬だけ目を見開き、それから、誰よりも幸せそうな顔で微笑んでくれた。
「もちろん。……この先も、ずっと傍にいるよ」
街灯の明かりに照らされながら、私たちはしばらく身を寄せ合っていた。




