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カブラギ商会で働き始めてしばらくが過ぎた。
以前の職場と同じ業務内容を任され、慣れるのに時間はかからなかった。
また、シオンと同じ職場で働くことで、彼の実業家としての一面を知ることにもなった。
早朝に出勤したシオンは、まず届いていた数紙の新聞にざっと目を通す。
気になる記事にはチェックをつけ、必要に応じて秘書のリーに指示を出していた。
その後はミーティングを行い、各部門にも自ら顔を出して、進捗状況を確認する。
カブラギ商会の支部代表として、各方面との折衝や商品の買い付け、仕入れの調整もこなしていた。
もちろん、数字の確認も自分で行い、主要な案件にはシオン自身が足を運んでいる。
「僕は要所を確認をしているだけだよ。あとは優秀な部下たちがやってくれるからね」
そうやって、シオンは何でもないことのように笑っていた。
細かな調整にまで目を配り、問題が起こる前に動き、部下たちの働きやすさにも気を配りながら、商会全体を見渡している。
それが簡単にできるようなことではないのは、私にも分かった。
「シオンって、すごいわ。仕事の細かいところまで気が回るのね。それに私と三歳しか違わないのに、王宮や貴族の方々を相手にしても、まったく物怖じしないんだもの」
「どうしたの、急に? 少しは見直してくれた?」
「少しどころじゃないわ。シオンのこと、尊敬しているのよ」
私がはっきりと言い切ると、シオンは一瞬、言葉に詰まった。
「それは……どうもありがとう?」
少しキョトンと目を開き、すぐに照れたように頭をかいた。
「何だか、調子が狂うけれどね」
そんなシオンがおかしくて、私たちは顔を見合わせて笑った。
昔から変わらない笑顔。けれど、仕事中の彼は、私の知っている幼馴染とは少し違って見えた。
頼もしくて、周囲から信頼されていて、私の知らない顔をいくつも持っている。
そして、そんなシオンの新たな一面を知る機会は、仕事上だけではなかった。
「カブラギ様、先日ご紹介いただいた商品ですが、ぜひ私どもの店に卸していただけますか?」
「承知しました。契約書を用意いたします」
「ありがとうございます。それと、この後、お食事でもいかがでしょうか?」
「申し訳ありません。今日はこの後、大事な会合がありまして。時間が取れそうにありません」
「そうですか……。では、落ち着いた頃に、またお誘いしてもよろしいでしょうか?」
「そうですね。機会があれば、ぜひ」
女性は頬を赤く染め、シオンを見つめていた。
シオンはいつもと変わらない飄々とした笑顔で応じている。
仕事の話をしていただけだし、食事に誘うくらい珍しいことでもないだろう。
そう思いながらも、二人の様子が気になって仕方がなかった。
「それでは、失礼いたしますね」
女性が去り、その背中を見送るシオンの表情はどこか冷めていて、特別な感情など見当たらなかった。
それにほっと息をつき、我に返った。
私は一体何を安心しているのだろう。
自分でも理由が分からず、慌てて視線を外した。
こうした女性とのやり取りは、何度も見かけることがあった。
シオンは若くして商会を切り盛りする実業家だ。
目を惹く美貌と、スマートな物腰で目立つ存在なのも知っている。
子供のころから、密かにシオンに憧れている女の子達がいたのも気付いていた。
シオン自身は、そういったことに興味がないようで、告白されてもすべて断っていたので、気にしていなかった。
それなのに、今はどうして、こんなにも彼のことが気になってしまうのだろう
「リゼット、一緒に休憩しない?」
周りが出払い、私が一人で事務室に残っていると、シオンがやってきた。
彼は近くにあった椅子を引き寄せ、そこに腰掛けると、私の机の上に綺麗な装飾の入った菓子箱を置いた。
「取引先から、焼き菓子をもらったんだ。一緒に食べようよ」
「え? 嬉しい!」
即答すると、シオンは目を細めて苦笑した。箱の中には、私の好きなバウムクーヘンが個包装になって入っていた。
「ありがとう、シオン」
お菓子を一つ受け取りながら、自然と笑みがこぼれる。
「ところで、仕事はどう? 困っていることはない?」
「大丈夫。みんな親切にしてくれるし、仕事も楽しいわ」
「それなら良かった」
シオンは安心したように頷いた。
私はバウムクーヘンを頬張りながら、ちらっとシオンの顔を盗み見た。
アッシュグレイの瞳を縁取るまつ毛は長く、少し切れ長の目元は、この国ではあまり見ない涼やかな色気を含んでいる。
中性的でありながら、精悍さも持ち合わせるシオンの美貌をあらためて意識して、顔に熱がこもった。
「どうかした? 僕の顔に何か付いてる?」
首をかしげて、不思議そうに覗き込んだシオンに、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「違うの。シオンの顔を見ていただけよ!」
「僕の顔? 何か変な表情でもしてた?」
「そうじゃないの……。その、シオンって、女性に人気があるじゃない? それで顔を見てただけなの……」
「面白いことをいうね。僕は女性に人気なんてないから、リゼットの思い違いだよ」
「そんなことないわ。いつも、女性から誘われているじゃない。それに、シオンは、とてもかっこいいから……」
それ以上は言い淀んでしまった。すると、シオンはニヤッと口角を上げ、私を見てきた。
「へぇ。リゼットは僕のこと、かっこいいと思ってくれてたんだ。光栄だね」
なおもニヤニヤとした笑みを消さないシオンを軽く睨みつける。
「僕が声をかけられるのは、黒髪をした異国の人間が珍しいからだよ。いわば珍獣扱いだ。そんなのは相手にしても時間の無駄だからね。……それよりも」
シオンは片手をポンと私の頭に乗せた。
「リゼットの方が、ふわふわしてて、その大きな垂れ目なんか小動物みたいで可愛いから、気をつけなよ」
「かっ、可愛い……! え、……小動物!?」
一瞬、かっと顔が熱くなったけれど、揶揄われたことに気付き、私は頬を膨らませた。
その時、事務室の扉がノックされ、秘書のリーが顔を見せた。
「シオン様、フューリ子爵がお見えです」
「わかった。すぐに行くよ」
立ち上がったシオンが、私の頭を軽く撫でた。
「膨れた顔がやっぱり、リスみたいだね」
「もうっ!」
シオンが出ていったあとも、しばらく顔の火照りは収まらなかった。
一体、私はどうしてしまったのだろう。
シオンの一挙一動に、こんなにも動揺するなんて……。
最近の自分は少し変だ。
机に残された菓子箱を見つめる。
私の大好きなバウムクーヘン。シオンは私の好みを誰よりも知っている。
幼いころから、こうやって私の好きな物を用意してくれ、二人で食べてきたことを思いだす。
長い間、こうやって二人だけの世界で過ごしてきた。
けれど一年前、グレアムと出会い、自分の番だと知った。
それからもシオンとの時間を大切にしてきたけれど、以前に比べれば、一緒に過ごす時間は少なくなっていた。
それが今、再び昔のように、シオンと過ごす時間が増えている。
まるで、長い間離れていた二人だけの世界に、戻ってきたようだった。
けれど、私の中の何かが昔とは違っている。
以前までは普通にしていたことが、普通にできない。
シオンを見ると、何だか……。
シオンのことを考えていたら、また顔に熱が集まってきた。
私は赤くなった顔を冷やそうと、事務室を出て洗面室へ向かった。応接室の前を通り過ぎようとしたところ、室内から壮年の男性の声が聞こえてきた。
「カブラギ殿も、そろそろ身を固めようとは思わないのかね」
思わず足が止まる。
その言葉が、胸の中で妙に大きく響いた。
「残念ながら、私はまだしばらく独り身の予定です」
「先日も話しただろう。うちの娘に会ってみないか。親の私が言うのも何だが、器量もよく、気立てもいい娘だ」
「私には恐れ多いお話です。異国の平民の身の上で、立場はわきまえているつもりですよ」
「カブラギ商会の次期代表が、また謙遜を。この国だけではなく、各国に事業を拡大しているのだろう。我が子爵家と縁戚関係を結ぶことは、今後の足掛りにもなる。カブラギ商会にとっても僥倖ではないのかね」
僅かな沈黙が流れた。
私は我に返り、いつの間にか握りしめていた拳を緩めた。
どうして、こんなところで立ち聞きなんてしているのだろう。早く、立ち去らないと。
そう思い、足を動かそうとした、その時。
「……そうですね」
静かなシオンの声に、再び動きが止まった。
「確かに子爵家との繋がりは、我が商会の今後の事業展開において、大きな利点となるでしょうね」
感情の乗らない、シオンの淡々とした口調が続く。
「ですが、これでも私は意外とロマンチストでして。心に思う女性がいるんです。彼女以外は考えられないのですよ」
シオンの言葉に、スッと全身から血の気が引き、息が止まりそうになった。
心に思う女性がいる。
考えたこともなかったその言葉が、頭の中にこびりつく。
「カブラギ商会の次期代表が甘いことを言う。だが、気持ちが変わったら、いつでも言ってほしい」
「ありがとうございます。そのときは、改めてお返事いたします」
扉が開く音に、私は慌てて物影へと隠れた。硬質な靴音が、応接室から遠ざかっていく。
靴音が消えても、私はしばらくその場で立ち尽くしていた。
シオンにそんな女性がいるなんて、全然知らなかった。
その人は、一体どんな女性なのだろう。
私が知っている人だろうか。
綺麗で、優しくて、賢くて、シオンの隣に立つのにふさわしい人なのだろうか。
そして、シオンはその人に、どんな笑顔を向けるのだろう。
私に向けてくれる、あの優しい笑顔とは違うのだろうか。
考えたくないのに、次々と想像してしまう。
いつかシオンがその女性と結婚したら。
今までのように、二人で気軽に会うこともできなくなるかもしれない。
私の好きなものを覚えていてくれることも、何気なく頭を撫でてくれることも、当たり前ではなくなるのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
シオンが誰かを好きになるのは、当然のことだ。
いつか彼が結婚し、私以外の誰かを特別に想うことが、どうしようもなく嫌だった。
私は足音を立てないようにその場を離れ、自分の机に戻った。
仕事に取りかかろうとしても、頭の中は先ほどの言葉でいっぱいだった。
「……何をやっているのかしら、私……」
小さく呟き、深く息を吐いた。
けれど、頭にこびりついたシオンの言葉は、いつまで経っても消えてくれなかった。




