6
朝日が窓から差し込む頃、私は目を覚ました。
頭の中は、これまでの荒れた感情が嘘のように、凪いだ海のような静けさが広がっていた。
グレアムとの思い出は、まだこの胸に残っている。
けれど、それだけ。そこに、あの狂おしく、切なく、胸をかきむしりたくなるような強い感情はもう残っていない。
まるで、憑き物がごっそりと抜け落ちたような感覚だった。
番の絆が切れたら、自分には何が残るのだろう? 空っぽになってしまわないだろうか? そんな不安もあった。
けれど、その先に待っていたのは、制御できない想いから解放され、ようやく自分自身を取り戻せたような安心感だった。
ふと、辺りを見回して声を上げる。
「……シオン、いる?」
掠れた声で尋ねると、ベッドの傍らにあった椅子に腰掛け、腕を組み目を伏せていたシオンが顔を上げた。
ほとんど眠っていなかったのだろう。目の下には薄い隈があり、顔色もよくなかった。
私と目が合うと、シオンは張り詰めていたものがほどけたように、表情を緩めた。
「リゼット、目を覚ましたんだ。気分はどう?」
私はゆっくりと頷き、シオンに微笑んだ。
「大丈夫。すっきりしてるわ」
彼は大きく息を吐くと、片手を目元へと伸ばしたまま、天井を見上げた。
「……ありがとう、シオン。あなたのおかげだわ」
けれど、彼は黙ったまま、顔を私に向けてくれなかった。
「シオン? どうしたの? ……私の看病で疲れちゃった? ごめんね」
「……大丈夫。問題ないよ……」
シオンはようやく顔を下げ、私と目を合わせてくれた。
「えっ、シオン……?」
彼の目元は赤く染まり、アイリッシュグレイの瞳は涙で潤んでいた。
その様子に驚いて、思わず声を上げた私に、シオンはばつが悪そうな表情で口を開く。
「あまりジロジロと見ないでくれる?」
少し拗ねたような口調に、つい私の口元が緩んだ。
「シオンが泣いてるの、初めて見たわ。雪でも降るのかしらね? 貴重な体験だわ」
私は身体を起こし、ベッドの横に座るシオンへそっと手を伸ばす。彼の両頬を優しく包み、自分の顔を近付けた。
「ごめんね。たくさん心配かけちゃったよね」
「本当だよ。もう、こんな思いは二度としたくないね」
この数日間、途切れ途切れの記憶の中に、シオンの声を幾度も聞いたのは覚えている。
私がグレアムの名を呼び、会いたいと泣いても、シオンはここにいてくれた。
私を離さず、隣にいてくれた。
そのおかげで、私はようやく自分の人生に戻ってこられたのよ——
「……本当にありがとう、シオン」
私の瞳から涙が溢れだした。
この数日間に流したものとは違う、シオンへの感謝と思いがこもった涙だった。
「ああ。よく頑張ったね、リゼット」
彼はそう言って、私の額にこつんと自分の額を当てた。そして頬を包んでいた私の手を、自分の手で覆った。
「やっと、終わったね」
シオンの言葉に私は微笑みながら答えた。
「ええ。終わったわ……」
番の絆が切れた今、グレアムへの感情は、一つの思い出へと変わっていった。
薬を飲んでから一週間が過ぎる頃には、私はすっかり日常を取り戻していた。
身体の疲れは多少残っていたものの、普段どおりの生活を送れるようになっていた。
最初のうちは、食欲も出なかった。
「食べないと、体力がつかないよ」
シオンはそう言って、消化にいい食事を用意してくれた。
「変わった料理ね?初めて見るわ」
「雑炊だよ。食べやすく、野菜も細かく切っておいたから。熱いから、よく冷まして食べてよ」
「美味しい。思ったよりあっさりしているのね」
「口にあったようで良かったよ」
東国の料理だというその食事は、温かくて優しい味がした。少し、シオンに似ている気がした。
また、彼は仕事の合間に何度も私の様子を見に来てくれた。
むしろ、こちらが心配になるほどだった。
「もう大丈夫よ、シオン。体力も戻ってきたわ。仕事が止まっちゃうんじゃない?」
紅茶を注ぐ手を止め、シオンはいつもの飄々とした笑顔を浮かべた。
「僕は休憩に来てるだけだよ。職場でお茶を飲んでも休まらないからね。休憩先に、たまたまリゼットがいたんだよ」
「それ、様子を見に来るのと同じでしょう?」
私が呆れると、彼は悪びれもせず口角を上げた。
「そうとも言うね」
一つ、気付いたことがある。
よく見せるシオンの飄々とした笑顔。
あの顔をするのは、彼が何かを誤魔化そうとするときだった。
「……シオンって、昔はあの胡散臭い笑い方なんてしなかったわよね」
「酷い言われようなんだけれど?」
「あの表情をするようになったのって、ここ最近だよね。一年くらい前からじゃない?」
「君の勘違いだと思うよ?」
「もう!」
私が頬を膨らませると、シオンは一瞬だけ表情を消した。
けれど、すぐに堪えきれなくなったように声を立てて笑い出した。
その朗らかな笑い声につられて、私の頬も緩み、二人で一緒に笑った。
笑い終えたあと、私はふと考えた。
番の絆が切れても、私自身が変わったわけじゃない。
こうして笑うことだってできる。
グレアムとの時間も、忘れたわけではない。
楽しかった思い出まで、偽物にする必要はないのだ。
彼と過ごした日々は、私の人生の一部として胸にしまっておけばいい。
そう考えられるようになって、私はようやく、これからの自分について考え始めた。
「ねえ、シオン。そろそろ家に帰って、仕事に復帰しようと思うの」
「急にどうしたの?」
「ずっと考えてはいたのよ。もう一週間以上仕事を休んでるし。シオンにこれ以上、迷惑をかけられないわ」
シオンは飲んでいた紅茶のカップを置き、小首を傾げた。
「僕なら全然構わないよ。リゼット一人くらい養える財力はあるしね」
「また、冗談ばっかり。私、これ以上ここにいたら、シオンに依存しすぎて社会復帰できなくなりそうだもの。働いて、今回のお礼もしたいの」
真剣な目でシオンを見つめると、彼はふっと笑って口を開いた。
「それはありがとう。でも、リゼットが僕に依存して、離れられなくなるのも面白いかもね。うん、いいね」
楽しくて仕方ないといった様子で笑みを浮かべるシオンを、私は軽く睨んだ。
「もう、シオン! 真面目に話してるのよ」
「ああ、ごめんね。……仕事のことだけれど、よければ、うちの商会で働いてみない? 先日、事務員が一人退職してね。今、代わりを探しているところなんだ」
急な話に、私は目を瞬かせた。
「シオンの商会で?」
「リゼットは経理事務もできるだろ? うちは即戦力が欲しいから、うってつけなんだ。それに……」
「それに?」
言い淀む彼に、私は首を傾げて続きを促した。
少し気まずそうにしながら、シオンは口を開いた。
「君の職場には、もうリゼットの籍がないんだよね」
「ええっ!?」
思いがけない言葉に、私は手にしていたフィナンシェを落とした。
「君の職場から連絡があってさ。これ以上休まれると仕事が回らなくなるから困るって言われて。向こうも、かなり切羽詰まっている様子でね」
「そんな……」
「番を失ったうえに、仕事まで失ったなんて言えなくて。ごめんね」
シオンは飄々とした笑顔を作り、まったく悪びれる様子もなく謝罪を口にした。
「で、うちの仕事の件だけれど、お願いできる?」
少し納得がいかなくもなかったけれど、確かに急に長く休んだ私に非があると考え直す。
そして、仕事を失ってしまった私に、シオンの申し出はありがたいものだった。
「……ええ。お願いします」
シオンへ丁寧に頭を下げた。
「交渉成立だね。じゃあ、来週からお願いしてもいいかな?」
「ええ。ありがとう、シオン。来週からよろしくね」
シオンは悪戯が成功した子供のような表情で、私の様子を楽しそうに眺めていた。




