5
「……リゼット」
遠くで、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
目を開けようとしても、身体は鉛のように重く、思うように動かせない。
意識が浮かんでは、沈んでいく。
「……シオン?」
声にならない声で、そう呟いたつもりだった。
すぐ近くに、彼の気配を感じた。
「ああ。僕はずっと傍にいるよ……」
その言葉に安堵し、私は再び眠りに落ちた。
シオンが東国へ行ってから、二年以上が過ぎた。
彼からは時折手紙が届き、本国で家族の事業を手伝っていると綴られていた。
こちらにいた頃も、ご両親の仕事を手伝う姿を見かけたことはあったが、東国では本格的な指導を受けているらしい。
一方、私はといえば、シオンがいないことを除けば、変わらない生活を送っていた。学校へ行き、帰ってくるだけの日々。
友達はいたけれど、シオンほど気を許せる相手はいなかった。
楽しいこと、イライラしたこと、悲しいこと。
いつも隣でシオンが聞いてくれた。
シオンも私に色々な話をしてくれた。
手紙のやり取りはしていても、それだけじゃ全然足りない。
シオンのいない日常は、ミルクも砂糖も入っていない紅茶のようだった。私には、あまりにも苦すぎる。
手に持っていた通学鞄の中から、栞を取り出し、じっと見つめる。
前にもらった紫苑の花を押し花にして、栞を作っていた。シオンがいない今、私の大切な宝物だった。
薄紫色だった花は色褪せて、少し灰がかっていた。
まるで、シオンの瞳の色のよう。
「シオンのバカ。必ず戻ってくるって言ったのに……」
「誰が、バカだって?」
「えっ!?」
聞き慣れた声よりも、少し低いトーンが響く。
声のした方向へ振り向くと、以前より背の高くなったシオンが、笑顔で立っていた。
「シオン……?」
「ああ。ただいま、リゼット」
「本当に、本当にシオン?」
「そうだよ。リゼットの家に行ったら、まだ学校だと聞いて迎えに来たよ」
変わらない懐かしい笑顔に、私は彼の元へと駆け寄った。
「背が伸びたのね。びっくりしたわ」
「この二年でかなり伸びたからね。……リゼットは小さいままだね」
「そんなことはないわ! 私も伸びたわよ、少しだけど!」
そう言いながら彼を見上げると、以前に比べて、かなり大人っぽくなっていた。
女の子に間違えられることもあったシオンだけれど、今はもう、男の人にしか見えない。
彼は私の通学鞄を持ち上げると、もう片方の手を差し出した。
「行こう、リゼット。お土産が沢山あるんだ」
差し出された手は記憶より大きくて、一瞬だけ躊躇しつつも、すぐに握りしめる。
その温もりは前と同じで、ほっとしながら彼を見上げた。
目が合うと、シオンが目元を細めて、眩しそうな顔で微笑んでくれた。
それを見た時、心臓がキュッと音をたてたことは、シオンには内緒にしておいた。
彼はこの二年間、学生生活を送りながら東国で仕事を学び、今は一人でこの国に戻ってきていた。
シオンの祖父が立ち上げたカブラギ商会は東国に本拠地を置き、この国にあるのはその支部にあたる。
シオンはこの国の学校へ編入し、経営や経済を学ぶ傍ら、商会支部でも働いていた。
支部の代表のもとで経験を積み、卒業後はこの国における商会の事業を、シオンが取り仕切ることになっているという。
以前のように毎日会うことはできなかったが、それでもシオンは、できる限り時間を作ってくれた。
彼と過ごし、他愛もないことを話す。そんな何気ない日常が、私にとって大切な時間だった。
そんな幸せな日々が崩れたのは、私が十五歳になった冬だった。
母が病に倒れ、そのまま還らぬ人となった。
幼い頃に父を亡くし、兄弟もいなかった私にとって、母だけが唯一の家族だった。
その母がいなくなった現実を受け入れられず、私は毎日泣いて暮らしていた。
そんな私を心配したシオンは、私を家に呼び寄せ、ずっと傍にいてくれた。
「リゼット。昼ご飯はちゃんと食べるんだよ。朝も抜いたよね」
「何も食べたくない……」
「そんなこと言わないで。おばさんだって、そんなリゼットを見たら悲しむよ」
「……」
「リゼットの好きなパンケーキ焼いたんだ。シロップもたっぷりかけてあるから。ほら、口を開いて」
そう言って、シオンがパンケーキをフォークに刺し、口の中に運んだ。
「甘い……」
「リゼットが倒れたら、元も子もないよ。泣きたい時は、僕がいつでも付き合うからさ」
「うん……。美味しいよ。シオン」
「美味しいものも一緒にいっぱい食べよう」
シオンのおかげで、少しずつ、日常を取り戻していった。
ふと、悲しくなることもあったけれど、そんな時はいつも、シオンが隣にいてくれた。
ある時、私は誰に言うでもなく小さく呟いた。
「私もお母さんのところに行きたい……」
その言葉に、深い意味はなかった。
ただ、お母さんに会いたい、それだけだった。
けれど、シオンはそうは受け取らなかった。
「リゼット、僕を置いていくつもり?」
低く、昏い声だった。
「僕はリゼットに会うためだけに、この国に戻ってきたのに」
その言葉に涙が止まり、顔を上げた。シオンの表情からは感情が抜け落ちていた。
アッシュグレイの瞳が、昏く私を見つめている。
「シオンを置いていくなんて、そんなことしない」
縋るように、私はシオンの袖を引いた。
「シオンと離れたら、私はどうしていいか分からない」
袖を握る手に力が入る。
「シオンと、ずっと一緒にいたい」
「……っ」
シオンは一瞬息を止め、私をかき抱くように、腕の中へ閉じ込めた。
私が離れていくことを恐れているかのような、強い抱擁だった。
「リゼット、ずっと傍にいる。僕がリゼットの家族になる。約束するよ」
「……本当?」
「僕はリゼットに嘘はつかないよ」
「それ、前にも聞いたわ……」
まだ涙の残る顔で、私は彼を見上げて微笑んだ。
「シオン、ずっと傍にいてね」
「ああ。ずっと傍にいるよ」
シオンが傍にいてくれる。
その約束が、母を亡くした私の支えになった——
どれくらい時間が経ったのだろう。
リゼットが薄く目を開けると、辺りはまだ薄暗かった。
薬の苦しさの合間に、何度も目を覚ましていたことは、ぼんやりと覚えている。
胸の痛みは、まだ残っていた。
それでも、グレアムを思い出しても、もう苦しくはなかった。
悲しさや寂しさは残っている。けれど、それらも少しずつ薄れていった。
彼に選ばれなくても、私は生きていける。ようやく、そう思えるようになった。
「……リゼット?」
暗闇の中から声が聞こえた。
「目を覚ましたの? 少し水を飲む?」
シオンが水差しを私の口元へ運んでくれた。
「ありがとう……」
「それを飲んだら、もう一眠りするといいよ。まだ夜半だからね」
シオンの気配に安心したのか、私は再びゆっくりと意識を手放していった。
リゼットが再び眠りに落ちたのを確かめると、シオンはしばらく、その寝顔を見つめていた。
頬はやつれ、唇にもまだ血の気が戻っていなかった。けれど、呼吸は穏やかで、今は苦しんでいる様子もない。
静かに息を吐き、シオンは彼女の額にかかった髪を、そっと指で払った。
「……本当に、君は無防備だね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
シオンは、額に置いた指先をリゼットの頬へと滑らせた。
そのまま身を屈め、リゼットの唇にそっと口づけた。
触れたのは、ほんの一瞬。
唇がかすかに触れる程度のものだった。
ゆっくりと指先を外した、その時。
「……シオン?」
かすかな声に、シオンはハッと顔を上げた。
リゼットが薄く目を開けていた。
けれど、まだ意識は混濁しているようで、彼女はぼんやりとシオンを見つめた。
「……ずっと傍にいてね、シオン……」
ささやくように言葉を紡ぎ、ふわっと幼い子どものように柔らかく微笑んだ。
「……リゼット?」
息を呑んで、シオンが問いかけた声は、低く、かすれていた。
「約束したものね……」
彼女は安心しきった顔で呟いた。
「ずっと……傍にいてくれるって……」
その言葉に、シオンの指先がわずかに震えた。
「ああ。……傍にいるよ」
その言葉に安心したかのように、リゼットは微睡みの中で微笑んで、目を閉じた。
すぐに、静かな寝息が聞こえ始める。
シオンは片手でそっと目元を押さえ、誰にも見られないように顔を伏せた。
「約束したからね……」
そう呟いてから、ゆっくりと顔を上げ、眠る彼女を見つめた。
その目元は、うっすらと朱がさしていた。




