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薬が届くまでの間、私はシオンのゲストルームで過ごした。
数年前に母を亡くしてから、私は天涯孤独になった。家に帰っても、誰もいない。
そんな私の傍で、シオンはずっと寄り添ってくれた。
仕事の話をしたり、一緒に食事をしたり、先日見かけたマカロンを買ってきてくれたりもした。
ただ、ふと何かを考え込むように目を伏せ、黙り込むことが何度かあった。
「シオン?」
私が声をかけると、彼はすぐに表情を和らげた。
「ああ、ごめん。何でもない。ちょっと、仕事のことでね」
そして、何事もなかったかのように話し始める。
仕事が忙しいのかと心配したが、シオンは問題ないと笑っていた。
そうして過ごすうちに、薬が手元に届いたと、シオンから報告があった。
「リゼット。まだ迷っているなら、慌てて飲まなくていいんだよ」
心配そうな彼の姿に、私は首を横に振った。
「大丈夫。もう、決めたの」
「……分かったよ」
彼は私の手を取り、強く握り締めた。
「何かあったら、すぐに言ってよ」
「うん」
「一人で我慢しないで。僕を頼ること」
私は眉を下げて小さく笑った。
「……シオンって、昔から世話焼きだよね。お母さんみたい」
「僕は、リゼットのお母さんにはなれないよ」
彼は肩をすくめ、苦笑する。
「ほら、早く終わらせるよ。全部終わったら、ケーキでもパフェでも、好きなものを食べに行こう」
「……ありがとう」
机の上には、透明な瓶が置かれていた。中には、琥珀色の液体が入っている。
私はそれを手に取り、ちらっとシオンの顔を窺った。
彼が頷くのを見て、小さく息を吐く。
それから覚悟を決めて、薬を一気に飲み干した。
その様子を、シオンは瞬きもせず、真剣な眼差しで見つめていた。
薬を飲み干してしばらくすると、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
息がうまく吸えない。痛みに耐えきれず、立っていられなくなった。
まるで、胸の奥に絡みついた何かを、無理やり引き剥がされていくようだった。
「リゼット!」
シオンが私を抱き留めてくれた。
彼に身体を預けたまま、私の意識は遠のきそうになる。
瞼の裏で、グレアムとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
初めて出会った、あの日。
私を見た瞬間、目を見開いて固まってしまった彼。
番だと告げられ、戸惑う私に、少し困ったように笑いかけてくれた彼。
いつも、私の歩幅に合わせて歩いてくれた彼。
私が番だと認識できるようになると、太陽のような微笑みで私を包んでくれた彼。
『番の絆に誓って、君を永遠に愛する』
その言葉を、私は信じていた。
「グレアム……」
呟くように漏れたその名前に、私を抱くシオンの腕に力がこもった。
「……大丈夫。今は何も考えなくていい」
私の額に浮かんだ汗を指で拭いながら、彼が声をかける。
「僕がいる」
私は彼の服を掴んだ。
「痛……っ、胸が苦しい……!」
「苦しいのは、もうすぐ終わるよ。終わるんだよ、リゼット」
「……グレ、アム……」
無意識にグレアムの名を呼ぶと、シオンの腕に力がこもった。
「大丈夫。僕がいる。ずっと君の傍にいるって約束したよね……」
優しい声が、遠くから聞こえるようだった。
胸を刺す痛みも、身体を支える腕の温もりも、少しずつ遠ざかっていく。
「ずっと、傍に……」
薄れゆく意識の中でシオンの声を聞きながら、懐かしい記憶が蘇った——。
あれは、私が七歳、シオンが十歳の頃。
シオンは家族とともに、東国からこの街へ引っ越してきた。
彼の黒髪と整った顔立ちは、当時から人目を引いた。
けれど、異国の子どもというだけで、周囲は彼を遠巻きにし、なかなか遊びに誘おうとはしなかった。
私は、公園の隅にあるベンチに、一人で座っている彼を見つけた。
「ねえ、あなた。どうして一人でいるの?」
彼は顔を上げ、アッシュグレイの瞳に私を映した。
「別に。一人が好きなんだよ」
「ふーん。一人で何をするの?」
「……それは、まあ。散歩したり、とか?」
彼は小さな声で、ぼそぼそと話した。私はそんな少年の隣に、遠慮なく腰を下ろした。
「私はリゼット。あなたは?」
「……シオン」
「シオンって素敵な名前だね」
「……花の名前から名付けられたんだ。『紫苑』の花」
「お花の名前なんだ! 私、お花大好きなのよ。どんなお花なの? 見てみたいな」
私が満面の笑顔で手を差し出すと、彼はしばらくその手をじっと見つめていた。
やがて、ためらいがちに手を伸ばし、私の手を握った。
それが、私達の始まりだった。
それから私は、シオンを遊びに誘うようになった。
最初は素っ気なかった彼も、少しずつ笑顔を見せてくれるようになった。
「シオンの髪って綺麗よね。黒くてツヤツヤしてる」
彼の髪に指を入れると、さらさらと指先からこぼれていく。
シオンはくすぐったそうにしながらも、私の好きなようにさせてくれた。
「リゼットの髪の方が綺麗だよ。ふわふわしていてさ」
私は自分の髪を一房つまみ、持ち上げた。
「よくある色だから、つまんないわ。シオンみたいなさらさらの黒髪がよかった」
「黒髪なんて、周りのヤツらは気味悪がって避けてるよ。リゼットは物好きだね」
「こんなに素敵なのに……」
今度はシオンが、私の髪を一房、手に取った。
「リゼットの髪は、君が好きなミルクたっぷりの紅茶と同じ色じゃないか。好きだよね? ミルクティー」
「それもそうね! ミルクティーと同じ色だわ」
にこにこと笑い出した私に、彼もつられたように笑った。
「僕は、リゼットの髪が好きだよ。柔らかくて温かくて、君によく似合ってる」
そう言って、彼は私の頭を優しく撫でてくれた。
「ありがとう! シオン」
「どういたしまして。そうそう、東国から取り寄せたお茶とお菓子を用意してあるって、母さんが言ってたんだ。リゼット、今から食べに行こうよ」
「うん!」
差し出された手を握り、二人で他愛もないことを話しながら、歩いていった。
晴れた日はシオンと街を散策し、雨の日はシオンの部屋で東国の本を読んでもらう。
二人で過ごすことは、いつの間にか当たり前になっていた。
ある秋の昼下がり、シオンに庭へ行こうと誘われた。
シオンの家族が経営する商会と、その奥にある住居の間には、手入れの行き届いた庭がある。
そこへ、シオンに手を引かれながら、足を踏み入れた。
「リゼット、これだよ」
シオンが指し示す方向へ視線を送ると、そこには薄い紫色の小花が、一面に咲き渡っていた。
「前に見たいって言ってたから。紫苑の花だよ」
「わぁ……」
一本から枝分かれし、幾つもの小花を咲かせる紫苑の花は、バラやダリアのような派手さはない。
けれど、景色に溶け込むように控えめに咲いている。柔らかな雰囲気をもった、可憐な花だった。
「このお花、すっごく可愛いね!」
「母さんが、この紫苑の花を気に入っていてね。それで、僕の名前にしたんだよ」
私は紫苑の花の前にしゃがんで、花にそっと手を添えた。
「私も、紫苑が大好きになったわ。見せてくれてありがとう、シオン」
「……っ。……沢山あるから、何本か持って帰っていいよ」
「本当? じゃあ、少しもらうね。押し花にしようかな?」
笑顔で花を手折るリゼットの後ろ姿を、シオンは口元を押さえながら、甘い熱を灯した瞳で見つめていた。
そんな日々を送る中、シオンが家族とともに東国へ帰ることになった。
シオンが十四歳の時だった。
「シオン、行っちゃうの……?」
私は彼に駆け寄り、服の裾を掴んだ。
「……ああ。爺さんが倒れたから、本国の仕事を父さんが引き継ぐことになったんだ」
「東国って遠いの? ここからどれぐらい? 会いに行けるかな」
「会うのは……難しいかもね。船で数泊した先になるから」
「船……」
黙り込んで俯いた私の頭を、シオンは困ったような顔で撫でてくれた。
「……リゼット。僕がいなくても、泣かないでよ。もう、涙を拭いてあげられないんだから」
「そんなの無理よ。シオンがいないなんて寂しすぎて、毎日泣いて暮らすもん。私が泣きすぎて溶けちゃったら、化けて出てやるから」
「化けて出られるのは、勘弁してほしいなぁ」
「だったら、私の傍にいて! 私が溶けてしまわないように、シオンが見張っててよ」
溢れる涙を止めることもできず、私はシオンに縋りついた。
「どうしたら、行かないでいてくれる? 私が泣かなくなったら? シオンに甘えすぎないようにすればいい? ねえ、どうすればシオンはここに残れるの?」
自分でも何を言っているのか分からないまま、どうしてもシオンを引き留めたくて、夢中でまくし立てた。
「シオンは私と離れても寂しくないの?」
ここで別れたら、二度と会えない気がして、必死だった。
そんな私に、シオンは目を伏せた。
「……このまま一緒にいたら、僕は、ずっと君を離せないまま、君を縛りそうで怖いんだ……」
呟くようなシオンの言葉は、幼い私には少し難しかった。
「シオンも別れたくないってこと? なら、一緒にいるのが一番に決まってるよ。縛るとかよく分からないけれど、シオンがいてくれるなら、私は何でも嬉しいよ。私と一緒にいてほしい!」
「参ったな……」
シオンは諦めたように大きく息を吐くと、私の顔を覗き込んだ。
「リゼット、ちょっとだけ待っててくれる? しばらく会えなくなるけれど、また戻ってくるから」
「本当に? また戻ってきてくれるの?」
「ああ、僕が嘘をついたことがあったっけ?」
「……嘘はつかないけれど、冗談はいつも言ってるわ」
「リゼットは、からかい甲斐があるから、ついね」
困ったように笑ったあと、シオンは私の両肩に手を置き、表情を引き締めた。
「ちゃんと戻ってくるから、待っていてくれる?」
「分かったわ。シオンを待ってる」
シオンは一つ頷くと、肩に置いていた手を背中に回し、私を抱き寄せた。
「リゼットの元に、必ず戻ってくる。約束するよ」
「うん。待ってる。約束だからね? 私はシオンがいないと、寂しくて悲しくて我慢できないから、早く戻ってきてよ」
私はシオンの胸元で、速くなった彼の鼓動を聞いていた。




