10
昼休憩を終え、リゼットがシオンと一緒に帳簿の科目を確認していると、秘書のリーがやってきた。
「シオン様、少しよろしいでしょうか」
シオンに耳打ちするリーの表情には、僅かな緊張が浮かんでいた。
シオンは無表情のまま報告を聞き終えると、私を振り返った。
「リゼット、コードウェル卿が君に会いにきてるそうだ」
私は一瞬だけ手を止めた。けれど、すぐに首を横に振る。
「……お断りしてください」
私の返答を受け、リーが一礼した。
「承知いたしました」
リーが下がると、シオンは眉を下げ私の手を握った。
「リゼット、大丈夫?」
「ええ、大丈夫。もう終わった話だし、会う必要もないわ」
彼が心配そうに視線を向けてきたので、笑顔を返した。
「私はもう忘れていたのに、今さら何がしたいのかしらね?」
そう答えると、シオンはほっと息を吐き、安心したように微笑んだ。
今の私には、私を一番に、大切にしてくれる人がいる。その人を不安にさせたくはなかった。
グレアムとの番の絆は、すでに切れてしまった。
まったく感慨がないといえば嘘になる。けれど、それは彼への未練ではなく、かつて彼を愛していた自分を懐かしく思うような気持ちだった。
グレアム自身への思いは、もう残っていなかった。
これで終わりかと思った。けれど、グレアムはまだ諦めていなかった。
翌日も、その翌日も、彼は商会を訪れた。
そして、私が仕事を終えて外へ出ると、グレアムが商会の門の前に立っていた。
「リゼット!」
私は足を止め、少し離れた場所からグレアムを見つめた。
以前よりも顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。髪にも艶がなく、身だしなみも整っていなかった。
彼に何かあったのだろう、ということだけは分かった。けれど、もう何も感じなかった。
「……何か御用でしょうか」
「君に会いに来たんだ」
「私は、お会いしたくありません」
「頼む、リゼット。話を聞いてくれ」
グレアムが一歩、近付いてきた。
「……それ以上、近づかないでください。人を呼びますよ」
グレアムの顔が歪み、苦しそうな表情で両手の拳を握りしめた。
「リゼット、俺は間違っていたんだ。パルミナは、俺の本当の番ではなかった。香水を使って、番を偽っていたんだ」
私は表情を消して、黙って聞いていた。
「彼女はもう、追い出した。本当の番はリゼット、お前なんだ。迎えに来たんだ。俺と一緒に来てくれ」
グレアムが差し出した手を、私は何の感慨もなく、ただ見つめていた。
グレアムのことが好きだった。
彼の声も、表情も、仕草も。
けれど、彼から偽物の番だと言われて、あっさりと捨てられた。
私は番の絆に囚われて、彼を愛していると思っていた。
けれど、その絆が切れれば、消え去ってしまうほどの関係しか築けていなかったのだ。
それ以上の信頼や愛情は、育っていなかった。
シオンと過ごす今だからこそ、そのことを実感できる。
グレアムもまた、番というものに盲目的に囚われている。
目の前にいる相手自身を見ようともせず、今もなお番や香りにこだわり続けている。
結局、彼は何も変わっていない。
同じことを繰り返しているのだ。
前は悲しくて何も言えなかった。
けれど、今ならちゃんと言える。
私は一つ息を吸って、かつての番に向き合った。
「無理です。一緒に行くことはできません」
きっぱりと拒絶すると、グレアムは言葉を失った。
「何で……」
「私は、あなたに偽物の番だと言われました」
「だが、君こそが俺の本当の番なんだ! 間違いだったんだ!」
声を荒らげる彼を、私は冷めた瞳で見つめた。
「……偽物とか本物とか、私にはどうでもいいんです」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「番であろうとなかろうと、心から愛し合い、信頼し合えていたなら、香りなんて関係なかったはずです。今でも一緒にいられたでしょう」
私はかつての番を、愛の消え去った眼差しで、まっすぐに見据えた。
「あなたが愛していたのは、番という存在であって、私自身ではなかったんです。だから、あんなにも簡単に私を捨てたんですよ」
グレアムの顔が青ざめた。
「違うっ、俺は……」
「どちらにしろ、もう終わった話です」
私はグレアムに背を向け、後ろへと手を差し出した。その手の先には、シオンが立っていた。
彼は私の手を握り、優しく微笑みかけてくれた。
シオンに小さく頷き、それからグレアムへと向き直る。
今度こそ、はっきりと過去に決別するために。
「あなたが私を捨てたように、今度は私があなたを捨てます。グレアム・コードウェル」
「そんな……リゼット……。俺とお前は番同士で、離れるなんて……そんなこと……」
それまで黙っていたシオンが、私の肩を抱きながら、彼を煽るように口を開いた。
「『俺の前に二度と姿を見せるな』でしたっけ? あれだけ豪語していたあなたが、今度はリゼットに縋りつくなんて、道化もいいところですね」
「……シオン・カブラギ! 貴様っ、平民風情が俺に楯突く気か! 伯爵家を敵に回して無事にいられると思っているのか! ただの商人が、俺達のことに口を出すな。目障りだっ!」
激しく恫喝するグレアムに、シオンは冷たい光をその瞳に宿して彼を見据えると、ゆっくりと口角を上げた。
「何か思い違いをされていませんか? コードウェル卿」
「何だと!」
「そもそも僕はこの国の人間ではありません。そして、東国では商人の発言力も大きく、カブラギ商会は国の流通を支える大手商会の一つなんですよ。そんな僕に手を出せば、両国の取引にも影響が出るでしょうね。国際問題にも発展しかねません。その責任を負う覚悟がおありですか? コードウェル伯爵家次男のあなたに?」
「……ッ!」
グレアムが振り上げかけた拳を下ろし、悔しげに唇を強く噛んだ。
「それにリゼットは今、とても幸せなんですよ。邪魔をしないでほしいですね」
その瞬間、グレアムの視線が、私の肩を抱くシオンの腕に落ちる。
「……まさか、お前たちは……」
「ええ」
シオンは私を自分の胸元へと抱き寄せ、額に優しく口付けた。
「リゼットは僕の大切な人です」
その様子を目にしたグレアムの顔は青ざめ、肩が小刻みに震え始めた。
「……リゼット。本当、なのか……?」
「はい」
私はグレアムに向かって躊躇することなく、大きく頷いた。
「シオンは、私を何よりも大切にしてくれます。私も彼を、誰よりも愛しています」
グレアムの口がわずかに開いた。けれど、その先の言葉は出てこないまま、唇がわなわなと震え出した。
グレアムの視線が、私の髪や服へと向けられている。
彼の表情が、見る間に強張っていった。
「リゼット……。その香り……。その男の……」
獣人の血を引く彼は、普通の人間よりも嗅覚が優れている。その香りに気づいたのだろう。
「……嘘だっ、あああっ……!」
グレアムは頭を抱え、その場に倒れるように、うずくまった。
「ゔあああぁぁっ——」
彼は取り繕うこともせず、言葉にならない叫び声をあげ続けた。
私はそれを、ただ黙って見ていた。
シオンが、少し離れた場所に控えていたリーに目配せをする。すぐさまリーが警備員を呼び、グレアムを取り押さえた。
その様子を視界の端で捉えながら、私はシオンと一緒に歩き出した。
背後から、グレアムの声が聞こえてくる。
「リゼット! 待ってくれ! 俺を置いていくな――っ!」
彼の悲痛な慟哭が聞こえてきても、私は振り返らなかった。
シオンと二人、前だけを見て歩いていった。
翌日。
「グレアム。お前、カブラギ商会と何があった?」
コードウェル伯爵家の執務室に呼び出されたグレアムは、伯爵家当主である彼の父から、開口一番そう問いかけられた。
「商会が、こちらとの取引を見直すと申し出てきた。お前に身分を盾に恫喝されたことで、信用に関わる問題だと言われ、取り付く島もなかったぞ」
「それは……」
グレアムは、即座に一人の男の顔を思い浮かべた。
——シオン・カブラギ、あいつの差し金か。
奥歯を噛みしめる。しかし、グレアムは何も言い返せなかった。
カブラギ商会は東国の流通を大きく担い、この国の王族や貴族からも重宝されている新興の大手商会だ。
特に、医薬品を中心とした数多くの輸入品は、ここ数年でこの国の生活に欠かせないものとなっていた。
そんな商会との取引を打ち切られることになれば、伯爵家にとって大打撃となる。
「お前の勝手な言動で、家の信用を損なうな」
父の声は重く、厳しかった。
「貴族としての自覚も、騎士としての振る舞いも、今一度考え直せ。お前が失った信用を、家がすべて肩代わりするわけにはいかん。次はないぞ」
父の叱責にグレアムは唇を噛みながら、靴のつま先をじっと見て耐えていた。
気付けば、自分の信じていたものが少しずつ崩れていくのを感じていた。
パルミナもまた、グレアムの番を偽っていたことが明るみになると、周囲の人々は一斉に彼女から距離を置いた。
伯爵家を敵に回したことで、勤め先も辞めざるを得なくなった。
家族も彼女をかばうことはなく、縁を切られた。
グレアムの伴侶として得られるはずだった地位も、支援も、自分を持ち上げてくれていた人々との繋がりも、すべて泡のように消え去った。
彼女が夢見た未来は、もうどこにもない。
もはや、この街で暮らし続けることもかなわなくなり、彼女はひっそりと街を去った。
「シオン様、先日依頼された資料になります」
リーが数枚の書類を差し出し、シオンはそれにさっと目を通した。
「ふぅん。週末の午後に巡回ねぇ」
面白そうに書類をひらひらと揺らすシオンに、リーが生真面目な表情で尋ねた。
「どうされますか?」
「予定どおり決行だよ。人員を用意してくれる? それと、リゼットには気付かれないようにね」
「承知いたしました。それから、例の女性は隣国へ渡ったとのことです。引き続き、動向を確認いたしますか?」
「彼女はもういいよ。国を出たなら問題ない」
「では、そのようにいたします」
「あと、リゼットを呼んでもらえるかな?」
リーが部屋を退出すると、シオンは手帳を取り出した。
予定を書き加える彼の口元は、どこか楽しげに緩んでいた。
「仕上げといこうかな」
手帳を片づけたところで、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ、入って」
かしこまった様子で入ってきたリゼットに、シオンは気楽にするよう声をかけた。
「ねえ、リゼット。今度の休み、僕と出かけない?」
「今度の休みに?」
「ああ。たまには仕事を忘れて、二人でゆっくり街を歩きたいと思ってね」
「それは良いわね!」
ぱっと顔を輝かせる彼女に、シオンは笑みを深めた。
「よかった。じゃあ、プランは僕に任せて、楽しみにしていてね」
彼女が嬉しそうに頷くのを見つめながら、シオンは机の上の書類を静かに裏返した。




