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番に捨てられた少女を、幼馴染は逃がさない  作者: 崎子


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10/13

10

昼休憩を終え、リゼットがシオンと一緒に帳簿の科目を確認していると、秘書のリーがやってきた。


「シオン様、少しよろしいでしょうか」


シオンに耳打ちするリーの表情には、僅かな緊張が浮かんでいた。

シオンは無表情のまま報告を聞き終えると、私を振り返った。


「リゼット、コードウェル卿が君に会いにきてるそうだ」


私は一瞬だけ手を止めた。けれど、すぐに首を横に振る。


「……お断りしてください」


私の返答を受け、リーが一礼した。


「承知いたしました」


リーが下がると、シオンは眉を下げ私の手を握った。


「リゼット、大丈夫?」


「ええ、大丈夫。もう終わった話だし、会う必要もないわ」


彼が心配そうに視線を向けてきたので、笑顔を返した。


「私はもう忘れていたのに、今さら何がしたいのかしらね?」


そう答えると、シオンはほっと息を吐き、安心したように微笑んだ。


今の私には、私を一番に、大切にしてくれる人がいる。その人を不安にさせたくはなかった。

グレアムとの番の絆は、すでに切れてしまった。

まったく感慨がないといえば嘘になる。けれど、それは彼への未練ではなく、かつて彼を愛していた自分を懐かしく思うような気持ちだった。

グレアム自身への思いは、もう残っていなかった。




これで終わりかと思った。けれど、グレアムはまだ諦めていなかった。

翌日も、その翌日も、彼は商会を訪れた。

そして、私が仕事を終えて外へ出ると、グレアムが商会の門の前に立っていた。


「リゼット!」


私は足を止め、少し離れた場所からグレアムを見つめた。

以前よりも顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。髪にも艶がなく、身だしなみも整っていなかった。

彼に何かあったのだろう、ということだけは分かった。けれど、もう何も感じなかった。


「……何か御用でしょうか」


「君に会いに来たんだ」


「私は、お会いしたくありません」


「頼む、リゼット。話を聞いてくれ」


グレアムが一歩、近付いてきた。


「……それ以上、近づかないでください。人を呼びますよ」


グレアムの顔が歪み、苦しそうな表情で両手の拳を握りしめた。


「リゼット、俺は間違っていたんだ。パルミナは、俺の本当の番ではなかった。香水を使って、番を偽っていたんだ」


私は表情を消して、黙って聞いていた。


「彼女はもう、追い出した。本当の番はリゼット、お前なんだ。迎えに来たんだ。俺と一緒に来てくれ」


グレアムが差し出した手を、私は何の感慨もなく、ただ見つめていた。


グレアムのことが好きだった。

彼の声も、表情も、仕草も。

けれど、彼から偽物の番だと言われて、あっさりと捨てられた。

私は番の絆に囚われて、彼を愛していると思っていた。

けれど、その絆が切れれば、消え去ってしまうほどの関係しか築けていなかったのだ。

それ以上の信頼や愛情は、育っていなかった。

シオンと過ごす今だからこそ、そのことを実感できる。


グレアムもまた、番というものに盲目的に囚われている。

目の前にいる相手自身を見ようともせず、今もなお番や香りにこだわり続けている。


結局、彼は何も変わっていない。

同じことを繰り返しているのだ。


前は悲しくて何も言えなかった。

けれど、今ならちゃんと言える。

私は一つ息を吸って、かつての番に向き合った。


「無理です。一緒に行くことはできません」


きっぱりと拒絶すると、グレアムは言葉を失った。


「何で……」


「私は、あなたに偽物の番だと言われました」


「だが、君こそが俺の本当の番なんだ! 間違いだったんだ!」


声を荒らげる彼を、私は冷めた瞳で見つめた。


「……偽物とか本物とか、私にはどうでもいいんです」


自分でも驚くほど低い声が出た。


「番であろうとなかろうと、心から愛し合い、信頼し合えていたなら、香りなんて関係なかったはずです。今でも一緒にいられたでしょう」


私はかつての番を、愛の消え去った眼差しで、まっすぐに見据えた。


「あなたが愛していたのは、番という存在であって、私自身ではなかったんです。だから、あんなにも簡単に私を捨てたんですよ」


グレアムの顔が青ざめた。


「違うっ、俺は……」


「どちらにしろ、もう終わった話です」


私はグレアムに背を向け、後ろへと手を差し出した。その手の先には、シオンが立っていた。

彼は私の手を握り、優しく微笑みかけてくれた。

シオンに小さく頷き、それからグレアムへと向き直る。

今度こそ、はっきりと過去に決別するために。


「あなたが私を捨てたように、今度は私があなたを捨てます。グレアム・コードウェル」


「そんな……リゼット……。俺とお前は番同士で、離れるなんて……そんなこと……」


それまで黙っていたシオンが、私の肩を抱きながら、彼を煽るように口を開いた。


「『俺の前に二度と姿を見せるな』でしたっけ? あれだけ豪語していたあなたが、今度はリゼットに縋りつくなんて、道化もいいところですね」


「……シオン・カブラギ! 貴様っ、平民風情が俺に楯突く気か! 伯爵家を敵に回して無事にいられると思っているのか! ただの商人が、俺達のことに口を出すな。目障りだっ!」


激しく恫喝するグレアムに、シオンは冷たい光をその瞳に宿して彼を見据えると、ゆっくりと口角を上げた。


「何か思い違いをされていませんか? コードウェル卿」


「何だと!」


「そもそも僕はこの国の人間ではありません。そして、東国では商人の発言力も大きく、カブラギ商会は国の流通を支える大手商会の一つなんですよ。そんな僕に手を出せば、両国の取引にも影響が出るでしょうね。国際問題にも発展しかねません。その責任を負う覚悟がおありですか? コードウェル伯爵家次男のあなたに?」


「……ッ!」


グレアムが振り上げかけた拳を下ろし、悔しげに唇を強く噛んだ。


「それにリゼットは今、とても幸せなんですよ。邪魔をしないでほしいですね」


その瞬間、グレアムの視線が、私の肩を抱くシオンの腕に落ちる。


「……まさか、お前たちは……」


「ええ」


シオンは私を自分の胸元へと抱き寄せ、額に優しく口付けた。


「リゼットは僕の大切な人です」


その様子を目にしたグレアムの顔は青ざめ、肩が小刻みに震え始めた。


「……リゼット。本当、なのか……?」


「はい」


私はグレアムに向かって躊躇することなく、大きく頷いた。


「シオンは、私を何よりも大切にしてくれます。私も彼を、誰よりも愛しています」


グレアムの口がわずかに開いた。けれど、その先の言葉は出てこないまま、唇がわなわなと震え出した。

グレアムの視線が、私の髪や服へと向けられている。

彼の表情が、見る間に強張っていった。


「リゼット……。その香り……。その男の……」


獣人の血を引く彼は、普通の人間よりも嗅覚が優れている。その香りに気づいたのだろう。


「……嘘だっ、あああっ……!」


グレアムは頭を抱え、その場に倒れるように、うずくまった。


「ゔあああぁぁっ——」


彼は取り繕うこともせず、言葉にならない叫び声をあげ続けた。

私はそれを、ただ黙って見ていた。

シオンが、少し離れた場所に控えていたリーに目配せをする。すぐさまリーが警備員を呼び、グレアムを取り押さえた。

その様子を視界の端で捉えながら、私はシオンと一緒に歩き出した。

背後から、グレアムの声が聞こえてくる。


「リゼット! 待ってくれ! 俺を置いていくな――っ!」


彼の悲痛な慟哭が聞こえてきても、私は振り返らなかった。

シオンと二人、前だけを見て歩いていった。






翌日。


「グレアム。お前、カブラギ商会と何があった?」


コードウェル伯爵家の執務室に呼び出されたグレアムは、伯爵家当主である彼の父から、開口一番そう問いかけられた。


「商会が、こちらとの取引を見直すと申し出てきた。お前に身分を盾に恫喝されたことで、信用に関わる問題だと言われ、取り付く島もなかったぞ」


「それは……」


グレアムは、即座に一人の男の顔を思い浮かべた。


——シオン・カブラギ、あいつの差し金か。


奥歯を噛みしめる。しかし、グレアムは何も言い返せなかった。


カブラギ商会は東国の流通を大きく担い、この国の王族や貴族からも重宝されている新興の大手商会だ。

特に、医薬品を中心とした数多くの輸入品は、ここ数年でこの国の生活に欠かせないものとなっていた。

そんな商会との取引を打ち切られることになれば、伯爵家にとって大打撃となる。


「お前の勝手な言動で、家の信用を損なうな」


父の声は重く、厳しかった。


「貴族としての自覚も、騎士としての振る舞いも、今一度考え直せ。お前が失った信用を、家がすべて肩代わりするわけにはいかん。次はないぞ」


父の叱責にグレアムは唇を噛みながら、靴のつま先をじっと見て耐えていた。

気付けば、自分の信じていたものが少しずつ崩れていくのを感じていた。




パルミナもまた、グレアムの番を偽っていたことが明るみになると、周囲の人々は一斉に彼女から距離を置いた。

伯爵家を敵に回したことで、勤め先も辞めざるを得なくなった。

家族も彼女をかばうことはなく、縁を切られた。

グレアムの伴侶として得られるはずだった地位も、支援も、自分を持ち上げてくれていた人々との繋がりも、すべて泡のように消え去った。

彼女が夢見た未来は、もうどこにもない。

もはや、この街で暮らし続けることもかなわなくなり、彼女はひっそりと街を去った。






「シオン様、先日依頼された資料になります」


リーが数枚の書類を差し出し、シオンはそれにさっと目を通した。


「ふぅん。週末の午後に巡回ねぇ」


面白そうに書類をひらひらと揺らすシオンに、リーが生真面目な表情で尋ねた。


「どうされますか?」


「予定どおり決行だよ。人員を用意してくれる? それと、リゼットには気付かれないようにね」


「承知いたしました。それから、例の女性は隣国へ渡ったとのことです。引き続き、動向を確認いたしますか?」


「彼女はもういいよ。国を出たなら問題ない」


「では、そのようにいたします」


「あと、リゼットを呼んでもらえるかな?」


リーが部屋を退出すると、シオンは手帳を取り出した。

予定を書き加える彼の口元は、どこか楽しげに緩んでいた。


「仕上げといこうかな」


手帳を片づけたところで、扉をノックする音が聞こえた。


「どうぞ、入って」


かしこまった様子で入ってきたリゼットに、シオンは気楽にするよう声をかけた。


「ねえ、リゼット。今度の休み、僕と出かけない?」


「今度の休みに?」


「ああ。たまには仕事を忘れて、二人でゆっくり街を歩きたいと思ってね」


「それは良いわね!」


ぱっと顔を輝かせる彼女に、シオンは笑みを深めた。


「よかった。じゃあ、プランは僕に任せて、楽しみにしていてね」


彼女が嬉しそうに頷くのを見つめながら、シオンは机の上の書類を静かに裏返した。

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