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番に捨てられた少女を、幼馴染は逃がさない  作者: 崎子


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2

シオンの商会の奥には、彼が暮らす住居がある。

幼い頃から何度も訪れた、馴染みのある場所だった。


部屋に入ると、シオンは手早く口元を消毒してくれた。そのまま私をソファに座らせると、手慣れた手つきで紅茶を淹れた。


ミルクたっぷりのアッサムティー。いつもこの部屋で飲んできた、大好きな紅茶だった。

紅茶をゆっくりと口に含むと、ミルクの甘みがじんわりと広がった。


「顔を拭くといいよ。目が真っ赤だ」


そう言って、シオンは温かいタオルを差し出す。私はそれを受け取り、涙で濡れた目をそっと拭った。

それから私は、今日あったことをぽつりぽつりと話し始めた。


途中で何度も言葉が詰まり、嗚咽で話せなくなることもあった。そんなときも、シオンは急かすことなく、優しく背中をさすってくれた。

すべてを話し終える頃には、紅茶はすっかり冷めていた。


「……そっか」


シオンは静かに呟いた。


「辛かったね、リゼット」


「……ええ」


「君を、あんなに大切にすると言っていたのに」


私は顔を伏せ、彼が渡してくれたタオルを握りしめた。


「……もう、私への気持ちなんて、少しも残っていないみたい」


「そうだろうね」


冷たく突き放すような返事に、私は思わず顔を上げた。


「……シオン?」


彼はいつもの笑みを浮かべたまま、口を開いた。


「君を本当に大切に思うなら、そんな言い方はしないさ」


その言葉が、胸の奥に小さな染みを落とした。


「……そうよね。でも私……まだグレアムのことが嫌いになれないの」


口にした途端、涙が再び溢れ出した。


「忘れたいのに、忘れられない。あんなことを言われたのに、まだ会いたいと思ってしまうの……」


番(つがい)の絆とは、なんて厄介なのだろう。

頭では、彼がもう私を選ばないことも、もう戻れないことも分かっている。それなのに、心が彼を求めてしまう。

彼の幸せを願いたいと思う一方で、別の女性と笑い合う姿を想像するだけで、胸が引き裂かれそうになる。


「……こんな自分が、本当に嫌……」


シオンは表情を消し、しばらく黙っていた。

やがて私の隣に腰を下ろし、優しく手を重ねた。


「リゼット。君は、アイツとの番(つがい)の絆を切りたいと思う?」


突然の問いに、私はその言葉を反芻(はんすう)した。


「……グレアムとの番(つがい)の絆を切る……?」


「ああ」


「番(つがい)の絆を切ることができたら、気持ちも消えるのかしら……。この苦しさもなくなるの?」


「番(つがい)の絆を切れば、相手を求める衝動は薄れていく。少なくとも、今のように苦しみ続けることはないはずだよ」


シオンは、ゆっくりと言い聞かせるように話した。


「以前、番(つがい)を亡くした人から依頼を受けて、薬を取り寄せたことがある。それを飲んだ者は、番(つがい)への思いが消えるんだよ」


「……そんな薬があるのね」


「ああ。ただし、服用には大きな苦痛を伴う。三日三晩、まともに動けないこともあるんだ。それを乗り越えれば、番(つがい)の絆が切れて、番(つがい)を思う気持ちも消え失せる」


シオンは、アッシュグレイの瞳をスッと細めた。


「一度切れた絆は戻らない。相手側の絆が残っていようと、薬を飲んだ側の絆は切れたままだ」


「永遠に……?」


「そう。永遠に、だ。後からやり直そうとしても、二度と元に戻すことはできない」


その言葉を口にするときだけ、彼の声が少し低くなった。

思いがけない話に、私は俯(うつむ)いた。

グレアムと過ごした一年間には、たくさんの思い出がある。


初めて会ったときの彼。照れた笑いを浮かべた彼。そして、共に笑って過ごした日々。

あのときの幸せは、嘘ではなかった。

少なくとも、私にとっては本物だった。

けれど、その思い出があるからこそ、彼に縋(すが)りつきたくなる衝動も消えない。


「今はまだ、どうしたらいいか、分からない……」


そう答えると、シオンは神妙に頷いた。


「それでいいよ。すぐに決める必要はない」


彼は私の頭を優しく撫でた。


「今夜はここに泊まっていきなよ。ゲストルームのシーツを替えておくね」


「ありがとう……シオン」


今日はどうしても一人になるのが辛くて、怖くて、私は彼の言葉に甘えることにした。




その夜、ベッドに入っても、グレアムの冷たい声が耳によみがえり、私は泣きそうになるのを押し殺した。



彼と出会ったのは、一年前。


買い物中、街を巡回していた彼に声をかけられたのが始まりだった。

私と目が合った彼は、目を見開いたまま固まっていた。

しばらく金色の瞳で私をじっと見つめたあと、我に返ったように口を開いた。


「……すまない。俺はグレアム・コードウェルだ。君の名前を教えてもらえるか?」


いきなり声をかけられ、警戒心が先立った。けれど、騎士団の制服に身を包んだ彼を、無視することもできなかった。


「……リゼット・マイヤーです。あの、何かありましたか?」


「驚かずに聞いてほしいんだ。君は、俺の番(つがい)なんだ」


「番(つがい)、ですか? 私が? あなたの?」




——そんな突拍子もない出会いからしばらくの間、私は彼に怯えていた。


騎士であるグレアムは身体も大きく、初めて会ったときは威圧感があって、少し怖かった。

それでも、彼はそんな私にも優しく接してくれた。

元々、無口でぶっきらぼうな性格なのだろう。

彼自身も、私をどう扱えばいいのか戸惑っているように見えた。

不器用ながらも、私を見つめる瞳に宿る熱に、いつしか私も心を奪われていった。


それが。


『お前は俺の番(つがい)ではない』


それなら、どうしてあのとき、私に声をかけたの?

どうして、私に微笑みかけたの?

今さら偽物だなんて、どうして言うの……?


考えれば考えるほど、胸が苦しくなる——。





「リゼット、まだ起きてるの?」


扉越しに、シオンの控えめな声が聞こえた。

少し間を置いて、私は返事をした。


「……うん。ちょっと眠れなくて」


「そっか。ホットミルクを持ってきたんだ。飲むと少しは落ち着くよ」


「ありがとう……」


私の返事を合図に、シオンが部屋に入ってきて、カップを手渡してくれた。


「熱いから気をつけなよ」


シオンはベッドの傍らにしゃがみ、私の顔を覗き込んだ。


「一人で泣いてたの?」


「泣いてないわよ」


「いつも言ってるよね? 泣きたいときは、傍にいるってさ」


彼の拗ねたような口調に、私は少しだけ口元を緩めた。


「だから、泣いてなんかないわ」


「そう? 泣きたくなったら、すぐ呼んでよ?」


納得していない様子のシオンを見ながら、私はホットミルクに口をつけた。


「温かい……」


「それを飲んで、頭を空っぽにするのが一番だよ。なんなら、眠れるまで添い寝してあげようか?」


シオンは笑いながら、私の頭を撫でた。


「そうね……。それもいいかもしれない」


頭を撫でていたシオンの手が止まり、その笑顔も固まった。


「ごめんなさい。シオンに甘えすぎだよね」


シオンが一緒にいてくれたら、気が紛れるかもしれない。けれど、彼にとっては迷惑でしかない。そう思い直した。


「リゼットを甘やかすのは、僕の趣味だから気にしなくていいよ。……眠れなくなったら、いつでも僕を呼べばいいから。今は休みなよ。分かった?」


シオンが部屋を出ていったあと、私は安心したのか、今度は何も考えることなく、眠りに落ちていった。

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