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シオンの商会の奥には、彼が暮らす住居がある。
幼い頃から何度も訪れた、馴染みのある場所だった。
部屋に入ると、シオンは手早く口元を消毒してくれた。そのまま私をソファに座らせると、手慣れた手つきで紅茶を淹れた。
ミルクたっぷりのアッサムティー。いつもこの部屋で飲んできた、大好きな紅茶だった。
紅茶をゆっくりと口に含むと、ミルクの甘みがじんわりと広がった。
「顔を拭くといいよ。目が真っ赤だ」
そう言って、シオンは温かいタオルを差し出す。私はそれを受け取り、涙で濡れた目をそっと拭った。
それから私は、今日あったことをぽつりぽつりと話し始めた。
途中で何度も言葉が詰まり、嗚咽で話せなくなることもあった。そんなときも、シオンは急かすことなく、優しく背中をさすってくれた。
すべてを話し終える頃には、紅茶はすっかり冷めていた。
「……そっか」
シオンは静かに呟いた。
「辛かったね、リゼット」
「……ええ」
「君を、あんなに大切にすると言っていたのに」
私は顔を伏せ、彼が渡してくれたタオルを握りしめた。
「……もう、私への気持ちなんて、少しも残っていないみたい」
「そうだろうね」
冷たく突き放すような返事に、私は思わず顔を上げた。
「……シオン?」
彼はいつもの笑みを浮かべたまま、口を開いた。
「君を本当に大切に思うなら、そんな言い方はしないさ」
その言葉が、胸の奥に小さな染みを落とした。
「……そうよね。でも私……まだグレアムのことが嫌いになれないの」
口にした途端、涙が再び溢れ出した。
「忘れたいのに、忘れられない。あんなことを言われたのに、まだ会いたいと思ってしまうの……」
番の絆とは、なんて厄介なのだろう。
頭では、彼がもう私を選ばないことも、もう戻れないことも分かっている。それなのに、心が彼を求めてしまう。
彼の幸せを願いたいと思う一方で、別の女性と笑い合う姿を想像するだけで、胸が引き裂かれそうになる。
「……こんな自分が、本当に嫌……」
シオンは表情を消し、しばらく黙っていた。
やがて私の隣に腰を下ろし、優しく手を重ねた。
「リゼット。君は、アイツとの番の絆を切りたいと思う?」
突然の問いに、私はその言葉を反芻した。
「……グレアムとの番の絆を切る……?」
「ああ」
「番の絆を切ることができたら、気持ちも消えるのかしら……。この苦しさもなくなるの?」
「番の絆を切れば、相手を求める衝動は薄れていく。少なくとも、今のように苦しみ続けることはないはずだよ」
シオンは、ゆっくりと言い聞かせるように話した。
「以前、番を亡くした人から依頼を受けて、薬を取り寄せたことがある。それを飲んだ者は、番への思いが消えるんだよ」
「……そんな薬があるのね」
「ああ。ただし、服用には大きな苦痛を伴う。三日三晩、まともに動けないこともあるんだ。それを乗り越えれば、番の絆が切れて、番を思う気持ちも消え失せる」
シオンは、アッシュグレイの瞳をスッと細めた。
「一度切れた絆は戻らない。相手側の絆が残っていようと、薬を飲んだ側の絆は切れたままだ」
「永遠に……?」
「そう。永遠に、だ。後からやり直そうとしても、二度と元に戻すことはできない」
その言葉を口にするときだけ、彼の声が少し低くなった。
思いがけない話に、私は俯いた。
グレアムと過ごした一年間には、たくさんの思い出がある。
初めて会ったときの彼。照れた笑いを浮かべた彼。そして、共に笑って過ごした日々。
あのときの幸せは、嘘ではなかった。
少なくとも、私にとっては本物だった。
けれど、その思い出があるからこそ、彼に縋りつきたくなる衝動も消えない。
「今はまだ、どうしたらいいか、分からない……」
そう答えると、シオンは神妙に頷いた。
「それでいいよ。すぐに決める必要はない」
彼は私の頭を優しく撫でた。
「今夜はここに泊まっていきなよ。ゲストルームのシーツを替えておくね」
「ありがとう……シオン」
今日はどうしても一人になるのが辛くて、怖くて、私は彼の言葉に甘えることにした。
その夜、ベッドに入っても、グレアムの冷たい声が耳によみがえり、私は泣きそうになるのを押し殺した。
彼と出会ったのは、一年前。
買い物中、街を巡回していた彼に声をかけられたのが始まりだった。
私と目が合った彼は、目を見開いたまま固まっていた。
しばらく金色の瞳で私をじっと見つめたあと、我に返ったように口を開いた。
「……すまない。俺はグレアム・コードウェルだ。君の名前を教えてもらえるか?」
いきなり声をかけられ、警戒心が先立った。けれど、騎士団の制服に身を包んだ彼を、無視することもできなかった。
「……リゼット・マイヤーです。あの、何かありましたか?」
「驚かずに聞いてほしいんだ。君は、俺の番なんだ」
「番、ですか? 私が? あなたの?」
——そんな突拍子もない出会いからしばらくの間、私は彼に怯えていた。
騎士であるグレアムは身体も大きく、初めて会ったときは威圧感があって、少し怖かった。
それでも、彼はそんな私にも優しく接してくれた。
元々、無口でぶっきらぼうな性格なのだろう。
彼自身も、私をどう扱えばいいのか戸惑っているように見えた。
不器用ながらも、私を見つめる瞳に宿る熱に、いつしか私も心を奪われていった。
それが。
『お前は俺の番ではない』
それなら、どうしてあのとき、私に声をかけたの?
どうして、私に微笑みかけたの?
今さら偽物だなんて、どうして言うの……?
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる——。
「リゼット、まだ起きてるの?」
扉越しに、シオンの控えめな声が聞こえた。
少し間を置いて、私は返事をした。
「……うん。ちょっと眠れなくて」
「そっか。ホットミルクを持ってきたんだ。飲むと少しは落ち着くよ」
「ありがとう……」
私の返事を合図に、シオンが部屋に入ってきて、カップを手渡してくれた。
「熱いから気をつけなよ」
シオンはベッドの傍らにしゃがみ、私の顔を覗き込んだ。
「一人で泣いてたの?」
「泣いてないわよ」
「いつも言ってるよね? 泣きたいときは、傍にいるってさ」
彼の拗ねたような口調に、私は少しだけ口元を緩めた。
「だから、泣いてなんかないわ」
「そう? 泣きたくなったら、すぐ呼んでよ?」
納得していない様子のシオンを見ながら、私はホットミルクに口をつけた。
「温かい……」
「それを飲んで、頭を空っぽにするのが一番だよ。なんなら、眠れるまで添い寝してあげようか?」
シオンは笑いながら、私の頭を撫でた。
「そうね……。それもいいかもしれない」
頭を撫でていたシオンの手が止まり、その笑顔も固まった。
「ごめんなさい。シオンに甘えすぎだよね」
シオンが一緒にいてくれたら、気が紛れるかもしれない。けれど、彼にとっては迷惑でしかない。そう思い直した。
「リゼットを甘やかすのは、僕の趣味だから気にしなくていいよ。……眠れなくなったら、いつでも僕を呼べばいいから。今は休みなよ。分かった?」
シオンが部屋を出ていったあと、私は安心したのか、今度は何も考えることなく、眠りに落ちていった。




