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「夕日の道で…」  作者: 源三郎


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第4章 ただいま

懐かしい蝉の声。見覚えのある火の見やぐら。

 帰ってきた。

 けれど、帰ってきた場所に、僕の居場所はあるのだろうか。


 集落に入ると、蝉の声の質が変わった。


 山の中の蝉は、どこか遠慮がちに鳴いていた。けれど人の暮らしがある場所の蝉は、遠慮を知らない。電柱に、街路樹に、屋根の軒先に取りついて、体の芯まで震わせるような声を一斉に浴びせてくる。子供の頃、この声が嫌いだった。今は、懐かしい。


 国道沿いの集落。道の両側に、古い商店や民宿が並んでいる。温泉旅館の看板。みやげ物屋のガラス戸。色褪せた自動販売機が、道端にぽつりぽつりと立っている。夏の平日の昼前。観光客の姿はまばらで、集落は日常の中にあった。


 火の見やぐらが見えた。


 錆びた鉄骨の、細い三角形の塔。頂上に小さな鐘がついている。台風の日に鳴ったことを覚えている。夜中に鳴ると怖かった。あれは確か、小学校三年か四年の夏だった。


 帰ってきた。


 本当に、帰ってきた。見覚えのある景色が、次々と視界を埋めていく。角の郵便ポスト。用水路にかかった小さな石橋。コンクリートの塀に這う蔦。どれも少しだけ古くなって、少しだけ小さくなって、記憶とは微妙にずれている。けれど確かに、ここだった。


 嬉しかった。胸の奥が、じんと熱くなった。――熱くなった気がした。涙は出ない。涙の出し方を忘れてしまったのか、涙を出す場所がもう壊れてしまったのか。


 前方から、人が来た。


 郵便配達員だった。赤いバイクを降りて、手紙の束を持ったまま歩いている。優の方に向かってくる。狭い歩道。すれ違うには、どちらかが避けなければならない距離。


 優は、反射的に半歩横に寄った。


 配達員は、寄らなかった。


 まっすぐ歩いてきた。優の方を見ていない。視線は手元の手紙の束に落ちている。ぶつかる、と思った瞬間――。


 配達員は、優の体を通り抜けた。


 通り抜けた。


 肩と肩がぶつかる衝撃がなかった。触れた感触がなかった。配達員の体温も、息遣いも、風圧も。何もなかった。相手の体が優の体を素通りして、何事もなかったように歩き去っていった。


 優は立ち止まった。


 振り返る。配達員の背中が遠ざかっていく。一度も振り返らない。足音が一定のリズムで鳴っている。優とすれ違ったことに、微塵も気づいていない。


 ……ぶつかったのに。


 いや、ぶつかっていない。通り抜けた。通り抜けた、のだ。


 夜行バスの運転手は、優の手を見なかった。旧道の軽トラの運転手は、優に会釈しなかった。小銭は掴めなかった。缶のプルタブは開けられなかった。影がなかった。汗をかかなかった。足音がしなかった。風が冷たくなかった。


 全部、繋がっている。


 全部――


 「優くん」


 後ろから、ゆりの声がした。静かで、けれど切迫した声。四メートルの距離を保ったまま、優の背中に向けられた声。


 「歩こう」


 優は、ゆりを見た。


 彼女の顔は穏やかだった。穏やかに作っていた。けれど目だけが違っていた。優が何に気づきかけているのかを知っている目。それ以上気づかないでほしいと願っている目。


 優は、前を向いた。


 考えるな。考えるのは後だ。今は、歩け。母の家に行け。母の顔を見ろ。それだけだ。


 歩く。


 道の向こうから、ランドセルを背負った小学生の一団がやってきた。四人か五人。男の子と女の子が入り混じって、何かを笑いながら話している。声が高い。夏の昼下がりに、あの頃の自分もあんなふうに歩いていたのだろうか。


 優は道の端に寄った。


 子供たちは、寄らなかった。


 優のいる場所を、そのまま歩いてきた。笑いながら。話しながら。優の体をすり抜けて、何も感じず、何も見えず、通り過ぎていった。


 一人の女の子の髪が、優の腕をかすめた――はずだった。髪の毛一本分の感触すらなかった。


 子供たちの笑い声が遠ざかっていく。


 優は、動けなかった。


 足が止まっていた。道の真ん中に立っていた。誰にも見えない。誰にも触れない。この世界に、自分だけが映っていない。


 後ろで、サンダルの音が止まった。


 四メートル。ゆりはそこにいた。何も言わなかった。ただ、立っていた。優が再び歩き出すのを、待っていた。



    *



 実家の前に、立っていた。


 木造の、古い二階建て。板塀が少し傾いて、庭の柿の木が道路側に枝を伸ばしている。父が生きていた頃は、きちんと剪定されていた枝だ。一年間、誰も切らなかったのだろう。葉が茂りすぎて、門灯が半分隠れている。


 門柱の表札。「大崎」。父の字だった。角ばった、几帳面な字。


 触れようとして、やめた。触れても感触がないことを、もう知っている。


 玄関の引き戸が、半分開いていた。


 夏だから開けているのだ。風通しのために。母は、暑くてもなかなか冷房をつけない人だった。父もそうだった。田舎の家は風を通せば涼しい、が父の口癖だった。


 優は、引き戸の隙間から家の中に入った。


 入った、という言い方が正しいのか分からない。体が戸に触れたのか、すり抜けたのか、自分でも分からなかった。気がつくと、中にいた。


 靴を脱ぐ動作をした。癖で。脱ぐ必要があるのかも、もう分からなかったけれど。


 廊下は暗かった。夏の外光に慣れた目には、家の中が洞窟のように暗く感じる。板の間の廊下。壁にかかった古い柱時計。台所から、かすかに味噌汁の匂いがする。


 匂い。


 匂いだけが、はっきりと届いた。これまで感触は遠く、温度は曖昧で、風は肌に届かなかった。なのに、匂いだけが鮮明だった。母の味噌汁の匂い。白味噌と、豆腐と、ネギ。この匂いを、何年嗅いでいなかったのだろう。


 廊下を進む。足音はしない。板の間を踏んでいるのに、軋む音がしない。まるで、この家に入ったのが自分ではないみたいだ。


 奥の部屋に、明かりが点いていた。


 仏間だった。


 襖が開いている。八畳の和室。正面に、仏壇があった。父の写真が飾られている。日に焼けた顔で笑っている、あの写真。朝、東京のアパートで触れた写真立ての中の父と、同じ顔。


 仏壇の前に、人がいた。


 小さな背中。白髪の混じった髪を後ろで束ねて、紺色の割烹着を着ている。畳の上に正座して、仏壇に向かっている。


 母だった。


 「――母さん」


 声が出た。自分でも驚くほど、自然に。


 「ただいま」


 母は動かなかった。


 線香の煙が、まっすぐに立ち上っている。時計の針が動く音がする。蝉の声が、遠く聞こえている。


 「母さん。帰ってきたよ」


 もう一度、言った。今度は少し大きな声で。喉に力を入れて。届け、と思って。


 母は動かなかった。


 肩が、小さく震えていた。


 泣いているのだと、気づいた。声を殺して、泣いている。背中を丸めて、両手を膝の上で握りしめて、嗚咽を堪えている。正座した膝の上に、涙が落ちていた。紺色の割烹着の膝が、濡れて色が変わっている。


 仏壇の横に、何かが置いてあった。


 白い封筒。病院の名前が印刷されている。封が開いている。中身が少しだけ見えた。検査結果の用紙。折り畳まれた紙の隙間から、数字とアルファベットが覗いている。優の名前が書かれていた。「大崎優 様」。


 その隣に、写真が一枚。


 額には入っていない。プリントされたばかりの、L判の写真。優の顔だった。最近撮ったものではない。もっと前の、まだ笑い方を覚えていた頃の顔。遺影用に、と言われて撮ったわけではないだろう。けれど母は、それをこの場所に置いていた。


 仏壇には、父の遺影。


 その横に、息子の写真。


 母は、二人分の死を悼んでいた。


 「……母さん」


 声が震えた。震えたけれど、届かなかった。


 優は一歩踏み出した。母の肩に触れようとした。何度も触れた肩。抱きしめたことはなかったけれど、幼い頃、泣きながらしがみついた肩。


 手が、肩をすり抜けた。


 指が、母の体の中を通り過ぎた。温度もなかった。抵抗もなかった。何もなかった。母がそこにいるのに、優の手はそこにいない。


 母が、かすかに身じろぎした。何かを感じたのか。肩のあたりに手をやって、不思議そうに振り返った。


 目が合った――ように見えた。


 母の目が、優の立っている場所を向いた。一秒。二秒。それから、何も見えなかったかのように、また仏壇に向き直った。


 何も映っていなかった。


 母の目に、優は映っていなかった。


 膝から力が抜けた。


 立っていられなかった。畳の上に崩れ落ちるように座り込んだ。音はしなかった。体重がないのだから、当然だった。


 母が、すぐそばにいる。手を伸ばせば届く距離に。同じ部屋の中に。なのに、触れられない。声が届かない。目に映らない。


 ――僕は、もう。


 その先を、言葉にできなかった。言葉にしたら、本当になってしまう気がした。


 味噌汁の匂いが、まだしている。母が、優のために作ったのではない味噌汁。一人分の。


 視界が歪んだ。涙ではなかった。涙は出ない。出し方を、もう持っていなかった。それでも、何かが壊れかけていた。胸の奥の、最後の壁が。


 「優くん」


 声がした。


 四メートルの外からではなかった。すぐ近くだった。ゆりの声が、すぐ後ろから聞こえた。


 振り返る。


 ゆりが、襖のところに立っていた。四メートルの境界線を越えて、部屋の中に入ってきていた。二メートル。いや、もっと近い。手を伸ばせば届くところに。


 顔が、泣いていた。


 笑おうとしていなかった。初めてだった。これまでずっと、泣きそうな顔を笑顔に変えようとしていた彼女が、もう隠すことをやめていた。涙が頬を伝っている。唇が震えている。でも声は、不思議と静かだった。


 「見ないで」


 ゆりが言った。


 「お願い。今は、見ないで」


 仏壇のことではなかった。母のことでもなかった。自分の涙のことでもなかった。


 優が、すべてを悟ってしまうこと。今、この瞬間に、取り返しのつかない答えに辿り着いてしまうこと。それを、ゆりは止めようとしていた。


 「行こう」


 ゆりが、手を差し出した。


 あの峠で缶を渡したときのような、腰の引けた姿勢ではなかった。腕をいっぱいに伸ばして、怯えながら差し出す手ではなかった。


 まっすぐだった。


 掌を上に向けて、指を開いて、震えもせず、優に向かって差し出された手。四メートルの距離を、境界線を、すべてを踏み越えて。


 「お父さんの、お墓に行こう」


 その声が、優の耳に届いた。


 父の墓。そうだ。最初からそのために来たのだ。母に会うためだけではない。父の墓に手を合わせるために。自分の足が動くうちに、あの場所に辿り着くために。


 優は、ゆりの手を見た。


 白い指。細い手首。第一章の夜明けの道で差し出された手と、同じ手。あのときは手を取ろうとして、感触の薄さに戸惑った。


 今度は、迷わなかった。


 手を伸ばした。ゆりの掌に、自分の手を重ねた。


 温かかった。


 圧はなかった。皮膚を押し返す抵抗はなかった。相変わらず、水の中に手を浸しているような、曖昧な感触だった。けれど温度だけが、はっきりと伝わってきた。生きている人間の体温。


 ゆりの指が、優の手の輪郭をなぞるように動いた。握れない。でも、寄り添うことはできる。触れられない。でも、隣にいることはできる。


 ゆりは、泣きながら笑った。


 涙が顎の先から落ちて、畳に小さな染みを作った。その染みを、優は見た。彼女の涙は、畳を濡らすことができる。彼女の足音は、砂利を鳴らすことができる。彼女の体温は、缶の水滴を溶かすことができる。


 僕にはもう、それができない。


 それだけが、はっきりと分かった。


 母の背中を振り返った。仏壇の前で、まだ肩を震わせている小さな背中。


 ――母さん、ごめん。


 声は届かない。分かっている。それでも、心の中で言った。


 ゆりが、優の手の辺りに自分の手を添えたまま、仏間を出た。優もついていった。廊下を通り、玄関を抜け、外に出た。


 夏の日差しが、また二人を包んだ。


 蝉が鳴いている。風が吹いている。世界は何も変わっていない。ただ、優の中で何かが決定的に変わっていた。


 ゆりは、手を離さなかった。


 触れていないのに離さない。矛盾しているようで、矛盾していなかった。温度の記憶だけが、二人の掌の間に残っている。


 距離は、もうなかった。


 五メートルも、四メートルも。ゆりは優の隣を歩いていた。半歩後ろ。肩が並ぶほど近い。


 「……道、覚えてる?」


 ゆりが聞いた。


 「父さんの墓まで?」


 「……うん」


 覚えていた。集落を抜けて、田んぼ道を歩いて、山の麓にある小さな墓地。父が眠っている場所。


 歩く。


 隣に、サンダルの音がある。


 かさり。かさり。


 後ろではなく、隣に。


お読みいただきありがとうございます。

 距離が消えました。五メートルが、四メートルが、ゼロになりました。

 触れられない。でも、隣にいる。それが、ゆりの選んだ答えでした。

 次話、夕日の中で、優は父の墓の前に立ちます。

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『夕日の道で…』を最後まで見届けてくださった読者様へ

五メートルの距離から始まり、ゼロになり、そして現世での「ただいま」に辿り着くまで。二人の一途な愛の軌跡をお読みいただき、本当にありがとうございました。[cite: 112]

もし結末に感動していただけましたら、以下のリンクや画面最下部の評価にて応援の声を届けていただけますと幸いです。

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