表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「夕日の道で…」  作者: 源三郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

第3章 峠

峠には、名前を交わすのにふさわしい静けさがあった。

 長野と岐阜の境目。向こう側に降りれば、もう戻れない。

 ――それは、この峠だけの話ではなかったのかもしれない。


 最後のカーブを曲がったとき、風が変わった。


 山の斜面に遮られていた風が、突然、正面から吹きつけてきた。冷たくて強い風だった。標高千八百メートルの空気が、夏だということを忘れさせるほど鋭く頬を叩く。――はずだった。風の存在は分かる。髪が揺れている。シャツの裾がはためいている。けれど、冷たさが肌に届かない。風の中に立っているのに、風の外にいるような感覚。


 峠だった。


 道が、平らになっていた。それまで延々と続いていたつづら折りが終わり、稜線に沿うように道が左右に伸びている。山と山の間の、いちばん低い鞍部。長野と岐阜の境目。ここを越えれば、向こう側だ。


 振り返る。


 来た道が、はるか下までジグザグに落ちている。つづら折りの一本一本が、山肌に刻まれた古い傷のように見えた。その向こうに、信州側の谷が広がっている。朝の光を受けて、山々の稜線が幾重にも重なっていた。遠くに穂高の白い頂が、もう小さく見える。


 ここまで登ってきたのだ。


 サンダルの音が、後ろから近づいてきた。かさり、かさり。いつもより少しだけ速い。


 彼女が、峠に出た。


 風が彼女の髪を巻き上げた。白いワンピースの裾が大きくはためいて、彼女は片手で押さえた。もう片方の手で、乱れた髪を耳の後ろに押し込む。その仕草が、ひどく自然で、ひどく生々しかった。風に抗う体。額に張りつく汗。息を切らせて、それでもここまで登ってきた人間の、重さのある存在感。


 優は、自分の髪に手をやった。風に揺れているのは分かる。けれど、揺れている髪の感触が指に伝わらない。触っているのに、触っていないような。


 「……着いた」


 彼女が言った。小さく息を吐いて、膝に手を置いて、しばらく動かなかった。登りで消耗しているのだ。サンダルで、この道を。


 峠の道幅は、ここだけ少し広くなっていた。かつて車がすれ違えるように作られた退避帯の名残だろう。道の脇に、朽ちかけた木製のベンチがあった。座面の板が一枚外れて、草に埋もれている。その向こうに、錆びた看板が立っていた。


 「安房峠 標高一七九〇メートル」


 文字は半分かすれていたが、読めた。


 彼女がベンチの残骸に腰を下ろした。いつもの五メートルを忘れたように、優の近くに。三メートル。


 ――近い。


 彼女も気づいたのだろう。一瞬、体がこわばった。反射的に立ち上がりかけて、けれど、そのまま座り直した。疲れが、距離のルールに勝ったのかもしれない。あるいは、峠という場所が持つ空気が、どこかで彼女の緊張を緩めたのかもしれない。


 三メートル。その距離で、彼女は水を飲んでいた。ペットボトルを傾けるたびに、喉が小さく動く。汗が首筋を伝って、鎖骨のくぼみに溜まっている。


 優は目を逸らした。見てはいけないものを見ている気がした。生きている人間の体の、あまりにも鮮明な細部を。


 風が吹く。


 二人の間を、峠の風が通り抜けていく。


 「……名前」


 優は、自分の口からその言葉が出たことに驚いた。考える前に、声になっていた。


 彼女が顔を上げた。


 「ここまで一緒に歩いてきて、まだ名前を聞いてなかった」


 声が少し震えた。緊張しているのだ。こんな簡単なことを聞くのに。峠の頂上で、風に吹かれながら、三メートルの距離で。


 彼女は、しばらく黙っていた。


 ペットボトルの蓋をゆっくり閉めて、膝の上に置いた。風が髪を揺らしている。その奥の目が、優を見ていた。まっすぐに。何かを確かめるように。何かを手放すように。


 「ゆり」


 短い音だった。風に溶けてしまいそうなくらい小さな声だった。


 「白崎、ゆり」


 ゆり。


 その名前が、優の耳に入った瞬間、何かが起きた。


 胸の奥で、水面に石が落ちたような波紋が広がった。小さな波が、記憶の底に沈んだものを揺らしている。病院。夏の光。白いカーテン。ベッドの上から見える空。誰かの声。誰かの笑い声。「ゆうくん」と呼ぶ、高くて細い声――。


 断片だ。脈絡のない断片が、水の中で光る貝殻のように浮かんでは沈む。手を伸ばしても掴めない。もう少しで形になりそうなのに、指の間をすり抜けていく。


 「……ゆりさん」


 口に出してみた。舌の上で転がしてみた。知らない名前のはずなのに、口が覚えているような気がした。何年も前に何度も呼んだことがあるような、舌に馴染む音。


 「僕は、大崎優です」


 彼女は――ゆりは、小さく首を傾げて、笑った。


 「知ってる」


 そう言って、また前を向いた。


 知ってる。もちろん、そうだ。彼女はあの夜明けの道で「優くん」と呼んだ。知っている。最初から知っていた。


 知っていたのに、なぜ今まで名乗らなかったのだろう。優が聞くまで、黙って待っていた。


 ――いや、違う。


 彼女は、僕に「思い出して」ほしかったんじゃないか。


 僕が自分を見失わないように、僕自身の口からこの名を引き出すのを、五メートルの距離を保ちながら、ずっと後ろで祈るように待っていた。


 その沈黙の中に、どれほどの時間が詰まっていたのだろう。名乗れば済む話だった。「私はゆりだよ、覚えてない?」と言えば、何かが繋がったかもしれない。でも、彼女はそうしなかった。名前を告げて、「誰?」と返されることが怖かったのかもしれない。覚えていてほしかった人に、忘れられていると確認させられることが。


 彼女にとって僕は、名前を呼べる相手だった。僕にとって彼女は、名前すら思い出せない相手だった。その非対称の残酷さに、優は今さらのように気づいた。


 けれど、胸の奥で何かが軋んだ。思い出せないのに、痛い。それが何より不思議だった。


 「……どこかで、会ったことありますか」


 聞いてしまった。聞かないつもりだったのに。


 ゆりの笑顔が、一瞬だけ揺れた。唇の端がかすかに震えて、それからまた、穏やかな形に戻った。


 「どうだろう。あるかもしれないし、ないかもしれない」


 答えになっていなかった。でも、それ以上は聞けなかった。彼女の目の奥に、「今は聞かないで」という光が見えた気がしたから。


 風が止んだ。


 峠の空気が、一瞬だけ凪いだ。二人の間の三メートルが、五メートルよりも近いはずなのに、もっと遠く感じた。名前を交わした。それだけのことが、二人の間に何かを変えた。距離が縮まったのではない。距離の意味が変わったのだ。



    *



 峠の反対側は、急だった。


 長野側の十一のカーブに比べて、岐阜側は三つしかない。その分、一つ一つの勾配がきつい。道は山の斜面をほとんど直線的に落ちていて、膝に負担がかかる角度だった。


 ――膝が痛くなるはずだ。急な下り坂を歩けば、誰だって脚にくる。


 痛くなかった。何も感じなかった。相変わらず、体は嘘みたいに軽い。


 後ろから、ゆりの足音が聞こえる。かさり、かさり。峠の上では三メートルまで縮まっていた距離が、下り始めるとまた広がっていった。四メートル。四メートル半。五メートル近く。


 名前を教えてくれた。笑ってくれた。それなのに、距離は戻っていく。


 優はそのことに触れなかった。触れてはいけないのだと、もう分かっていた。


 下り坂の途中で、景色が開けた。


 眼下に、平湯の集落が見えた。


 山に囲まれた小さな盆地に、家々の屋根が並んでいる。旅館の大きな建物がいくつか見えた。温泉の湯気が、朝の空気の中にかすかに白く立ち上っている。その向こうに、田んぼが広がっている。緑の中に、細い道が蛇のようにうねっている。


 見覚えのある風景だった。


 あの田んぼの向こうに、実家がある。父と母が暮らした家。父がいなくなって、母が一人で守っている家。


 胸が詰まった。――いや、詰まったような気がした。心臓はもう痛まない。涙も出ない。ただ、感情だけが胸の中で渦を巻いている。器のない水のように、行き場を失って溢れかけている。


 「あれが、平湯?」


 後ろから、ゆりの声がした。


 「うん」


 「きれいな場所だね」


 「……うん」


 優は、それ以上言えなかった。


 下りていく。


 旧道は集落の手前で国道に合流した。草に埋もれかけた分岐を抜けると、急にアスファルトが滑らかになった。白線がくっきり引かれていて、ガードレールが銀色に光っている。生きている道に、戻ってきた。


 国道沿いに、自動販売機があった。


 古い型の、飲料の自販機。表面が色褪せて、商品サンプルの色が飛んでいる。電気は入っているらしく、ぼんやりと光っていた。


 喉が渇いている――ような気がした。渇いているというより、何かを飲むという行為がしたかった。冷たいものを喉に流し込んで、体の中を満たしたかった。


 ポケットに手を入れた。小銭がある。指先に金属の輪郭を感じる。……感じる気がする。


 硬貨を取り出そうとした。


 指が、うまく動かなかった。硬貨の縁を掴もうとすると、指先が滑る。何度やっても同じだった。まるで硬貨が濡れた石鹸のように、指と指の間をすり抜けていく。


 「……」


 優は、ポケットから手を引き抜いた。


 汗で手が滑っているだけだ。疲れているのだ。そういうこともある。


 「あ、私が買いますよ」


 ゆりの声がした。いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。三メートル。いや、二メートルもない。彼女の手が、もう自販機のボタンに伸びている。


 硬貨を投入する音。ボタンを押す音。がたん、と缶が落ちる音。どの音も明確で、確かで、この世界に食い込んでいる。


 ゆりが缶を取り出した。冷えた缶の表面に、水滴がついている。


 それを、優に差し出した。


 今度は、二メートルの距離ではなかった。腕一本分の距離。ほとんど手が届く。


 「はい」


 小さな声だった。峠の上で名前を交えてから、彼女の声のどこかが変わっていた。硬さが少し溶けたような。でも、その分だけ別の何かが滲んでいるような。


 優は、缶に手を伸ばした。


 指先が缶に触れた。金属の冷たさ。水滴の湿り気。確かに、触れている。――触れている気がする。


 握った。


 缶が、手の中にあった。落ちなかった。重さがある。質量がある。冷たい。


 ……持てた。


 ゆりの顔を見た。彼女は、優の手元を見つめていた。唇を結んで、眉をわずかに寄せて、祈るような目で。缶を握る優の指を、一本一本確認するように。


 プルタブに指をかけた。


 開かなかった。


 爪がタブの下に入らない。指先がすべる。力が入らない。缶を握ることはできたのに、開けることができない。


 優は、缶を見つめた。手の中にある冷たい缶を。持てるのに、開けられない。この世界にあるものに、かろうじて触れることはできる。けれど、その先ができない。


 「――開けようか?」


 ゆりが、手を伸ばしかけた。


 その指先が、優の手に触れる直前で止まった。ぴたり、と。空中に縫い留められたみたいに。


 二人の指の間は、五センチもなかった。


 ゆりの指先が、震えていた。近づきたい。でも、触れられない。触れてはいけない。その境界線の上で、彼女の手が宙に浮いている。


 「……大丈夫です」


 優は缶をゆりに返した。ゆりの掌に缶を乗せるとき、指と指がかすめた。


 触れた、と思った。


 温かかった。確かに温かかった。けれど、それが本当に「触れた」感触なのか、自信がなかった。第一章の夜明けと同じだ。温度はある。けれど、圧がない。皮膚を押し返す、あの確かな抵抗がない。


 ゆりが息を呑んだのが分かった。小さく、鋭く。


 彼女は缶を受け取ると、何事もなかったように、プルタブを開けた。ぷしゅ、と小さな音がした。それからゆりは缶を一口飲んで、優に差し出した。


 「口つけちゃったけど、いい?」


 さりげない声だった。何でもないことのように。でも、その声の裏に、彼女の精一杯が詰まっていた。優が缶を開けられなかったことを、「自分が先に飲みたかっただけ」にすり替えてくれている。


 優は缶を受け取った。口をつけた。


 冷たい液体が、唇に触れた。舌の上を流れた。喉を落ちていった。――落ちていった、と思った。味はあった。甘くて、少し酸っぱくて、炭酸の刺激がかすかにあった。けれど、それが本当に自分の体の中に入っていったのか、確信が持てなかった。飲んだのに、喉の渇きが消えない。胃の中に何かが溜まった感覚がない。


 ゆりが、じっと見ていた。


 優が缶を口から離したとき、彼女は小さく笑った。


 「おいしい?」


 「……おいしい」


 嘘ではなかった。味は、確かにした。それだけで十分だと思うことにした。


 缶をゆりに返す。ゆりはまた一口飲んで、鞄にしまった。


 二人の間の距離は、いつの間にか一メートルを切っていた。自販機の前に並んで立っている。肩が並ぶほど近い。


 ゆりが、ふと気づいたように体をこわばらせた。そして、何も言わず、半歩下がった。一歩。二歩。距離が開いていく。三メートル。四メートル。


 五メートルには、戻らなかった。


 四メートル。


 それが、新しい距離だった。峠を越えて、名前を交わして、一本の缶を分け合って。五メートルが四メートルになった。たった一メートル。けれどそこに、計り知れないものが詰まっていた。


 優は、歩き出した。


 平湯の集落に向かって。母のいる家に向かって。父の眠る墓に向かって。


 この体に起きていることが何なのか、僕はまだ確かめていない。けれど、あの懐かしい景色が僕を呼んでいる。母に会わなければならない。ただ、それだけが僕を動かしていた。


 後ろから、サンダルの音がついてくる。


 かさり。かさり。


 四メートル。


 少しだけ近くなった、その距離で。


お読みいただきありがとうございます。

 五メートルが、四メートルになりました。

 たった一メートル。でも、その一メートルの中に、峠の風と、交わした名前と、一本の缶が入っています。

 次話、優はついに故郷の集落へ。懐かしい景色の中で、優が見るものとは――。

 感想・ブックマークいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


『夕日の道で…』を最後まで見届けてくださった読者様へ

五メートルの距離から始まり、ゼロになり、そして現世での「ただいま」に辿り着くまで。二人の一途な愛の軌跡をお読みいただき、本当にありがとうございました。[cite: 112]

もし結末に感動していただけましたら、以下のリンクや画面最下部の評価にて応援の声を届けていただけますと幸いです。

■ 作品トップ(ブックマーク)

■ 感想を書く・読む

■ レビューを書く・読む


― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ