第5章 墓前
父の墓の前で、手を合わせた。
死んだ人間に、死んだ息子が祈る。
それは祈りになるのだろうか。――それでも、手を合わせたかった。
墓地は、集落の外れにあった。
田んぼ道を抜けて、杉林の縁を歩いて、小さな坂を上った先。石段が十段ほどあって、その上に墓石が並んでいる。古い墓地だった。苔むした石塔や、文字の読めなくなった墓碑が、杉の木陰にひっそりと立っている。
午後の光が、木漏れ日になって墓地に降っていた。蝉の声は少し遠くなって、代わりに風が杉の葉を揺らす音が聞こえる。空気が湿っていて、土の匂いがした。
ゆりは石段の下で立ち止まった。
「ここで待ってる」
優を見上げて、小さく笑った。さっきまで泣いていた目が、もう乾いていた。いや、乾かしたのだ。拭って、笑顔を作って、優を送り出そうとしている。
「一人で行っておいで」
優は頷いた。石段を上る。足音はしない。石段の苔を踏んでも、何も潰れない。何も汚さない。この世界に痕跡を残せない体が、父の墓に向かっている。
大崎家の墓は、奥から三番目にあった。
灰色の御影石。「大崎家之墓」。父が建て替えたのは、祖父が亡くなったときだったか。石の表面は、まだきれいだった。母が手入れをしているのだろう。花立てには新しい菊の花が活けてあり、線香の灰が皿に薄く残っている。今朝か、昨日か。母は、ここにも通っているのだ。
墓石の前に立った。
「……父さん」
声が出た。聞こえているかどうかは分からない。死んだ人間に声が届くのかどうか。いや、今の自分は――。
それ以上考えるのをやめた。
「帰ってきたよ」
言った。ただ、それだけ言った。
風が吹いた。杉の枝が揺れて、木漏れ日の模様が墓石の上で踊った。
父の顔を思い出そうとした。日に焼けた、無口な男。田んぼに出るときはいつも古い帽子を被っていた。笑い方がぎこちなくて、写真を撮るときだけ少し照れたように口角を上げた。
――父さんも、こうだったのか。
死んだ後も、こうしてどこかに立っていたのだろうか。母の背中を見て、声をかけて、届かなくて。
膝をついた。墓石の前に。手を合わせようとして――止まった。手を合わせる。誰に。死んだ父に、死んだ息子が手を合わせる。それは、祈りになるのだろうか。
構わなかった。
手を合わせた。目を閉じた。
暗闇の中に、記憶が浮かんだ。
父の軽トラの助手席。安房峠のつづら折り。渋滞で止まった車の窓から見た穂高連峰。煙草の匂い。父の横顔。無言の時間。
その記憶の端に、別の像が揺れた。
病院。白い天井。ベッドの上から見える窓。夏の青空。隣のベッドに、誰かがいた。小さな女の子。喘息で入院していた。名前は――。
「ゆう、くん」
記憶の中の声が、耳の奥で響いた。高くて、少し掠れた声。咳き込みながら笑う声。
「ゆうくん、あのね、今日ね――」
毎年、夏になると来る子だった。喘息が酷くて、都会にはいられないから、夏の間だけこの辺りの病院に来ていた。優も心臓の検査で入院していた時期があって、同じ階の病室で隣同士だった。
名前。名前は、何だったか。
「ゆり」
目を開けた。
記憶の底から浮かんできた名前が、さっき峠で聞いた名前と重なった。白崎ゆり。喘息の女の子。毎年夏に来て、退院するとき泣いていた子。「来年も来るからね」と言って、本当に来年も来た子。
あの子が、あのゆりが――。
石段の下を見た。
ゆりが立っていた。木漏れ日の中で、白いワンピースの裾が風に揺れている。こちらを見上げている。さっきと同じ場所で、待っていてくれている。
あの顔を、知っている。
十年分の時間が顔の輪郭を変えてしまっていたけれど、目だけは変わっていなかった。大きくて、まっすぐで、泣きそうなのに笑おうとする目。入院している優のベッドに毎朝来て、「今日は何する?」と聞いてくれた、あの目。
「……ゆり」
呟いた。さん、をつけなかった。口が勝手に動いた。十年前の呼び方で。
石段の下で、ゆりの目が大きく見開かれた。
「……思い出した?」
その声が震えていた。笑おうとしていた。泣きそうだった。両方だった。
「思い出した」
優は石段を下りた。ゆりの前に立った。近い。一メートルもない。彼女の目の縁が赤くなっていく。唇が震えている。でも、泣かなかった。笑った。
「おかえり、優くん」
十年分の沈黙が、その四文字に溶けた。
お読みいただきありがとうございます。
記憶の底に沈んでいた名前が、ようやく浮かび上がりました。
「おかえり、優くん」――十年越しの再会です。
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