第19章 生き霊
死んでいなかった。
全部、間違いだった。
間違いだったけれど、間違いの中で見つけたものは、本物だった。
生きている。
その事実が、すべてを塗り替えた。
死んでいると思っていた。ゆりもそう信じていた。病院で「亡くなりました」と告げられて。二人とも、その前提の上で歩いてきた。別れを受け入れて、最後の時間を過ごして、夕日の中で「さよなら」を言いかけた。
全部、間違いだった。
間違いだった。
優の体は生きていた。あの夜、心臓は止まった。けれど蘇生された。搬送中に心拍が戻った。病院に運ばれて、今この瞬間も手術台の上にある。昏睡状態で。
ここにいる優は、体を離れた魂だ。
生き霊。
死者の幽霊ではなく、生きている人間の魂が体を離れて彷徨っている。だから、ゆりに見えた。だから、蛍が手に止まった。だから、缶を握れた。だから、ゆりの手に触れられた。
完全にこの世から切れていなかったのだ。細い、糸のような繋がりが、体と魂の間に残っていた。
「だから、あの光の中で引き戻されたんだ」
二人は東屋のベンチに座っていた。蛍が見えた夜と同じ場所で、昼の光の中で。
「向こう側に行きかけたとき、手術が始まったんだと思う。心臓に手が入って、血流が戻って。体が僕を引っ張り戻した」
ゆりは、目を赤くしたまま、優の話を聞いていた。手は、優の手を握っている。触れている。確かに。
「ゆりが走ってきてくれたとき、救急車を呼んでくれたんだよな」
「うん」
「それで、搬送中に心拍が戻った。ゆりにはそれが伝わらなかった」
「……うん。私は、待合室に残されて。しばらくして先生が来て、『残念ですが』って。それだけ聞いて、頭が真っ白になって」
「その後に、蘇生されたんだ。ゆりがもう聞ける状態じゃなかったときに」
ゆりが唇を噛んだ。
「私が……ちゃんと待っていれば。最後まで聞いていれば」
「ゆりのせいじゃない」
「でも、私が『死んだ』って思い込んで、それを優くんにも……」
「僕も自分で気づいてた。影がないこと、物に触れないこと。ゆりに言われなくても、分かってたよ」
ゆりは、何も言えなかった。握った手に、力がこもった。
「でも」
優は言った。
「ゆりが間違えてくれたおかげで、僕はこの旅ができた」
ゆりが顔を上げた。
「死んでると思ったから、最後だと思ったから、父さんの墓に行けた。母さんの顔を見れた。ゆりの名前を思い出せた。蛍を見た。笑った。全部、ゆりが一緒にいてくれたから」
ゆりの目から、また涙が落ちた。けれど今度は、さっきまでとは違う涙だった。悲しみではない涙。
「戻らなきゃ」
優は言った。
「体に。手術が終わって、体が待ってる。戻れるうちに、戻らなきゃ」
分かっていた。ここに長くいすぎたら、もう戻れなくなるかもしれない。あの夕日の光の中に溶けかけたとき、ほんの数秒遅かったら。手術のタイミングがずれていたら。
「……うん」
ゆりの声は小さかった。けれど、震えていなかった。
「戻ってきてね」
「戻るよ」
「目が覚めたら、病院にいるね。私。隣に」
「……うん」
「今度は、五メートルも離れないから」
優は笑った。ゆりも笑った。
泣きながら。笑いながら。
「どうすれば戻れるのか、分からないけど」
「あの道だよ」
ゆりが言った。
「優くんが倒れた道。あの砂利道。始まった場所に、答えがある気がする」
優は頷いた。
立ち上がった。ゆりも立ち上がった。
手を繋いだまま。
今度は、別れに行くのではない。戻るために行くのだ。
お読みいただきありがとうございます。
優は体に戻ることを決めました。
始まった場所で。あの砂利道で。あの夕日の中で。
今度は「さよなら」ではなく、「また会おう」のために。
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