第20章 夕日の道で…
あの夏の道を、もう一度歩きたかった。
歩いた。
そして、帰ってきた。
あの砂利道に、また立っていた。
夕日が沈みかけている。昨日と同じ時間。昨日と同じ色。けれど昨日とは、全く違う意味を持つ夕日だった。
砂利道が、西に向かって真っ直ぐ伸びている。田んぼの水面が赤い。稲の穂が金色に光っている。空が燃えている。
ここで倒れた。ここで心臓が止まった。ここで、ゆりが走ってきてくれた。
そして今、ここから戻る。
「優くん」
ゆりが隣にいた。手を繋いでいる。触れている。温かい。確かな圧がある。
「行くね」
「うん」
ゆりの手を、少し強く握った。握れた。初めて、ちゃんと握れた。指と指が絡んで、掌と掌が合わさって、温度と圧力が交換される。生きている人間同士がやるように。
「ゆり」
「うん」
「ありがとう。全部」
ゆりが唇を震わせた。泣きそうだった。でも泣かなかった。笑った。
「お礼は、起きてから聞く。直接」
「……うん」
「目が覚めたら、最初に私の顔が見えるようにするから。ずっと隣にいるから」
「それ、怖いな」
「うるさい」
二人は笑った。最後に。いや、最後ではない。また会えるのだから。
手を離した。
指がゆっくり離れていく。小指が最後まで触れていて、それも離れた。ゆりの手の温度が、指先に残っている。
優は前を向いた。
砂利道の先に、夕日がある。昨日はあの光の中に消えていこうとした。死を受け入れて、向こう側に歩いていこうとした。
今日は違う。
あの光の向こうにあるのは、死ではない。病院のベッドだ。管に繋がれた体だ。心臓を修理されて、蘇生されて、戻ることを待っている、僕の体だ。
一歩。
砂利を踏んだ。音がした。
足音がした。
かさり。
生まれて初めて聞くような気がした。自分の足が砂利を踏む音。この旅の間、一度も聞こえなかった音。
二歩。三歩。
足音が聞こえる。自分の足音が。体が重い。重さがある。質量が戻ってきている。風が冷たい。冷たさが肌に届いている。汗が、額に滲んだ。
汗だ。
歩く。
夕日の光が近づいてくる。昨日と同じ光。けれど、引き込む力は感じなかった。代わりに、背中から何かに押されているような感覚があった。
帰れ、と。体が言っている。帰ってこい、と。
後ろから、声がした。
「優くん!」
ゆりの声だった。振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまう。――いや、違う。振り返ったら、行けなくなる。ゆりの顔を見たら、もう少しだけここにいたいと思ってしまう。
代わりに、右手を上げた。
背中越しに。あの日と同じように。病院の窓から手を振ったときと、同じように。
「また会おう!」
声が出た。叫んだ。自分の声が、夕日の田んぼに響いた。蛙が一斉に黙った。
後ろで、ゆりが叫んだ。
「待ってるから!」
光の中を歩いた。
オレンジ色の光が、体を満たしていく。温かい。熱い。心臓が強く打つ。ドクン。ドクン。ドクン。体が重くなる。足が砂利を踏む。指の感覚がある。匂いがある。音がある。
世界が、優を取り戻そうとしている。
光が、白くなった。オレンジから白に。夕日の光ではない。蛍光灯の光だ。無影灯の光だ。
音が変わった。蛙の声が消えて、代わりに計器の電子音が聞こえる。ピッ、ピッ、ピッ。一定のリズム。心拍のモニター。
砂利の感触が消えた。代わりに、ベッドのシーツの感触。柔らかい。平らな。背中全体に当たっている。
匂いが変わった。田んぼの匂いが消えて、消毒液の匂いが鼻に届いた。病院の匂い。第一章の夜行バスの中で嗅いだ、あの匂いと同じ。
重い。体が重い。目が開かない。瞼が鉛のように重い。
声が聞こえた。
「先生、意識レベル、変動しています」
「瞳孔反射、確認。……反応あり」
「血圧、心拍、安定。自発呼吸も回復しています」
「……大崎さん。大崎さん、聞こえますか」
聞こえる。聞こえている。
目を開けようとした。重い。でも、昨日まで感じなかった重さだ。体があるから重い。瞼があるから開けにくい。筋肉があるから、力がいる。
全部、生きている証拠だ。
薄く、目が開いた。
白い天井。蛍光灯。見覚えのある、病院の天井。
顔が覗き込んできた。白衣の男性。マスク。優の顔を覗き込んで、表情が変わった。
「意識回復。大崎さん、ここが分かりますか」
唇が動いた。声は出なかった。喉が乾いている。何日も使っていない喉が。
それでも、言おうとした。
「……ここ、は」
かすれた声だった。自分の声が、耳に届いた。音としての、空気を震わせる声。
医師が何か言った。看護師が動いた。計器が鳴った。慌ただしいけれど、さっきとは違う慌ただしさだった。緊張ではなく、安堵の。
目が少しずつ慣れてきた。白い天井。窓から差し込む光。夕方の光だ。オレンジ色の。
窓の外に、空が見えた。夕焼けだった。山の稜線に太陽が沈みかけている。赤い空。金色の雲。あの砂利道で見たのと、同じ夕日。
扉が開いた。
足音。走ってくる足音。スニーカーの足音。
「優くん!」
声が聞こえた。
ゆりの声だった。
視界の端に、白い影が映った。ワンピースではなかった。普通の服。病院の面会用のスリッパ。目が赤い。泣いた跡がある。けれど、笑っている。
「目、覚めた? 優くん、目、覚めた?」
泣きながら、笑いながら。
医師が何か言った。「まだ安静に」とか「面会は短時間で」とか。ゆりは聞いていなかった。
ベッドのそばに来た。
手を伸ばした。
優の手に、触れた。
温かかった。
今度は、圧があった。指が指を握る、確かな重さ。皮膚が皮膚を押し返す、あの感触。手を握っているのに水の中に浸しているような曖昧さは、もうなかった。
確かに、触れていた。
「……ゆり」
かすれた声で呼んだ。
「ただいま」
ゆりが崩れた。ベッドの縁にしがみついて、優の手を握ったまま、声を上げて泣いた。
「おかえり。おかえり、優くん」
窓の外で、夕日が沈んでいく。
病室の中に、オレンジ色の光が差し込んでいる。ベッドの上の優と、ベッドの縁のゆりと、二人の繋いだ手を照らしている。
影が、二つ、床の上に伸びていた。
ゆりの影と。
優の影。
並んで。
*
数年後の、夏。
夕日の道を、三つの影が歩いていた。
砂利道の上に、オレンジ色の光が落ちている。田んぼの稲穂が金色に揺れている。蛙が鳴いている。風が、稲の匂いを運んでくる。
一番背の高い影が、少し猫背で、右に傾いている。
その隣の影が、まっすぐ背筋を伸ばして歩いている。
二人の間に、小さな影がある。
両手を繋いで、ぶらんぶらんと腕を揺らしながら、短い脚で一生懸命に歩いている。ときどき足がもつれて、両側の大きな手にぶら下がるように体が浮く。そのたびに、高い笑い声が夕日の田んぼに響いた。
三つの影が、砂利道の上に長く伸びている。
夕日に照らされて、くっきりと。
どの影も、確かにそこにあった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
「夕日の道で…」は、これで完結です。
この物語は、忘れないということについて書きました。
そして、帰ってくるということについて書きました。
影がなかった人間の影が、最後のページで戻ってくる。
それだけの話です。けれど、それだけのことが、どれほど眩しいか。
五メートルの距離から始まり、ゼロになり、そして「ただいま」に辿り着くまで。
読んでくださったあなたに、ありがとうございます。
帰る場所がある人は、帰ってください。
待っている人がいるなら、待っていてください。
――本作はこれにて【本編完結】となります。
優とゆりの、ここから始まる『本当の再会(病院でのその後)』や、子供の頃の病室での日々を描いた【番外編】も、皆様の応援の声が集まりましたら、ぜひ執筆したいと思っております!
もし「完結まで読んでよかった」「二人の未来を応援したい」と少しでも思っていただけましたら、画面最下部の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして評価していただけると、作品の大きな勲章になります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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