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「夕日の道で…」  作者: 源三郎


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17/20

第17章 凪

 朝が来た。昨日までとは違う朝。

 体が少し濃くなっている。

 そして――お腹が空いた。



 朝が来た。


 昨夜は東屋で過ごした。あの蛍を見た東屋で。ゆりは優の隣で眠っていた。昨夜はずっと優の手を握っていた。触れられる。あのかすかな圧は、朝になっても消えていなかった。


 胸の痛みは、もうなかった。


 心臓の鼓動は感じる。弱くて、遠いけれど、確かに。ドクン。ドクン。止まっていたものが動いている。


 病院の声は、もう聞こえなかった。


 あの慌ただしい声。計器のアラーム。金属の音。すべてが、遠ざかっていた。消えたのか。それとも、聞こえない場所まで沈んだのか。


 優は、自分の手を見た。


 昨日の夕方、透けていた手。向こう側が見えるほど薄くなっていた体。今は――まだ薄い。完全に元に戻ったわけではない。けれど、昨日ほどではなかった。輪郭が少しだけ濃くなっている。


 ゆりが目を覚ました。


 「……おはよう」


 寝起きの声。目をこすりながら。昨夜泣きすぎて腫れた瞼で。


 「おはよう」


 「胸は?」


 「痛くない。声も聞こえない」


 ゆりが、ほっとしたように息を吐いた。それから、優の手を見た。


 「……少し、濃くなってない?」


 「そう見える?」


 「うん。昨日の夕方より。向こう側が見えなくなってる」


 二人は、優の手を見つめた。朝の光の中で、手の輪郭がほんの少しだけくっきりしている。完全な透明に向かっていた流れが、止まっている。あるいは、戻りかけている。


 「優くん」


 「うん」


 「昨日の……病院の声。あれ、何だったんだろう」


 優は考えた。夕日の中でしゃがみ込んだとき、頭の中に流れ込んできた声と映像。手術室。無影灯。マスクの人々。モニターの波形。そして、ベッドの上に横たわる自分の体。


 「僕の体が、まだどこかにあるってことなのかもしれない」


 言葉にしてみると、奇妙な感覚だった。ここにいる自分と、あそこにいる自分。


 「……死んだはずなのに?」


 「ゆりはそう聞いた。病院で。でも」


 「でも?」


 「心臓が動いてる。声が聞こえた。触れられた。……死んだ人間には、起きないことだ」


 朝の風が吹いた。田んぼの匂いが流れてきた。蝉が鳴き始めている。世界は昨日と同じだった。けれど、何かが変わった朝だった。


 ゆりは、しばらく黙っていた。何かを考えている顔だった。


 「ねえ、優くん」


 「うん」


 「もし……もし、優くんが死んでなかったとしたら。もし、まだ生きてるんだとしたら」


 ゆりの声が震えた。希望と恐怖が混ざった声だった。


 「戻れるの? 体に」


 優は、答えを持っていなかった。


 「分からない」


 正直に言った。


 「でも、昨日、あの光の中を歩いていたとき――向こう側に行きかけたとき。引き戻された。胸が鳴って。声が聞こえて。まるで、何かが僕を呼び戻したみたいに」


 ゆりの目が、大きくなった。


 「引き戻された……」


 「うん。だから、まだ繋がってるのかもしれない。こっちの僕と、あっちの僕が」


 朝日が東屋の中に差し込んできた。木漏れ日が二人の間に落ちる。あの蛍の夜と同じ場所で、全く違う朝を迎えている。


 「お腹、空いた」


 不意に、優が言った。


 ゆりが、きょとんとした顔をした。


 「え?」


 「お腹が空いた。……お腹が空いてる。初めてだ。この旅で」


 ゆりの目が、みるみる潤んだ。


 「お腹空いてるの?」


 「うん。すごく」


 ゆりが、泣きながら笑った。


 「よかった。よかった……」


 体が、戻りかけている。空腹を感じる。心臓が動いている。ゆりの手に触れられる。


 死にかけた体が、生きようとしている。


 お読みいただきありがとうございます。

 空腹。それは、体が生きようとしている証拠です。

 優の体と魂は、まだ繋がっています。

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『夕日の道で…』を最後まで見届けてくださった読者様へ

五メートルの距離から始まり、ゼロになり、そして現世での「ただいま」に辿り着くまで。二人の一途な愛の軌跡をお読みいただき、本当にありがとうございました。[cite: 112]

もし結末に感動していただけましたら、以下のリンクや画面最下部の評価にて応援の声を届けていただけますと幸いです。

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