第17章 凪
朝が来た。昨日までとは違う朝。
体が少し濃くなっている。
そして――お腹が空いた。
朝が来た。
昨夜は東屋で過ごした。あの蛍を見た東屋で。ゆりは優の隣で眠っていた。昨夜はずっと優の手を握っていた。触れられる。あのかすかな圧は、朝になっても消えていなかった。
胸の痛みは、もうなかった。
心臓の鼓動は感じる。弱くて、遠いけれど、確かに。ドクン。ドクン。止まっていたものが動いている。
病院の声は、もう聞こえなかった。
あの慌ただしい声。計器のアラーム。金属の音。すべてが、遠ざかっていた。消えたのか。それとも、聞こえない場所まで沈んだのか。
優は、自分の手を見た。
昨日の夕方、透けていた手。向こう側が見えるほど薄くなっていた体。今は――まだ薄い。完全に元に戻ったわけではない。けれど、昨日ほどではなかった。輪郭が少しだけ濃くなっている。
ゆりが目を覚ました。
「……おはよう」
寝起きの声。目をこすりながら。昨夜泣きすぎて腫れた瞼で。
「おはよう」
「胸は?」
「痛くない。声も聞こえない」
ゆりが、ほっとしたように息を吐いた。それから、優の手を見た。
「……少し、濃くなってない?」
「そう見える?」
「うん。昨日の夕方より。向こう側が見えなくなってる」
二人は、優の手を見つめた。朝の光の中で、手の輪郭がほんの少しだけくっきりしている。完全な透明に向かっていた流れが、止まっている。あるいは、戻りかけている。
「優くん」
「うん」
「昨日の……病院の声。あれ、何だったんだろう」
優は考えた。夕日の中でしゃがみ込んだとき、頭の中に流れ込んできた声と映像。手術室。無影灯。マスクの人々。モニターの波形。そして、ベッドの上に横たわる自分の体。
「僕の体が、まだどこかにあるってことなのかもしれない」
言葉にしてみると、奇妙な感覚だった。ここにいる自分と、あそこにいる自分。
「……死んだはずなのに?」
「ゆりはそう聞いた。病院で。でも」
「でも?」
「心臓が動いてる。声が聞こえた。触れられた。……死んだ人間には、起きないことだ」
朝の風が吹いた。田んぼの匂いが流れてきた。蝉が鳴き始めている。世界は昨日と同じだった。けれど、何かが変わった朝だった。
ゆりは、しばらく黙っていた。何かを考えている顔だった。
「ねえ、優くん」
「うん」
「もし……もし、優くんが死んでなかったとしたら。もし、まだ生きてるんだとしたら」
ゆりの声が震えた。希望と恐怖が混ざった声だった。
「戻れるの? 体に」
優は、答えを持っていなかった。
「分からない」
正直に言った。
「でも、昨日、あの光の中を歩いていたとき――向こう側に行きかけたとき。引き戻された。胸が鳴って。声が聞こえて。まるで、何かが僕を呼び戻したみたいに」
ゆりの目が、大きくなった。
「引き戻された……」
「うん。だから、まだ繋がってるのかもしれない。こっちの僕と、あっちの僕が」
朝日が東屋の中に差し込んできた。木漏れ日が二人の間に落ちる。あの蛍の夜と同じ場所で、全く違う朝を迎えている。
「お腹、空いた」
不意に、優が言った。
ゆりが、きょとんとした顔をした。
「え?」
「お腹が空いた。……お腹が空いてる。初めてだ。この旅で」
ゆりの目が、みるみる潤んだ。
「お腹空いてるの?」
「うん。すごく」
ゆりが、泣きながら笑った。
「よかった。よかった……」
体が、戻りかけている。空腹を感じる。心臓が動いている。ゆりの手に触れられる。
死にかけた体が、生きようとしている。
お読みいただきありがとうございます。
空腹。それは、体が生きようとしている証拠です。
優の体と魂は、まだ繋がっています。
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