第16章 境界
触れた。
ずっと触れられなかった手が、肩に届いた。
何かが、変わり始めている。
ゆりの手が、優の肩に伸びた。
触れようとした。今度こそ、本当に触れようとした。五メートルの距離も、二メートルの距離も、もう関係なかった。優が苦しんでいる。それだけで十分だった。
指先が、優の肩に触れた。
温かかった。これまでとは違った。圧があった。かすかだけれど、確かに。指の先が肩の布地を押して、その下の、体の感触を捉えている。
「……触れてる」
ゆりが息を呑んだ。
「優くん、触れてる。今、触れてる」
優も感じていた。ゆりの手の重さ。温度。皮膚越しに伝わる、生きている人間の圧力。倒れて以来、ずっと失われていたものが、ほんの少しだけ戻ってきている。
「優くんっ!! 大丈夫!!」
ゆりの顔が目の前にあった。涙が流れている。けれど、その目はまっすぐだった。怯えてはいなかった。優がどんな状態であっても、そばにいると決めた人間の目だった。
「大丈夫……だと、思う」
胸の痛みが、少しずつ引いていく。心臓の鼓動は続いている。ドクン。ドクン。弱いけれど、確かなリズムで。
病院の声も、まだかすかに聞こえていた。水の底から響くように、遠くて、ぼやけて。
「……声が聞こえるんだ。先生たちの声。『脈が戻った』って」
ゆりの手が震えた。優の肩を掴んだまま。
「優くん、それ……」
「分からない。何が起きてるのか、分からない」
二人は砂利道の上に座り込んでいた。夕日が沈んでいく。空が赤から紫に変わっていく。
ゆりは、何も言わなかった。ただ、優の肩から手を離さなかった。触れている。確かに触れている。それが今、何よりも大切なことだった。
時間が過ぎた。
胸の痛みが治まった。心臓の鼓動も、意識すると感じるが、さっきほど激しくはない。病院の声は、もうほとんど聞こえなくなっていた。
空に星が出始めた。
「……落ち着いた?」
ゆりが聞いた。声がかすれていた。泣き疲れた声だった。
「うん。落ち着いた」
「胸は?」
「まだ少し。でも、さっきみたいには痛くない」
ゆりが、長い息を吐いた。
「さっき……触れたよね。私の手。優くんの肩に」
「うん」
「今まで、触れなかったのに」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
何かが変わっている。何かが、根本的に。「死んでいる」はずの体に、心臓の鼓動が戻った。触れられなかったはずの体に、ゆりの手が触れた。病院の声が聞こえた。自分の体が見えた。
「僕は……」
優は、言葉を探した。
「本当に、死んでいるのか?」
ゆりの目が揺れた。答えを持っていなかった。彼女が知っている「事実」は、病院で告げられた「亡くなりました」という言葉だけだった。
けれど今、その前提が揺らいでいる。
「分からない」
ゆりが正直に言った。
「でも、心臓が動いてる。声が聞こえた。触れられた。……それは、死んでいたら起きないことだと思う」
星が、一つ、また一つと灯っていく。
夜が来ようとしていた。けれど、今夜の闇は、昨夜までの闇とは何かが違った。
お読みいただきありがとうございます。
死んでいたはずの体に、変化が起きています。
心臓が動いている。触れられる。声が聞こえる。
優は本当に、死んでいるのでしょうか。
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