第15章 鼓動
光の中を歩いていた。もう少しで、向こう側に。
そのとき、胸が鳴った。
止まっていたはずの心臓が。
光の中を歩いていた。
温かかった。何もかもが溶けていく。田んぼも、山も、夕日も。ゆりの声も、もう遠い。あと少しで、向こう側に――。
胸が、鳴った。
ドクン。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
胸の真ん中で、何かが動いた。叩かれたような、握り潰されたような、そして――解放されたような。あの夜、砂利道で倒れたときの痛みとは違う。もっと生々しい。もっと重い。もっと、熱い。
ドクン。ドクン。
脈だ。
心臓が、打っている。
止まっていたはずの心臓が。もう動かないはずの心臓が。
優は、光の中で立ち止まった。
膝が折れた。砂利道の上にしゃがみ込んだ。両手で胸を押さえた。痛い。痛かった。この旅の間、一度も感じなかった痛みが、今、胸の中で暴れている。
「っ――」
声にならない声が漏れた。
そのとき、脳裏に、声が響いた。
「――脈が戻った!」
知らない男の声だった。慌ただしい。切迫している。
「モニター、確認して! バイタル!」
別の声。女の声。
「自発呼吸、まだありません!」
「エピネフリン追加! もう一度!」
声が重なる。二つ、三つ。計器の電子音。アラーム。金属がぶつかる音。何かの機械がリズミカルに動く音。
病院だ。
ここにいるのに、病院の音が聞こえる。夕日の砂利道にしゃがみ込んでいるのに、全く別の場所の音と声が、頭の中を埋め尽くしている。
「っ……あ……」
胸を押さえたまま、優は顔を上げた。光が揺れている。夕日の光ではない。もっと白い、もっと冷たい光が、視界の端で明滅している。蛍光灯の光だ。
一瞬だけ、見えた。
白い天井。無影灯。マスクをした人々の顔。手術用の手袋。モニターの緑色の波形。
そして、ベッドの上に横たわる自分の体。
目を閉じて、管に繋がれて、動かない。胸の上で、誰かの手が心臓マッサージをしている。
「……え」
光景が消えた。砂利道が戻ってきた。夕日が戻ってきた。田んぼの匂いが。蛙の声が。
だが、声はまだ聞こえていた。遠のきながらも、頭の奥で反響していた。
「バイタルサイン、回復してきています!」
「血圧、上がってきた! 意識レベルは?」
「まだです。でも、心拍は安定し始めています」
声が、少しずつ遠くなる。水の底に沈んでいくように。
「優くんっ!!」
違う声が、すぐ後ろから飛んできた。
ゆりだった。
走ってきていた。さっきまで遠くにいたはずのゆりが、全力で走ってきて、砂利道の上にしゃがみ込んでいる優のそばに駆けつけた。
「大丈夫!! 優くん、大丈夫!!」
声が裂けそうだった。泣いていた。本当に、心の底から心配している声だった。
あの夜明けの道と同じだった。砂利道で倒れた優のもとに、走ってきてくれた。あのときと、全く同じ声。全く同じ目。
「胸が……」
優は言った。
「胸が、痛い。……鳴ってる」
ゆりの目が見開かれた。
「痛い?」
「心臓が。動いてる。……声が聞こえた。病院の。先生たちの」
ゆりの顔から、色が抜けた。
「何を……言って……」
「僕の体が見えた。ベッドの上に。管に繋がれて。心臓マッサージを……」
ゆりの唇が、音を立てずに震えた。
夕日が沈みかけている。光がゆっくりと引いていく。
二人は、砂利道の上にしゃがみ込んだまま、動けなかった。
お読みいただきありがとうございます。
向こう側に行きかけた優を、何かが引き戻しました。
病院の声。慌ただしい声。それは、何を意味するのか。
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