第10章 残された時間
死んでいるのに、世界はまだ美しい。
蝉は鳴いている。風は吹いている。隣に、ゆりがいる。
残された時間で、何をしよう。
真実を聞いた後も、世界は変わらなかった。
蝉は鳴いている。風は吹いている。田んぼの稲は青く揺れている。入道雲が、東の空に湧き始めている。
変わったのは、優の中だけだった。
死んでいる。自分は死んでいる。あの夜、砂利の上で。心臓が止まって。救急車が来て。病院で。深夜の二時四十七分に。
言葉として理解した。事実として受け入れた。けれど、実感はなかった。死んでいるのに、こうして立っている。考えている。ゆりの声が聞こえる。蝉の声が聞こえる。味噌汁の匂いがした。蛍が手の甲に止まった。
死んでいるのに、世界はまだ美しい。
「怒ってる?」
ゆりが聞いた。優の隣を歩きながら。
「何に」
「私に。黙ってたこと」
優は考えた。怒っているだろうか。ゆりは最初から知っていた。優が死んでいることを。それを隠して、一緒に歩いていた。バスに乗り遅れたふりをして。五メートルの距離を保ちながら。
「怒ってない」
嘘ではなかった。
「ゆりが黙ってたのは、僕のためだろ」
「……うん」
「言ったら、僕が壊れると思った」
「うん」
「たぶん、壊れてた」
あの夜明けの道で、目を覚ましたばかりの自分に「あなたは死んでいます」と告げられたら。峠を越える前に、バス停で真実を突きつけられたら。確かに壊れていたかもしれない。蛍を見ることも、笑うことも、父の墓に手を合わせることもなく。
ゆりは、時間をくれたのだ。
死んだ自分が、もう一度この世界を歩くための時間。故郷の匂いを嗅ぐための時間。父に手を合わせるための時間。ゆりの名前を思い出すための時間。
五メートルの距離は、その猶予だった。近づきすぎれば真実に触れてしまう。だから、ぎりぎりの距離を保っていた。優が自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の心で受け止められるようになるまで。
「ゆり」
「うん」
「僕は、あとどれくらいここにいられるの」
ゆりは答えなかった。歩きながら、前を向いたまま、少し考えていた。
「分からない。こういうこと、前例がないから」
「そりゃそうだ」
優は、少し笑った。ゆりも笑った。死んだ人間が「あとどれくらい」と聞いて、生きている人間が「前例がない」と答える。馬鹿みたいな会話だった。でも、笑えた。
「ひとつだけ、分かることがある」
ゆりが言った。
「私に見えてるうちは、優くんはここにいる。私が覚えてるうちは」
その言葉の重さを、優は噛みしめた。ゆりの記憶が、優をこの世界に繋ぎ止めている。十年間忘れなかった想いが、生と死の境界を越えさせている。
裏を返せば、ゆりが忘れたとき、優は消える。
「忘れないよ」
ゆりが言った。優の考えを読んだように。
「十年忘れなかったんだから。もう忘れ方、分からないの」
優は、何も言えなかった。ただ、隣を歩いた。
田んぼ道を歩く。用水路の水が流れている。トンボが飛んでいる。遠くで犬の鳴き声がする。どれも、生きている世界の音だった。
「……やりたいこと、ある?」
ゆりが聞いた。
「残された時間で。何でもいいよ。できることなら」
優は、空を見上げた。入道雲が大きくなっている。白い塔が、青い空にそびえている。
やりたいこと。
母に会いたかった。声を届けたかった。けれどそれは、もうできないと分かっている。
「……もう少し、歩きたい」
優は言った。
「この道を。ゆりと」
ゆりが足を止めた。優を見た。目が潤んでいた。でも泣かなかった。笑った。
「うん。歩こう」
二人は歩いた。
田んぼ道を。山の麓を。小さな集落の中を。すれ違う人に見えないまま、影のないまま、風を感じないまま。けれどゆりの隣で、サンダルの音を聞きながら、夏の景色を目に焼きつけながら。
空が高かった。雲が白かった。稲が青かった。
生きているときは気づかなかった。世界がこんなにも色に溢れていることに。一日がこんなにも長くて、短いことに。
隣にいる人の体温が、こんなにも大切なものだったことに。
西の空が、少しずつ赤くなり始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
真実を受け入れた優が選んだのは、怒ることでも嘆くことでもなく、「もう少し歩きたい」でした。
西の空が、赤く染まり始めています。
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