第11章 夕日
透けていく手。薄くなっていく体。
時間は、もう残り少ない。
それでも、夕日はこんなにも美しかった。
午後の光が傾いていた。
二人は歩いた。田んぼ道から、小川沿いの道へ。小川沿いの道から、山裾の林道へ。子供の頃に歩いた道を、記憶を辿るように。
ゆりが、いろいろなことを話した。
東京での仕事のこと。出版社の事務をしていること。休みの日は一人で映画を観に行くこと。猫を飼いたいけど、アパートがペット禁止なこと。どれも取り留めのない話だった。けれど優は、その一つ一つを聞いていた。ゆりが十年間、どんなふうに生きてきたのかを。
「優くんは? 東京で、何してたの」
「リモートワーク。家からほとんど出なかった」
「友達は」
「いない。……いなくなった、が正しいかな。連絡を返さなくなったら、みんな離れていった」
「寂しくなかった?」
「寂しかったよ。でも、寂しいって気づくのも面倒くさくなってた」
ゆりが黙った。少し歩いてから、小さな声で言った。
「もっと早く、声をかければよかった。病院で見かけたとき」
「僕だって、もっと早く帰ればよかった。一年も放っておかないで」
「お互い、臆病だったんだね」
「うん」
二人は笑った。笑えることが、もう奇跡のようだった。
林道を抜けると、視界が開けた。棚田が、夕日を受けて金色に輝いている。水面に空が映って、田んぼ一枚一枚が小さな鏡になっている。赤と金と、稲の青。
「きれい」
ゆりが言った。何度も言った言葉。安房峠の谷を見下ろしたときも、平湯の集落を見たときも。けれど今回は、声の質が違っていた。この景色を、二人で見られることへの感謝が、声の奥に滲んでいた。
「うん」
優も頷いた。
ふと、自分の手を見た。
透けていた。
夕日の光が、優の手の向こう側に見えた。棚田の金色が、指の輪郭を通り抜けて届いている。完全に透明ではない。薄い硝子のように、向こう側がうっすらと透ける程度。でも、朝には見えなかったものが見えている。
優の体が、薄くなり始めている。
ゆりも気づいていた。優の手を見ていた。視線を逸らさなかった。唇を結んで、何も言わなかった。
「……薄くなってきたみたいだ」
優が言った。隠しても仕方がなかった。
「うん」
ゆりの声は、静かだった。
「夕方になると、薄くなるの。朝はもう少しはっきりしてた」
「前から気づいてた?」
「……今朝、田んぼ道で。優くんが一人で歩いていったとき。背中が、少しだけ向こうが見えた」
優は、自分の手を握ったり開いたりした。感触はない。最初からなかった。でも、見た目まで失われていくのは、別の重さがあった。
「時間が、あまりないのかもしれない」
ゆりが言った。声が震えなかった。泣かなかった。ただ、事実を受け止めていた。
「やりたいこと、まだある?」
優は考えた。
「……もう一度、父さんの墓に行きたい。それから、母さんに……伝えたいことがある」
ゆりが頷いた。
「行こう」
二人は、夕日の中を歩き出した。優の影は、もちろんなかった。けれど、ゆりの影が長く伸びて、まるで二人分の影を引き受けるように、道の上を歩いていた。
お読みいただきありがとうございます。
優の体が透け始めました。残された時間が、目に見える形で減っていきます。
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