第9章 あの夜、道で
「優くん、あの夜、道で倒れてから――」
ゆりが語る、あの夜の全て。
走って、叫んで、泣いて、それでも間に合わなかった夜の話。
ゆりが歩いてきた。
田んぼ道の真ん中で立ち尽くす優の前に、一歩ずつ、近づいてきた。もう距離を測る目ではなかった。五メートルも四メートルもない。ただ、優のそばに来ようとしている。
目の前に立った。
朝日を背にしたゆりの顔は、半分影になっていた。泣いていた。もう隠そうとしていなかった。涙が頬を伝って、顎の先から落ちている。でも、声は出していなかった。
「……あの夜の話を、するね」
静かな声だった。覚悟を決めた人間の声だった。
「優くんが、平湯口のバス停で降りた。私も降りた。暗い道を、優くんが歩いていった。私は少し離れてついていった。声をかけようか迷いながら」
ゆりの声は、淡々としていた。感情を抑えているのではなく、何度も何度もこの夜を自分の中で反芻してきた人間の声だった。
「二十分くらい歩いたところで、優くんが立ち止まった。胸を押さえて。それから、膝が折れて。砂利の上に倒れた」
優は、あの夜の感覚を思い出していた。胸が握り潰されるような痛み。膝が折れる感覚。砂利の冷たさ。
「走った。帽子が飛んだけど拾わなかった。サンダルも脱げた。砂利の上を裸足で走って、優くんのそばに」
第一章の光景が蘇る。泥だらけの膝。擦り傷の足首。息を切らせて泣いている彼女。
「抱き起こしたの。頭を膝に乗せて。名前を呼んだ。何度も呼んだ。優くん、優くん、って。……返事がなかった」
優の記憶では、ゆりの声が聞こえた。「優くん」と呼ぶ声が、意識の底まで届いた。
「電話した。救急車を呼んだ。でも、山の中だから。来るまでに時間がかかるって言われた。その間、ずっと声をかけ続けた。体を揺すったり、頬を叩いたり。反応がなくて。脈も、だんだん……」
ゆりの声が途切れた。喉の奥で、何かが詰まったような音がした。
「救急車が来たとき、救急隊員の人が、優くんの首に手を当てて。それから、私を見たの。何も言わなかった。でも、その顔で分かった」
優は、黙って聞いていた。
「病院に運ばれて。心肺停止。蘇生処置。でも、もう……」
ゆりの声が震えた。唇を噛んだ。噛んだ唇の端から、血が滲んだ。
「……亡くなりました、って。先生が言った。深夜の二時四十七分」
時刻。具体的な時刻を、ゆりは覚えていた。一秒も忘れていなかった。
「私は、それを聞いても、信じられなかった。だって、優くんの声を聞いたから。名前を呼んだとき、優くんが目を開けて、私を見たから」
優は思い出した。あの夜明け。目を開けたら、ゆりがいた。「間に合った」と言った。泣いていた。
「帰れなかった。東京に帰れなかった。病院の前のベンチに座ってた。朝になって、日が昇って。そうしたら、道の向こうに優くんが立ってたの」
ゆりの目が、まっすぐに優を見た。
「白いシャツ。リュック。少し猫背。右に傾いた歩き方。間違いなく、優くんだった。死んだはずの優くんが、朝日の中に立ってた」
「……それが、僕だった」
「うん」
「ゆりにだけ、見えてた」
「うん。他の人には見えなかった。最初から。バスの停留所でも、道を歩いてるときも。私だけ」
「どうして」
ゆりは、少し笑った。泣きながら。
「分からない。でも、思い当たることは、ひとつだけ」
風が吹いた。田んぼの稲が、さわさわと鳴った。
「私、十年間、ずっと優くんのこと忘れられなかった。毎年夏になると思い出してた。病院の窓から見た夕日のこと。蛍を見に行ったこと。優くんが折ってくれた鶴のこと。全部」
ゆりの声が、ようやく震えを止めた。
「忘れられなかった。十年間、一度も。――だから、見えるんだと思う。優くんのことを、この世界の誰よりも覚えているから」
想いの強さが、生と死の境界を越えた。
そういうことだったのだ。ゆりが五メートルの距離を保っていたのは、怖かったからだ。優に触れたら、温度がないことを確認してしまう。生きていないことを、自分の指で確かめてしまう。知っていたのに、認めたくなかった。ゆりもまた、否認していたのだ。優と同じように。
「ゆり」
優は言った。
「ごめん。忘れてて」
ゆりが、首を横に振った。
「忘れてたんじゃない。病気で、記憶が薄くなってただけ。優くんのせいじゃない」
「でも」
「思い出してくれた。お墓の前で。私の名前を呼んでくれた。それだけで、十分だよ」
ゆりが笑った。涙を拭いて、鼻を啜って、ひどい顔で、それでも笑った。
朝の光が、二人を照らしていた。優には影がない。ゆりの影だけが、田んぼ道に細く伸びている。
二人の間に、嘘はもうなかった。
お読みいただきありがとうございます。
二人の間に、嘘はもうなくなりました。
十年間忘れなかった想いが、生と死の境界を越えた。それがこの物語の核心です。
感想・ブックマークいただけると励みになります。




