第96話「崩れた内側」
「そこを壊す」
その言葉が、まだ耳に残っていた。
第三航路を守りきったはずの海は、今も揺れている。
勝ったわけじゃない。
ただ――崩れなかっただけだ。
「帰港後、すぐに資金の再計算を」
レオンの声が甲板に響く。
「保証の残量を出せ」
「はい!」
エリスは返事をした。
だが、その手はわずかに震えている。
(……守れたのに)
胸の奥が重い。
勝利の感触が、ない。
港に戻る。
歓声が上がる。
「守ったぞ!」
「基準航路は生きてる!」
人々の顔は明るい。
だが、その中に――
違う空気が混じっている。
「……あいつらは?」
誰かの声。
エリスが振り向く。
人の輪の外。
静かに立っている者たち。
「……来てない」
小さな声。
「第三航路の……別隊が」
空気が変わる。
「何だと?」
ガルドが低く言う。
伝令が駆け込む。
「報告!」
息が荒い。
「第三航路支線、第四便――」
一瞬の間。
「……未帰還」
沈黙。
エリスの思考が止まる。
「……そんな」
「優先航路じゃなかったため」
伝令の声が震える。
「保証対象外でした」
その一言。
すべてが繋がる。
優先した。
絞った。
守る場所を決めた。
その結果。
「……切り捨てた」
エリスの声が、かすれる。
誰も否定しない。
できない。
ガルドが目を伏せる。
「……仕方ねぇ」
現実。
だが。
「仕方なくない!」
エリスが叫ぶ。
全員が振り向く。
「同じ航路だった!」
「少し違うだけで……!」
言葉が崩れる。
「助けられたかもしれないのに!」
沈黙。
レオンは何も言わない。
ただ見ている。
エリスの言葉を。
「……私が決めた」
震える声。
「優先順位」
「守る場所」
「……だから」
手が強く握られる。
「私が、捨てた」
空気が重く沈む。
その時。
人混みの中から、一人の男が前に出る。
疲れた顔。
汚れた服。
「……戻ってきたのは、こっちだけだ」
低い声。
エリスが息を呑む。
「第四便の……仲間は?」
男は首を振る。
「……途中で別れた」
一拍。
「“危険”って情報が流れて」
沈黙。
「俺は……戻った」
拳が震えている。
「でもあいつらは進んだ」
エリスの呼吸が止まる。
「……それで」
男は笑う。
乾いた笑い。
「どっちが正しかったんだ?」
誰も答えられない。
その時。
港の奥から、黒い影が現れる。
記録院の男。
ゆっくりと歩いてくる。
「いい問いだ」
静かな声。
全員の視線が集まる。
「正しさとは何か」
一歩。
また一歩。
「結果か」
「選択か」
エリスの心が揺れる。
「……黙って」
男は続ける。
「彼らは選んだ」
一拍。
「そして消えた」
その言葉。
冷たい。
だが。
「それが現実だ」
レオンが一歩前に出る。
「……違う」
低い声。
男が目を細める。
「何が違う」
レオンは言う。
「選ばせた」
沈黙。
「我々が」
エリスの目が見開かれる。
「……レオン」
その言葉。
逃げなかった。
責任から。
男は微笑む。
「認めるか」
レオンは頷く。
「認める」
一拍。
「だから背負う」
空気が変わる。
重さが増す。
エリスの目に涙が浮かぶ。
「……無理です」
小さな声。
「そんなの……」
レオンは振り向く。
「無理だな」
即答。
だが。
「それでもやる」
その一言。
エリスの心が揺れる。
壊れる。
「……どうして」
絞り出す。
「全部救えないのに」
レオンは静かに言う。
「全部は救えない」
一拍。
「だからやめるか?」
その問い。
エリスは答えられない。
「違う」
レオンは続ける。
「減らす」
短い言葉。
「一人でも」
その一言が。
刺さる。
深く。
エリスの中に。
(……一人でも)
涙がこぼれる。
止まらない。
「……悔しい」
初めての言葉。
本音。
「悔しい」
声が震える。
だが。
「でも」
顔を上げる。
涙のまま。
「やめない」
その瞬間。
空気が変わる。
完全じゃない。
だが。
折れていない。
記録院の男はそれを見る。
静かに。
そして。
「……なるほど」
小さく呟く。
「それが“信用”か」
一歩下がる。
「なら」
影に溶ける。
「次は“崩す”」
その言葉を残して消える。
沈黙。
港に残るのは。
現実。
そして。
選び続けるという重さ。
エリスは立っている。
まだ揺れている。
だが。
もう逃げていない。
ここが一つの分岐点です。
「信用の限界」と「それでも続ける理由」がぶつかりました。
ここから物語はクライマックスへ一気に入ります。
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次話、最終決戦へ。




