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伯爵と狼

セバスティアーノの体内時計は相当に正確なので、図書室を出てから確認すると、予想通りにもうすぐ午後9時になろうかという頃だった。一人で置いてきたアレキサンダーのことが気がかりである。ちゃんと早めに切り上げて自室に戻ったのだろうか。


執務室でペンを握る少年は、まだまだ就寝の支度などせず大きな書斎机に向かっていた。セバスティアーノを待っていたというより、これが彼の日常なのだろう。


「伯爵様、申し訳ございません。遅くなりました」


「構わないとも。誘拐犯みたいな伝言が届いて驚いたが、ずいぶんと早く結論を出してくれたんだな」


少年伯爵は悪戯っぽく口角を上げた。フィンチ伯爵、ルートヴィヒ。ゼノン公爵家の血を継ぐ、セバスティアーノの甥っ子。彼は魔法使いではないが、ゼノンもフィンチも早熟な者が多い家系だからか、ひどく大人びている。13歳だとは聞いたが、15、6歳の、青年へと至る過程の年頃の者と相対している気分になる。


重責を伴うフィンチ伯爵家の当主という席に座らされたのに、弟にあれだけ慕われて、家主として温かく安らかに、伯爵邸を護っているのは立派だと、今日一日で痛感した。セバスティアーノは、酷薄で腐れきったゼノン公爵家を見捨て、いっさい迷いなく逃げ切るつもりでいるのに。


「あなたの弟君は、即断に値するお方だったので。お約束通り、アレキサンダー様にお仕えすると誓いましょう。この身のすべてを捧げ、必ずやお守りいたします」


「ゼノン至高の剣に、そう仰っていただけるなら、……なんたる光栄か……。よろしく頼む。そちら、問題なければサインを。今日はもう遅いし、勤務開始は明後日からにするか?」


ぜひ明日でと答えながら、契約書に見落としが無いか慎重に読み進める。ーーよし、この文面なら差し障りない。狼は内心で舌なめずりをしつつ、さらっとペンを走らせた。これで明日から、セバスティアーノ・ゼノンはアレキサンダー・フィンチの執事となる。

サインした契約書を伯爵に手渡すと、彼は数瞬間だけ沈黙し、それから覚悟を決めたように力強く声を上げた。


「………………ゼノン殿! その、だな、……後出しで申し訳ないと思ってはいるのだが……ッ!」


唐突に様子のおかしくなった伯爵の姿に、セバスティアーノは首を傾げた。心苦しそうに眉根を揉んで、ルートヴィヒは言葉を連ねた。


「先代当主夫妻が死んで一年だ。アレキサンダーを宥められる、抑えられる者が消えて一年と言える。…………アレクは、その期間に、当家の騎士団長を6回、死の間際へと追いやった」


「騎士団長を。それはなかなか。剣を仕込んでみたら魔法使い騎士団長とかになれるかもしれませんねぇ」


穏やかでない話が後出しされたが、セバスティアーノには別段に慌てた様子もない。フィンチ伯爵家は、家門に殺したいほどムカつく騎士団長でも抱えているのだろうか。アレキサンダーが望むなら代わりにセバスティアーノが殺せばいいだけのこと。ーーしかし、話はそう簡単なわけもなかった。


「執事長のカールストンは3回、マーサも3回、虫の息になった。……マーサは、本当に後半歩まで死にかけた。あんなにも身体が千切れた者の蘇生なんて、治療士の到着がわずか3分も遅ければ間に合わなかった。あんな想い、二度とごめんだ。いくら腕のいい治療士でも、身体の何割かを失った患者を前にしては、わずかな延命がせいぜいだ。……やっと正気に戻ったアレキサンダーの、あの表情。ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくりながら、加害した本人が、ものの数分で魔法によって完治させたよ」


セバスティアーノは、黙って静かに、ルートヴィヒの苦しげに喘ぐような苦悩の声を聞く。


「…………時折り、アレクは発作をおこす。それに対処すべく、伯爵家の者は死力を尽くしている。文字通り、死にかけてでも、アレクを護るために。……本人も苦しそうなんだ。眠れないし食べられない日が続く。限界までいくと、頭が痛い、もう耐えられないと狂ったように泣き叫ぶ。血が出て骨が折れるまで物に身体を打ち付けるから、せめて刺激のないようにと、何も無い部屋にひとり残せば、すごい絶叫がしたと思ったら指を噛みちぎって血まみれで泣いていた」


「ーー原因は?」


「魔法。魔法を行使しすぎると身体に不調が出るのは、魔法使いなら誰でも経験することなのだと。ただ、アレクのはもう、ただ在るだけで、内に宿した魔法の力が、あの小さな身体を押し潰すほどになっている」


「魔法使いをやめる方法は?」


「ない。無茶苦茶になって苦しむアレクが、また、魔法を抑えきれなくなったとき。もう、それをどうにも出来なくなりつつある。魔法を尊ぶフィンチは、その魔法によって、自滅を視界に収めている」



「フィンチの者には、特にそういう傾向が多い。魔法の才能は遺伝する。より優れた魔法使いを次代にと、近しい血が繋がれてきた結果だ。何もかもが最悪に連なってきて、アレキサンダーというフィンチの最高傑作を、今では伯爵家の誰も死にかけずに抑えられない」


寂しいんだと口にしていた、あの仔が。セバスティアーノは静かに腕を組んだ。ーーフィンチの最高傑作と言われるほどの魔法の才、その道のりは平坦ではない。なるほど、確かに昼間、伯爵はそう口にしていた。


「この国で2番目と3番目に優秀な魔法使い、まだ2歳のヨハンとセシリアはいい、そりゃあ別格の魔法使いであるアレクがいるんだから……。歳を取るにつれて落ち着いていくとは聞くが…………。今がもう限界に近い。刺激を避けて真っ暗な部屋で動かずにじっと本を読んで、発作の気配に怯えるあの子が、あまりにも可哀想だ。なのに、フィンチのため最高の魔法使いになれと、あの仔の先のためにも、強いる他ない。人一倍に優しくて、寂しがり屋で、強い子だ。大切な弟ひとり守ってやれない兄であるのがやるせない」


「そんな折に、ゼノン殿、貴殿から申し出があった。本来ならば交流など皆無なはずの遠方の力ある公爵家との繋がり。我が血がもたらしてくれた縁を、どうしても掴みたかった。武に名高い貴殿なら、弟を守ってくれると。ゼノン殿、………セバスティアーノ叔父上、あなたならばと縋りついた。ただの子守りではないと伝えず、騙し討ちのような方法を取ったこと、謝罪する」


どれだけ苦悩したのだろう。悩んで、それでも走るしかなくて、アレキサンダーが背負っているものも、この13歳の伯爵が背負っているものも、重い。だけど、彼らや、彼らを支える者たちの間には、確かに絆がある。

セバスティアーノは、ゆっくりと口を開いた。


「まずは、ルートヴィヒ様、よく耐え抜きましたね。先代か急死なさった折、ぎりぎり貴方が成人していたおかげで、貴方の弟妹たちは利権を狙う輩から守られたのだと推測します。親類も皇室も、皆が欲しがる名門伯爵家を、それも魔法使いではないという12歳の少年が1年もよく保ちこたえさせた。……ここの方々が皆、貴方を支えたいと願っていることが空気から分かります。ゼノンで、こんな暖かくて穏やかで優しくて、幸せな空気に包まれたことなんて一度もない」


セバスティアーノのような人殺しとは根本が違う、伯爵家の嫡男たる少年が目にした凄惨な光景は、どれだけその心をも切り付けたことだろう。穏やかな世界で息をしていたルートヴィヒは、狐狸が互いに睨み合って隙を伺っている


そんな目に遭っても、マーサは、尊いものに向ける優しすぎる眼差しを、当然のようにアレキサンダーに降らせていた。

セバスティアーノには思い描くことすら許されなかった、愛と、信頼のある場所。若き伯爵は、護れている。


「アレキサンダー様から伝言です。おやすみ、いい夢を見て、と。あの仔は良い仔ですね。お兄さま、お兄さまと、貴方が大好きみたいだ。貴方のために、この幸せな伯爵家のために、精一杯に励もうとしている。優しくて可愛いらしい仔。そんな仔に慕われるだけの働きを貴方は続けてきた。……ルートヴィヒ様、貴方が歩んできた道に胸をお張りなさい」


ルートヴィヒは、セバスティアーノと同じ色をした深緑の瞳をぐっとすがめた。叔父の賞賛を素直にはとても受け止められない。周囲の者たちに恵まれていただけで、それなのに今、かなり苦しくなってきている。


「ーーそれに、こんなに有能な剣士を引っかけたんですから。よく俺を靡かせて、名を書かせました。……さすが、俺の自慢の姉の仔だ。セバスティアーノ・ゼノン、凶狼なんて不吉な呼ばれ方をしてますが、まあ腕っぷしと、あと大体すべてが極上な狼です。微力ながら、伯爵様と伯爵家のために、我が主人、アレキサンダー様のために尽くしましょう!」


ルートヴィヒは、張り詰めていた糸が切れたように、小さく息を吐いた。セバスティアーノの直感通りに苦労人である彼は、そっと笑って頭を下げた。


「さて、これだけ後出しの先出しがあったんです、私もまあ、いくつか後出しを持ち得る身です。すみませんが受け入れてください」


まあ、当然のように、セバスティアーノがそう出ること予測していたのだろう。柔らかく笑んで、伯爵は、聞いてみないことには分からないが可能な限りと、促した。


「私はゼノンが嫌いです。憎んでいる。ゼノン公爵の長男なんて地位、他の狼が共喰いでもして勝手にすればいい。当主には決してならない。公爵家からの助力は無いものとお考えください」


伯爵は頷いた。公爵家からの援助はありがたくとも、見返りに差し出せるものがない。ただ単にセバスティアーノ・ゼノンという男の助力だけを得られるなら、そちらの方が伯爵家にとっても都合がいい。


「で、ご存知のように、私に剣で勝る狼はいない。ゼノンは、長男次男直系傍系、そんなの関係なく、もっとも強い狼が、他を蹴落とせた狼が、当主の地位に着きます。そもそも私にしたって、父親の一存と己の能力だけで、次期当主の最有力候補なんてクソみたいなことを囁かれている。剣に、顔に、身体に、知性、テク、盛りだくさん150分コースな私の才覚のせいで、当主は絶対に私を手放そうとしません」


それはそうだろう。ゼノンの凶狼の話は、遠い伯爵領にまで届いたくらいだ。それに実際に会ってみて嫌でも理解した。彼ほど、群れのボスとして優れている者、他に在る訳がない。もし、そんなのを2頭も抱えているのなら、共喰いさせずに、片方を他で動かす方がよほど利がある。……たとえば伯爵家の掌握など。その疑念だって、もちろんセバスティアーノの側から打診があったとき、ルートヴィヒの頭を過ぎった。しかし、もはや賭けに出るしかなかった。


「おっと。伯爵様、今お考えのことは不正解……いや、半分正解ですね。ゼノン公爵は確かに欲を抱いている。あわよくば伯爵家をと狙っています。ーーーーしかし、俺は違う。俺は決して、ゼノンの血を継ぐ貴方を利用して伯爵家をどうこう…………なんて、ちっとも望んでいません。アレキサンダー様を守り、貴方の助けにもなりましょう。それだけは信じてくださらないと困る」


信じろと狼は言う。

ーー本当に、信じていいのか? 目の前で甘く優しくルートヴィヒの頑張りを認めてくれたのは、ただの狼ではない。あの公爵家で誰よりも優れていると認められている、ゼノンの凶狼だ。

信じさせるため、先に要求を出させて快諾し、弱っている者の心の柔いところに迫る。それが、最優の狼の、巧みな狩りなのだとしたら。


「多くが狙っている、危機的な状態にある伯爵家。その当主がなんとゼノンの血脈だ。頼れる叔父が幼い甥のピンチに駆けつける。今まで入るつもりのなかった皇都圏内への介入、今ほどの好機はない。潜り込ませるのにうってつけの大義名分を持った使える狼がふらふらしている。…………と、まあ、ねえ……ゼノンにとって都合の良すぎる状況です。貴方が懸念なさるのも当然だ。極上の獲物を狩れるチャンスがあれば、噛み付かずにはいられないのが狼ですからねぇ」


ルートヴィヒの選択次第で、命運は変わる。これは誰かに相談するような選択ではない。男の形の良い唇が紡ぐあまりにも都合のよい甘い言葉の真偽。彼が真実に禍いをもたらすつもりの凶狼なのであれば、いずれ大切な者たちすべてが喰い殺される。しかし、もはやこの男の手を借りねば、苦しすぎる泥沼に踏み込むであろう現状。

13歳の少年が背負えるような重さでは、とっくになくなっている。


伯爵は、しかし、迷いなく告げた。


「セバスティアーノ・ゼノン殿。貴殿を信頼する。貴殿の、我が母への想いを。そして、貴殿を認めたアレキサンダーの想いを」


予想外な言葉だった。セバスティアーノは数瞬、瞠目して、それから、世界のすべての視線を独占するような慈しみに満ちた笑みを浮かべた。


+


自室に戻る前に、セバスティアーノは隣室である主人の部屋の扉の前に立った。いっさいの気配を消して、扉に手を充てる。目を閉じ、じいっと狼の感覚を集中させる。扉から少し離れたベッドの上に小さな存在が確かにいる気配を感じとり、安堵する。


ーーアレキサンダー様、俺の主人、俺の可愛い雪狐くん。


君の、この先に待っている、苦しいこと、それをいくらか和らげてあげる。危険から護ってあげる。君の大切な者たちが笑顔でいられるよう、彼らもまた護る。寂しくないよう、独りぼっちにはさせない。


「おやすみ。また明日」


今夜の主人の眠りが優しいことを祈って、セバスティアーノは自室へと戻った。昼間に出たときは何者でもなかった自室に、アレキサンダーの執事として戻ってきたのだ。




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