魔法の図書館
マーサの部屋を通過したあたりから、時折、チラッ、チラッと、アレキサンダーが視線を向けてくる。セバスティアーノが面白がって焦らそうと触れずにいたら、ついに幼児はもう我慢できないと立ち止まって脚にしがみついてきた。小さな手は、触れると、とても心地よい。セバスティアーノは知った。ずうっと、その柔肌に触れていられそうだ。
「なぁ〜! おれのお茶目な失敗を目にして、魔法のことが気になってきたんじゃない?? まだ? もうちょいかかりそ?」
セバスティアーノを見上げるアレキサンダーは、ひどく不服そうだった。眉根を寄せて、むぅっと頬を膨らませる幼い主に、セバスティアーノは自分が思い違いをしていたことに気がついた。
アレキサンダーにとって魔法なんてありふれたもので、いちいち説明するのは面倒がっているのだと考えていた。しかし、どう考えても逆だ。ーー魔法について、アレキサンダーはセバスティアーノに話したくて仕方がないらしい。
……案外、子どもだな。セバスティアーノは、そう思いかけて、思い直す。そうだ、この子は普通にまだまだ子どもだった。小さな手足。小さな顔。そんな幼児。その小さな頭に、セバスティアーノは、ぽんと手を乗せる。
「伯爵領に到着する前から、魔法とはどういうものか、魔法使いはどんなことが出来るのか、私は気になっていましたよ?」
「えっ!! だってバスティ、あんまし訊いてこなかった! 普通、おれに会って気になるのはそこだろ! ……もー、早く言えよ!! このままスルーして、お兄さまの執務室に行っちゃうのか不安になってたんだぞ!」
アレキサンダーは目を輝かせた。さっと頬が喜色に色づく。ーーここまで真っ白な肌は、血色が良くなると、ひどく美しい紅色に染まるんだな。今までに相手をした、どの女の頬紅よりも自然で綺麗な色だと、セバスティアーノは他人事のように思った。
こっち! とアレキサンダーはセバスティアーノの手を握って走り出す。危なっかしく階段を昇る子どもが転んだらいつでも抱え上げられるよう注意しながら、手を引かれてセバスティアーノも後に続く。
「どちらへ?」
「魔法の図書館! そこを見たら、魔法ってすごそう〜! ってなるはず!」
そうして案内されたのは、なんの変哲もない扉の前だった。
「魔法と縁のない、私なんかが入ってもいいんですか?」
「逆に半端な魔法使いが入室した方が厄介なの。なんの魔法も使えなければ、入っても退屈なだけ」
手袋を外すよう要求され、セバスティアーノが素手の左手を差し出すと、手を握ったアレキサンダーは、どこの言語なのか聞きなれない言葉を口にした。途端、握られた手に冷気が走り、思わず引っ込める。見ると、手の甲に、白い羽根のような紋様が描かれていた。
「それは鍵。使い切りだから、また来たいときは、おれがご一緒します! 」
アレキサンダーは背伸びをしてドアノブを掴み、そして扉を開けた。主人に続いて入室しようとしたセバスティアーノだったが、何もないはずなのに、確かに壁に当たった感覚を覚えた。
「アレキサンダー様、なにか見えない壁のようなものが」
「へ?」
おかしいなと首を傾げながら、アレキサンダーは再びセバスティアーノの左手を握った。目を閉じて、うーんと考え込んだのち、一言二言つぶやく。今度は、冷気ではなく、ほんのりとした温かさを覚えた。
「これで大丈夫だと思う〜。あ、いけたな!」
「ようこそ〜、魔法の図書館へ! どう??」
広い部屋だった。中央にある螺旋階段から上階へ行けるらしい。ーー部屋にはただ、その階段だけだった。家具は何ひとつ置かれていない。魔法どころか、図書館の要素すら皆無だった。
「階段がありますね」
「あるな!」
「壁紙も、床板も、白で統一されていますね」
「それはどうかな!」
悪戯っぽく笑い声をあげて、アレキサンダーは、まるで光を放っているかのような白く美しい瞳を輝かせて、セバスティアーノに手を差し出した。
小さな手を取った途端に、セバスティアーノの、視界のすべてが変化した。
ーー水底に、セバスティアーノはいた。青い水面が己に寄り添う。こんな水に囲まれて、呼吸なんて、出来ないはずなのに、しかし息は苦しくなかった。
自慢げに、幼い魔法使いは笑った。セバスティアーノの手を、小さな手のひらが握っている。髪も、肌も、何もかもが真白い幼児が。
「ーーここが、一番の底なんだぞ。水中から、魔法は始まるんだ。……で! バスティは、階段を見たよなッ! そこに行こッ!」
手を引かれて、階段を登ってゆく。美しい景色が、ずっと続く。海の中にいたと思えば、次に目にしたのは、一面に広がる花畑だった。晴れやかな空の下、息を飲むほど見事に、美しい花々が咲き誇っていた。花の色ごとに区画整理がされている。白のフィンチらしく、白い花だけのエリアが最も広い。アレキサンダーはころんと白の絨毯へ嬉しそうに転がった。セバスティアーノとしては、白い花は姉の葬儀を思い出すから避けたかったが、真っ白な幼児が嬉しそうに美しい白の花々と戯れている姿は、絵画にでもして、しまっておきたいような神聖さが感じられた。
「おれ、お花すごく好きだから、ここの階がいっちゃん素敵だと思う。上の階の雪景色もなかなかだけど、おれ白いのに雪の中にいたらバスティが見失うかもしんないし、空の鳥は……うん……」
公爵領の冬は雪で閉ざされる。セバスティアーノが見慣れた雪景色で獲物を見失うことなんて有り得ないので、アレキサンダーの心配は不要だ。
「雪の中だと、真っ白いアレキサンダー様は、隠れんぼの天才になれますね。でも公爵領ではダメだな。どれだけ巧妙に雪原に姿を隠そうが、狼連中は決して獲物を逃さず、見つけ出すから」
狼。雪に隠れる天才、雪狐。
なにかそういう内容の童話があったなと、ふいに思い出した。いつ聞いたのだったか。…………ああ、まだ牢の中で凍えていた時代に姉が、絨毯でもあればと聞かせてくれたのか。ちょうどここは図書館らしいし。
「童話とかもあるんですか。『雪狐と狼』でしたっけ。俺は狼だし、全身真っ白で悪戯好きの貴方は、まるで雪狐くんでしょう?」
「ーーほわぁッ?? バスティ、それは流石に一線を超えてるぞ?? いや、ずっと超えてるか……??」
なにかよく分からない反応をアレキサンダーはした。
「狼の尻尾を三つ編みにした雪狐が、狼の家の絨毯にされる話でしたよね。昔、ずいぶん寒い所にいたとき、狼だったら雪狐を狩ってきて、あったかい絨毯に出来るのにと姉が話しくれました」
「…………三つ編みじゃなくて五つ編みなんかをしたから、時間がかかって、狼が起きたんだよ。公爵領では三つ編みだったのか? 地域差かなぁ。まあ、残念ながらここには所蔵されていないので、確認するの無理だけど」
…………?
アレキサンダーの言葉に、直感が働く。セバスティアーノには、アレキサンダーが嘘をついたように感じられた。この勘は確実に当たっているが、なぜそんな嘘を……? まあ、特段に突っ込むことではないと判断して流した。
「それは残念。で、俺の雪狐くん、そろそろ図書館の詳細を教えてほしいです」
「……………………ま、いいか。絨毯にしないなら、そう呼んでもいいぞ。いっちゃん上まで行くかぁ」
次の階は予告通りに雪原だったが、公爵領の大抵吹雪いている景色と違って、よく晴れていて明るい顔をしていた。そして、最終階、一面の青空に、多くの鳥が翼を広げていた。種類も様々、色とりどりの姿をした鳥たち。
ふたり並んで階段に座り込んで、ぼうっと鳥の囀りに耳を傾けた。とてものどかな昼下がりのようだ。
「…………ねえ。アレキサンダー様、こちらは、魔法の図書館と、聞かされていたはずなのですけど、……美しい景観ばかり広がっているのはなぜ?」
「ぜんぶ、本だ。泳いでいたお魚さんたちも、底で気持ちよさそうにしてた貝も、微笑ってた花たちのそれぞれ、空をゆく鳥たちの一羽一羽も。ーーバスティ、これが魔法の誇るべき境地だ。すっごいだろ? 魔法使いが触れると、読めるんだ。……お前は無理だけど…………、こんな数の本が収められた場所は、そうないってわかるだろ?」
セバスティアーノは、言葉もなく瞠目する。にわかには信じ難い。
「……本当に? 魔法なんて何も知らない俺を、あなたが揶揄っているわけでなく?」
おれがそんなに性格の悪い幼児に見えるのかと、アレキサンダーはぷんすこ怒った。ならばとセバスティアーノは問いかけた。
「じゃあ、例えば、あの白い鳥とか呼んで、76ページを読みたいと考えたらどうするんです?」
特に呼びかけることもなく、アレキサンダーが腕を伸ばすと、白い鳥はおとなしく飛んできて小さな指に止まった。美しい造作をした幼児は、そっと鳥の喉を撫でた。いたわるように、優しく。その光景がとても尊いもののように思えて、セバスティアーノはただ見入った。
「フィンチさんちだから、鳥本には古いやつが多いんだが、この子は相当だなぁ。皇国歴42年……フィンチの二代目か。えぇっと、76ページ目は………『魔法を恐れる勢力に配慮を示し、皇宮内での許可なき魔法の使用を禁じると定められた。しかし、バレないように巧みに使えば、何ら問題にはならないと、ここに挿入しておく』」
「クズの助言じゃないですか」
「他人様のご先祖が記したものを、クズ呼ばわりするのは良くないぞ! 間違ってはないが! とても実用的なクズライフハックなんだぞ!」
ちなみにそのクズライフハックが使えるのは先代伯爵夫妻が亡くなった今、魔法に長けたフィンチの幼い三兄弟くらいなので、実用的だが一般ウケはしない。
アレキサンダーの指先から、白い鳥は翼を広げて飛び去ってゆく。その小さくなる姿を、アレキサンダーの白い瞳はすっかり遠方へと消えるまで追っていた。
「まぁ……フィンチさんちにある、伝統的な書物たちの内容が、ちょっとお茶目なのは認める。ゼノンさんちのはどうなんだ? フィンチ伯爵家と同じで、建国功臣の7大家門のひとつなんだから、古いのがいっぱいあるだろ?」
「…………チラッと目を通したことがありますね。初代が書き残した文献を。『殺したら人は死ぬから、死なせたいなら殺せ』、1ページで閉じました」
「脳みそ筋肉しか詰まってないな?」
「合ってますし俺もそう思いますが、他人様のご先祖が記したものをゴミ以下のカス呼ばわりするのは良くないんでしょう」
「そこまで言ってない。力強くて良いカスライフハックだ。…………なぁ、バスティ、おれなぁ、この階は寂しくなっちゃうから、あんまし好きじゃない」
突然に幼児が無表情になったから、セバスティアーノは少し黙りこんだ。寂しい、か。見上げる空には無数の鳥が軽やかに舞っている。晴れた青空、聴こえてくる様々な囀りたちの重なり、とてものどかだ。
「おれは寂しがり屋さんだからなぁ……」
この空の、どこに寂しさがあるというのだろう。不思議に想うセバスティアーノに、アレキサンダーの澄んだ白い瞳が向けられた。光の中で、きらきらと煌めく、ダイヤモンドよりも美しい瞳が。
「鳥さんは、いっぱいいるのに、寂しそうだと思わない?」
「……鳥は群れるものです。群れずとも、ここにはたくさんの鳥たちがいて、いつでも仲間たちの姿を目にすることができます。寂しくはないでしょう」
鳥の感じる寂しさなんて初めて考えたが、セバスティアーノは誠実に自分の答えを口にした。それを聞いて、アレキサンダーは、絞り出すように声を震わせた。
「…………みんなを傷付けてばっかりの、悪い一羽だけ、高く飛べたら? 高く飛ばなきゃいけなかったら? 一羽だけ、高く高く、横を見ても下を見ても、誰もいなくて、声も聞こえない、遠いところまで飛ばなきゃいけない鳥がいたら? ずーっと、雲よりも高く、遠く、そんなところまで飛んで行ったら、寒い寒いって泣くのかなぁ……」
アレキサンダーは、何を考えてるか人に分からせない、無表情のままだった。ーー気難しい4歳児。伯爵がそう称していたことを思い出した。
「…………狼は群れを作ります。強いオスをリーダーとした群れ社会です。繁殖はリーダーだけの特権で、その狼を中心に世界は回る。最も強い狼なら、何でも叶うでしょう。さぞや快い気分になるでしょう。でも誰よりも強い狼はそうじゃなかった」
ぼうっと鳥の群れたちを見上げ続ける大きな瞳の真っ白は、どこか羨ましそうな色をしているように感じられた。セバスティアーノは、アレキサンダーの目に手を充てて視界を閉ざした。大きな手は、小さな顔をすっぽり覆える。
「群れから外れた一匹狼は、孤独で哀れな存在らしいですよ。常に生の危険に晒されて、群れに加わろうと懸命になって。…………ただ、その狼は最強ですからねぇ。どんな群れが襲ってきても返り討ちにできるし、おまけに頭の回転もはやく、狼以外の何もかもを魅了するような美男です。一匹狼なんのその!」
セバスティアーノの手が離れ、視界が戻ったと思ったら、美しい男のドアップの笑顔が息の触れる距離にあったので、アレキサンダーは仰天して体勢を崩した。
「わっ!」
「おっと」
小さな身体に覆い被さるようにして後頭部と背中に手を回して強打することを防ぐ。ゆっくりと、セバスティアーノはアレキサンダーの身体を床に横たえた。見上げたセバスティアーノの肩越しに見える空は小さい面積分だけだった。視界のほとんどは自分の執事になるという男。彼は悪戯っぽく深緑の瞳を和らげた。
「ーーそれに、ナイスガイな狼は、最近可愛い雪狐も捕まえました。絨毯にするには惜しいので、俺の雪狐くんにしちゃいましょう!」
「…………へ?」
「白い仔鳥は、お空の果てまで1人きりで飛んで行っちゃうのが寂しいんですねぇ。じゃあ、貴方の執事の前でだけは、俺の可愛い雪狐くんでいればいい。たまに悪さをしたとして、狼には敵いません。俺は一匹狼で問題はないが、触り心地がよくて可愛い仔なら、お仕えしてお釣りがくる。……だいじょうぶ。どれだけ雪狐が隠れんぼの達人でも、狼は絶対に見つけ出すから。独りぼっちにはさせません」
自分を見つめる男の瞳に浮かぶ、その情を、アレキサンダーは知っている。カールストンが、マーサが昔から向けてくれていたもの。最初は疑ったけど、どうしてか、お兄さまも確かに傾けてくれていると知ったもの。慈しみ、庇護、愛情、優しい想いの数々。ーーそれが、どうして、今日出会ったばかりの、この男の瞳に宿っているのだろう。わからない。変な男だ。
セバスティアーノは、アレキサンダーを優しい手つきで起き上げさせて、そのまま抱き上げて立ち上がった。胸に抱かれる。アレキサンダーの執事の逞しい身体は、ひどく温かい、熱いくらいだ。
「さぁて、素敵な図書館だったから長居してしまった。このままじゃ真夜中になってしまう。初日から伯爵様の寝込みを襲ったなんて嫌疑をかけられるのは、さすがの私もごめんです!」
アレキサンダーを抱いたまま、執事はゆっくりと階段を下っていく。空の鳥たちは遠くなっていくが、雪狐の住処は狼の住む大地なので問題はない。
「……なぁ、バスティ。あのな」
「どうしたんです? 私に解決できることなら何でも、……まあ、あんまり面倒なことでなければ気軽にお申し付けください。なぁに? 初日から寝かし付けのためベッドに侍れって命じられても、私は構いませんよ?」
「お前は『私』よりも『俺』が似合うタイプのスケコマシに見えるから、おれの前では楽に話していいぞ」
「誰がスケコマシですか。俺か。否定しませんけど、ただのスケコマシじゃなくて、この国で一番剣を扱うのが上手な狼ですよ。貴方の執事にオファーされるくらい有能な美男です。……さあ、そろそろ本気で時間があれなので、伯爵様のところに。正式に貴方の執事にしてもらいに行きましょう」
アレキサンダーは真剣に思った。お兄さまが将来、こんなタラシな男にならないよう、ちゃんと見張っておかないと。叔父と甥が万一似てしまって、第二のスケコマシが爆誕してしまったら大変だ。
ーーちなみに、10年後、二代目スケコマシはめでたく己の執事に毒されたアレキサンダーが襲名するのだが、そこまではもう少々、物語が進む必要がある。
「バスティ。おれ、ちょっと調べものしてから出る。お兄さまの執務室は出て左の、おっきい扉の部屋。脳筋でも見たら分かるから安心しろ。お兄さまに、おやすみ、いい夢見てねって伝えといてくれ」
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一人、魔法の図書館に残ったアレキサンダーは、2冊の本を確認して、確信した。セバスティアーノに刻んだ最初の鍵は拒まれた。しかし、あのとき、アレキサンダーの魔法は正確だった。魔法は魂と血によく作用する。セバスティアーノに近しい血を持つ者が、もう似た鍵を使ったためのエラーに違いない。
歴代のフィンチ伯爵家の名簿に、該当する者なんて、もちろん一人だけだった。
入室記録に記載はなかった。しかし、当主なら改ざんは容易だ。……魔法が使える当主であれば、だが。
間違いない。セバスティアーノの姉、ルートヴィヒの母、ルイーゼ・ゼノンは、この魔法の図書館に入室したことがある。
それを先代伯爵はなかったことにした?
腑に落ちない。
あの、おかしいくらいに魔法に取り憑かれていたアレキサンダーの父が、魔法なんて少しも知り得ない余所から迎えた妻を、このフィンチの至宝たる場所に招き入れるなど。
アレキサンダーは、ぽつりと呟いた。
「ルイーゼさま。貴女の死にまつわる真実、その手がかりのひとつは、これですか……?」
セバスティアーノが求めるのと同じものを、アレキサンダーも、かなり前から探していた。自分が、魔法の最高傑作が作られたのは正されるべき悪事なのかを知り、選ぶ道を判断するために。
ーー東から狼が来て、南の雪狐もまた走り出した。




