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剣の狼は執事になる

姉の結婚式の直前に戦場に送られたため、その花嫁姿は目にできていない。姉の葬儀のときは、霊廟にしか立ち入りを許されず、伯爵邸の内部に足を踏み入れるのは今が初めてだ。魔法使いの根城は、玄関から応接室に至るまでは、やや古さが目立つが、ごくごく普通の内装だった。


「ようこそ。南部は過ごし良いか?」


少年伯爵ルートヴィヒ・フィンチは、彼の父親によく似ていた。ゼノンの血よりも、フィンチの血脈が勝ったらしい。あの銀髪の先代当主と、同じ角度の、麗しい眼差しの角度をしている。


「遠路はるばる、よくいらしてくださった。セバスティアーノ・ゼノン殿。叔父上とお呼びした方がよろしいか?」


「フィンチ伯、ルートヴィヒ様、私などに気を遣わないでください。ただ、セバスティアーノとお呼びくださいませ」


フィンチ伯ルートヴィヒの前に立つのは、相当な傑物だった。東部戦線を、動かした男。誰よりも人を殺し、名誉の限りを受けた者。剣のゼノン公爵家、その結晶たる若い狼。


「では、間をとってゼノン殿と呼ばせていただく。……本題に入る前に、母の霊廟へ向かわれるなら、どうぞ遠慮は要らない」


気遣いに頭を下げて、しかしセバスティアーノは首を振った。ここで雇われさえすれば、いつでも空っぽの姉の棺には祈りを捧げに向かえるのだから。


一年前に当主を継いだ甥は、まだ成人とされる12歳になったばかりだと把握しているが、ひどく大人びていた。15、16歳と言われても疑わない。こんな家を継がされたのだ、それもそうなるだろう。彼の肌はセバスティアーノと似たり寄ったりの色合いで、つまり南部の平民たちよりよほど色白だった。それでも、魔法は少しも使えないと聞いている。彼に流れる、魔法とは無縁だった姉の血が所以だろうか。


「しかし、ゼノン公爵家は貴方をよく手離したものだな。何を引き換えにしたか伺っても?」


探る眼差しを、少年はセバスティアーノに真っ向から向けた。気迫を感じさせる深緑の瞳は、しかしセバスティアーノにとっては児戯と同じもの。同じ色の瞳が、叔父と甥には嵌っている。……もういない彼女と同じ、エメラルドが。


「何も。私に差し出せるもので、公爵家が欲しがるものなんて存在しませんよ。この命は私だけのものです。どこで生きて死ぬかは私が決めます」


セバスティアーノが答えをはぐらかすと、ルートヴィヒは眉根を寄せたが、それ以上の追及はしてこなかった。叔父が腹に何を抱えているのだとしても、伯爵家は、魔法使いを支える力ある者を切実に必要としている。


その素質が、セバスティアーノ・ゼノンという、神に愛されたような美しい男にはある。


金は問題ない。どれだけ欲しいと言われても、建国からの名家たるフィンチ伯爵家なら、出せる。……意地でも出す。弟のために。


でも、きっと、そうではない。ルートヴィヒの叔父が求めるのは金などではないはずだ。


「本当に執事としての雇用で構わないのか? 弟の面倒を見てくれるなら雑務は任せないが」


「ええ。逆に、私が伯爵家の騎士団に所属したなんて話が公爵家に伝わったら、面倒なことになりますよ。で、私は、剣ばかり振るって20年も生き長らえて来ましたが、それなりに何でもこなす自信はあります。どうぞ遠慮なくこき使ってください」


ーー弟は厄介だぞ、とフィンチの当主は苦笑した。セバスティアーノが執事として他に気を回す余裕を持てるのか、お手並み拝見といったところか。


「ゼノン殿。私が求めるのは、腕っぷしはもちろんだが、弟の絶対なる味方だ。弟に忠誠を捧げ、弟のために何もかもを投げ打ち、そのすべてを尽くす者がほしい。貴方にその自信は?」


「その人となりを存じ上げないと、軽々しく忠誠などと、とてもとても誓えませんねぇ。いまだ未成熟なお方を教え導くのが役目なら、様子見の期間はそれなりに必要でしょう?」


喰えない男だとルートヴィヒは呆れた。……武勇に名高い東のゼノン公爵家で、つい数年前まで、誰よりも優れた、稀代の剣才と謳われていた男を、容易く喰えるはずもないか。


「来てくれ。ゼノン殿。うちの問題児を紹介する。魔法使いらしく気難しい4歳だ。貴方のお眼鏡に叶うことを祈ろうか」


+


ルートヴィヒの後を付いて廊下を行きながら、気になっていたが知る術のなかったことをセバスティアーノは問いかけた。


「ご存知の通り、東育ちの私は魔法というものに疎くて。現在、数少ない魔法使いのほとんどは皇室に仕え、残りの数人がフィンチ伯爵家に所属しているという認識であっています?」


「先代が死んで、多くが皇室の誘いに乗って離れたが、腐っても魔法はフィンチのお家芸だからね。皇室より遥かに少ないながらも、粒揃いの者たちがうちに。それなり程度が使える者が騎士団に十数名、それと治療士を2人抱えている。あと、使用人の何人かが多少ほどを使える」


魔法の実力についての優劣など知るわけがないが、それにしたって少な過ぎると、セバスティアーノには感じられた。剣のゼノン公爵家には、己を含めて腕の立つ者が50、100はある。人材こそ家門の力だ。

先代のフィンチ伯爵夫妻が急逝してから、一年を耐えぬいた、歳若い当主たる少年の胆力は賞賛に値するが、これでは先細りも良いところだろう。


「年々、フィンチであっても魔法の才を持つ者は少なくなっている。私のような直系の非才がいい例だ。…………しかし、再婚した父と義母の間には、3人も天才が産まれてきた。アレキサンダー、ヨハン、セシリア。いずれも並外れた魔法の才を持っている」


無理やり公爵家から嫁がされた姉の子は、ーーこの若き当主は魔法使いではない。しかし、フィンチが直々に選んだ女の胎からは、優秀な魔法使いが産まれてきた。姉が死んだ後、先代フィンチ伯が娶った後妻。きっと、葬儀にいたあの銀髪の女だろう。……セバスティアーノはやるせなさに拳を握った。


「将来有望だとかは関係なく、3人とも大切な弟妹たちだ。私は、あの子たちを守るために、当主として必ずフィンチの地位を確かにしてみせる」


魔法が使えない自分、優秀な弟妹たち。思うところはあるだろうに、若きフィンチ伯は、きっぱりと弟妹たちが大切だと言い切った。……きっと彼は真実に兄弟たちを愛しているのだと、よく当たるセバスティアーノの直感は告げる。


「弟妹たちの中でも、アレキサンダーは別格だ。あの子はきっと、フィンチの最高傑作と謳われるようになる。その歩む道が平坦なわけがない。だからこそ、ゼノン殿、貴方にお任せしたいのだ」


弟の将来を案じる若き当主を見ていると、セバスティアーノは同じように才能ある弟を心配してくれた姉を思い出して仕方がなかった。……己の仕える魔法使いは、天才と称されたところで、大切な家族ひとり護れなかったと嘆かずに済めばいいが。


ルイーゼ・ゼノン。東の大公爵家の長女。なのに、……何ひとつとして、与えられなかったひと。彼女の死に何が起こっていたのか、先代らが死んだ今、知るのは難しくなった。しかし、必ずと決めてセバスティアーノはここへ来たのだ。


応接室から目的地まで、かなり歩いているが、まだ着かない。国境の要塞を兼ねるゼノン公爵家や、皇城ほどではないが、伯爵邸は並の貴族のそれよりも遥かに広かった。建国の功臣の家柄に相応しい格を感じるが、城の造りにしなかったのは、魔法使いの感性ゆえだろうか。


五階に案内された。ここだと言って、ルートヴィヒは躊躇なく弟の居室の扉を開けた。部屋の中は真っ暗だった。照明のいっさいは灯っていない。

外から室内を覗き見る。セバスティアーノの常人より優れた視力は、暗がりの中でひとり、ベッドに寝転んで本のページを手繰る小さな体躯をすぐさま見つけた。部屋には、彼以外の気配はない。フィンチの、使用人の数は足りていそうだったのに、当主の弟たる幼児に世話役を付けていないのが妙だと感じた。


こちらを向こうともしない子どもの髪色は、暗闇の中でも、ひどく白っぽく見える。弟の在室を確信しているらしく、暗闇に向かって、見当違いな方向に伯爵は呼びかけた。


「アレキサンダー。今、時間を作ってくれ。今日は良い子にしてたか……?」


兄の問いかけに、幼児らしい高めの声が返事をよこす。


「マーサを絶叫させたくらいには良い子にしてた」


「…………マーサは理知的なメイドなので、そうそう絶叫はしない。…………もう少し頑張りましょうだ、アレク……」


フィンチの歳若い当主は額を抑えている。ずいぶんと、年少なる問題児に手を焼いているようだ。


「マーサには後でしっかり謝ること。ーーで、本題なんだが、こちらはセバスティアーノ・ゼノン殿だ。お前の執事として、彼を招きたいと考えている」


興味を惹かれたらしい。幼児は、ようやっと兄とセバスティアーノの方を向いた。本をベッドにぺいっと放って、とたとたと入り口まで歩いてきた子は、興味深そうにセバスティアーノを見上げた。完全に白い髪だ。かつて会った魔法使い、この幼児の父親よりも、遥かに色を宿していない。

…………それはともかくとして、4歳児は予想以上に幼く、背丈は1メートルにも満たないと思われる。これの世話をするのかと、セバスティアーノはうんざりした気持ちになった。


「へぇ! …………なんで? このお兄さんは、魔法どころか、フィンチと、ちっとも関係なさそうに見えるけど?」


当然の問いだ。



理知的そうな幼子の瞳は、灰を通り越して、ほぼ白と呼んでいいような薄い色合いをしていた。虹彩が普通ではないのか、まるで、星のように、瞳全体がキラキラと光を反射させていて綺麗だった。


ーー白い肌、白い髪、白い瞳。

魔法の才は色素の薄さに現れるらしい。その事前情報のせいで色味ばかりを気にしがちだが、アレキサンダーは、ひどく大きな丸い瞳が印象的な、整った顔立ちをした美しい子だった。残念ながら、セバスティアーノは子ども好きではないので、少しも可愛いとは思えないが。生意気そうなガキだ。


「ゼノン殿は母上の弟だ。私の叔父ということになるな。素晴らしい剣士だ。アレキサンダー、くれぐれも礼儀正しくなさい」


兄が告げると、アレキサンダーと呼ばれた幼児は、びしっと小さな背を伸ばし、にぱぁッと明るく大きな笑顔を見せた。


「了解した! 縁故採用だなッ!? 分かった、このお兄さんは今からおれの部下!! 安心して執事になっていいぜっ!」


何というか、予想していた気難しい魔法使いのイメージとはだいぶ異なる。ルートヴィヒは生温い目をしてセバスティアーノに告げた。


「…………アレクは貴方を気に入ったようなので…………、2人で話を付けてくれるかな? 話が、まとまったら誰かに私まで伝言を頼む。必要な手続きは後にしよう」


「どうせお兄さんも、おれの隣部屋にお引っ越しだろ? そっちでお話ししよぉぜ〜」


差し出された小さな手を取った。元気に駆け出すのはいいが、長身のセバスティアーノからすると歩きづらくて仕方がない。崩すような体幹の鍛え方はしていないが。去り際、一応と伯爵に会釈をすると、どこか不安そうに唇を下げていた彼は、何事もなかったように穏やかに微笑み直して手を振ってよこした。ーーかわいそうに、と思った。彼はきっと、天性からの苦労人だ。


+


「ベッド一番乗り〜!あ! 安心してくれッ、おれは清潔そのものだ、魔法使いだからな!」


セバスティアーノのために整えていたらしい部屋に入室するなり、部屋主の許可なく幼児はベッドに飛び込んだ。子どもらしくて結構だが、もしここがゼノン公爵家であったら相当の折檻を受けることになっただろう。


隣のアレキサンダーの部屋とはまったく異なって、部屋は明るかった。程よい広さも、窓と扉の位置も、身を守りやすそうでよいと評価する。すでに届けられていたトランクを開けていると、ベッドを堪能し終えた幼児が興味津々といった様子で覗き込んできた。白い瞳と目が合うと、嬉しそうに幼児は握手を求めてきた。


「ちわ! おれ、アレキサンダー・フィンチ! よろしく! ゼノン卿、でいいんだっけ? おれのお世話は大変だぞッ、見たら分かると思うが」


「卿は不要ですよ。ーーはい、どうぞ。アレキサンダー様に、ささやかながらお土産です」


握手の代わりに、先ほど露店で買い求めた包みを、小さな手に握らせた。くふふと嬉しそうに幼児は可愛らしい相貌を蕩かせる。


「ありがと。開けていい〜? そっか、いいかぁ。……あ、なんかお菓子。食べていい〜? そっか、いいかぁ」


ベッドに戻ってもう一度ダイブを決めてから、アレキサンダーは、もぐもぐと菓子を楽しみ始めた。礼儀もへったくれもあったものではないが、気に入ったのなら結構だ。セバスティアーノがアレキサンダーの隣に腰を下ろすと、お裾分け、と砂糖漬けを手の平に乗せられた。素直に口に含む。南の、あまり馴染みのない柑橘で作られた甘味は、セバスティアーノの予想よりずっと甘かった。


「東部のゼノンさんちから南部まで、遠かったろ? 長旅ご苦労さま〜。甘いもの食べて、疲労回復、な?」


セバスティアーノのベッドの上で楽しそうに脚をバタバタさせるアレキサンダーは、気難しいと聞いていたが、ずいぶんと人懐っこそうだ。……4歳児が、偏屈な魔法使いのイメージそのものだったら、そちらの方が嫌か。幼子の父親には似せずに育てようと決意する。伯爵といい、アレキサンダーといい、フィンチの子らはまったく歳に見合わない物言いをする。


「今どきの子は早熟で賢いですねぇ。さっきも読書中だったのを邪魔したみたいだし、さすがは名門フィンチ、早期教育に力を入れている。私が4歳のときなんて、毎日倒れ込むほど剣を握らされていて、賢さの欠片もなかった」


「フィンチの家系は知的早熟なのが多いぞ。とくに魔法使いなら。それと4歳児をそんだけ扱く公爵家の方が相当アレだからな? 大丈夫か、ゼノン? その歳なんだから、世間さまとのズレは認識しとけよ? 何歳だっけ……お兄さんも今どきの子だろ」


「20歳です。貴方の15も歳上の男は、流石に今どきの子を名乗れませんよ」


アレキサンダーはいい性格をしているようだ。この子の執事か。選べる立場でもないが、面倒くさそうな予感がする。

会うまでは、適当に「僕くんの好きなものはなぁに?」なんて質問をしようと考えていたが、この様子だったら、子ども扱いは不要だろう。

砂糖漬けを平らげて、ご馳走さまと手を合わせている元気な幼児へと、出しぬけにセバスティアーノは問うた。


「アレキサンダー様、貴方が、魂を焦がして求めるものは何ですか?」


「魂……焦がす?? まだ、おれ、そこまでの魔法の境地には至れていないが……? 魂と肉体の分離に加えて、魂だけーー、」


何らかの魔法についての疑義だと考えているらしいが、そんなに大層なものではないし、4歳児に魔法についての解釈を聞かされたところで、セバスティアーノは何の反応もできない。


「魔法は今どうでもよくて、抽象的な話ですよ。貴方は人生の何に重きを置いていますか?」


セバスティアーノは、幼い少年が「もちろん魔法!」と口にすると踏んでいた。それだけ何かに執着できる熱意を持っているのなら、形だけだとしても仕えるに値する。ベッドダイブとか言われたら考え直すが。


落ち目にある伯爵家を返り咲かせるような、偉大な魔法使いとなるに違いない、だなんて、多くの者に才を期待されていることを、聡明そうなアレキサンダーは充分に理解しているはずだ。この子ならば、それを誇らしく思っていそうだとセバスティアーノは安易に考えていた。


アレキサンダーは、ふにゃりと笑って、出会ってから最も静かな声音をもって、セバスティアーノに迷いなく答えた。


「ーーみんなが、しあわせなこと。お兄さまが、ヨハンが、セシルが。そのためなら、おれは何でもする。おれはおれをすべて、みんなのしあわせのために使う。そのためにおれは魔法が使えるんだろう」


嬉しそうに、白い子は微笑った。


先ほどは自分から避けた握手を求めて、セバスティアーノは、仕えてやってもよいと判じた幼児に手を差し出した。まだ騎士の身分であったなら跪いたところだが、執事はたぶんこれくらいでいいだろう。正直、セバスティアーノはあまり執事に詳しくない。


「………… アレキサンダー様。改めて、このセバスティアーノ・ゼノンを、貴方の執事にしてくれませんか。役に立つ自信はありますよ。貴方の敵になる者、全員殺せます」


「だいぶ物騒だけど、イイよ! でも、セバスティアーノって長い……、なんか愛称で呼んでいい? セバス、セブ……違うなぁ……」


しっくりこなさそうに、幼児は唇を尖らせた。


「ーーバスティ、そう呼んでくれた人が一人だけいましたね」


姉を想い、セバスティアーノの頬が勝手に緩む。姉とこの子に血縁関係などないが、くるくると表情を変化させ、周りを引っかきまわすところが、少しだけ似ている。


「……おれも、バスティって呼んでいいの? 大切な呼び方なんだろ?」


「どうぞ、いかようにも」


さてと、セバスティアーノは微笑んだ。


「アレキサンダー様、私は採用ですか?」


「縁故だからな。もちろん〜!」


+


屋敷におけるアレキサンダーの立ち位置を知りたかったのもあり、案内を頼んでみると、幼子は何ひとつ気負った風もなく快諾した。最初に出会ったメイドに当主へ伝言を託す。『ーー弟君は預かりました』


「そういえば、その眼、眩しくはないのですか? お部屋は暗くされていたでしょう」


「ない! 魔法使いアイは色が薄いだけで、両目ともに3.0! 部屋が暗いのは、好みの問題かなぁ。おれはたぶんバスティの考えている以上に健全で頑丈だぞ。魔法使いだからなッ」


その魔法使いの詳細が把握できていないから生じている疑問だが、今のアレキサンダーには深く説明する気がなさそうだし、追々分かるかと、セバスティアーノも追及しなかった。


アレキサンダーの小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと邸宅を回っていく。途中すれ違った使用人たちは、小さな坊ちゃんの邪魔をしない程度に会釈をし、アレキサンダーも手を振り返すなどしていた。気やすげな雰囲気に違和感は見られない。ゼノンの公爵家で散々に蔑まれた、己たち姉弟たちのように疎まれる生活を送っているわけではないらしい。当主からして弟を大層に気にかけていたのだから当然か。


「さて。バスティ、おれがお前を直々に案内してるのには深い理由がある。最初のミッションだぞ」


「へえ。どのようなものかお聞きしても?」


「おれの隣に初顔の新人が立っていたら、マーサもそこまで強く出てこられない……といいなぁ、……みたいな……」


真剣な表情をアレキサンダーはした。ゴクンと唾を飲み、戦いに赴く戦士のごとく覚悟を決めた顔つきを作る。


「マーサ殿は厳しい方なんですか?」


アレキサンダーは首を振った。この家には自分に厳しくする人は一人もいないだなんてのたまうから、セバスティアーノは内心で呆れた。いいのか、これでフィンチは……。


「マーサは、すっごく綺麗で、……とても優しいお姉さんだよ。睨めっこの大天才で…………おれも睨めっこの天才ではあるんだが、マーサには敵わない。ちょっとおれがやらかすと、じーっと見つめてくる。哀しそうな顔で、じーっと。すると、おれの良心は瀕死になる…………あっ」


ふにょふにょと、アレキサンダーは目尻を下げて、セバスティアーノの後ろに隠れた。前方に、件のメイドを発見してしまったからだ。2人が気付いたのと同様に、彼女も小さな悪戯小僧を発見した。


「ーーあら、とっても可愛い子が、素敵な紳士の後ろに隠れていらっしゃいますわ」


薄い茶髪のメイドが、2人に声をかけた。セバスティアーノより少し上の20代半ばくらいだろうか、制服のデザインが先ほど会った者たちと異なっているし、歳若いのに役職持ちのようだ。


「はじめまして。ヨハン様とセシリア様の世話役を務めているマーサです。可愛らしい2歳の双子ちゃんです、また会いにいってあげてください。お話は伺いました。ゼノン様、アレク様をよろしくお願いしますね。……で。アレク様にご挨拶を申し上げます。マーサですよ」


マーサの登場に、アレキサンダーの表情筋は固まった。


「……………………マーサ、…………ちは…………」


「はい、アレク様、ご機嫌よう。さっそく睨めっこを致しましょうか?」


アレキサンダーはとても乗り気ではなさそうだったが、マーサが屈んで目線を合わせてくると、覚悟を決めたように拳を握った。まるで美少女のような容姿をしているのに、案外、漢気を持ち合わせているらしい。ーー勝敗はすぐに決し、アレキサンダーは負け、取り調べが始まった。


「私が怒っていることに、お心当たりは?」


「…………朝のアレ。よ、余罪は、……よっつ」


「アレク様。本当に、よっつだけですか?」


「…………なな……7つ目と8つ目はひとまとめにしても許されると思うので! ……余罪ぴったし10個!」


「もう一声!」


「ーー12個!! これ以上はどれだけ叩いてもビタ一文出てこない! ほんとだよ! おれ最近はそんなにやらかしてないもん! …………朝のは、びっくりさせてごめんな、マーサ」


子育てって難しそうだなと、セバスティアーノは不安になった。アレキサンダーは早熟なようだし、まあ、何とかなるかと気楽に構えていたが、小さい存在を教え導くのは当然のこと骨が折れそうだ。しかもここにはアレキサンダーを厳しく指導する大人が皆無。……セバスティアーノの役目になるのか……面倒くさい。


にらめっこから解放された幼児は、余罪については、また詳しく聞かせてもらいますと宣言されて、可愛らしく小さな口をへの字にさせている。その白い頭を、セバスティアーノはポンと撫でた。己がこれから仕える主人は、とんだ悪戯小僧らしい。


「ちなみに朝は何をなさったんですか?」


「朝、した訳ではない。朝に露呈したんだ。マーサのヘアブラシを、ドレッサーの引き出しに隠してたの忘れてて……」


「引き出しを開けたら、ヘアブラシが飛び出してくるから、思わず叫んでしまいました」


セバスティアーノは首を傾げた。悪戯とすらも呼べないような話にしか聞こえない。マーサがヘアブラシの位置に異常にこだわるメイドなわけがあるまいし。


「今、ヘアブラシはどんな様子……?」


「部屋中を飛び回り、襲ってくるんですもの。とりあえずタオルで縛って、ベッドの上に安置していますが、威嚇のようにチカチカ光って抵抗してくるの。アレク様、あの不気味な発光はいつまで続くのですか? 私の魔法の腕前では、とても解けなくて」


「おれの手にも負えなくなったから、とりあえずドレッサーに隠したの。ざっと残り42時間で魔法は解けるから待つしかない。不気味? マーサ、赤色が好きだろ……?? だから赤く光らせたんだけど……」


「…………待ってください、ヘアブラシが飛んで人を襲い、発光してるんですか? ーー魔法で? だとしたら何の意図があるんです??」


聞いただけだと、セバスティアーノには到底に信じられなかった。フィンチの先代当主らは、姉の葬式で楽しそうに花びらを降らせていたが。ーー魔法? ヘアブラシを飛ばすのが? アレキサンダーは膨れっ面をした。別に殺人ヘアブラシを作ろうとしたわけではない。


「全自動スタイリング、スーパーヘアブラシになる予定だった。……ちょっとミスりました。マーサ、前に、朝は時間ギリギリまで寝てたいタイプって言ってたから…………」


「アレク様。たとえ善意からだとしても、他人の所有物に勝手に魔法をかけるのは良くないとお分かりですよね?」


「驚かせたかったんだもん」


「驚きましたよ! 朝から叫びました!」


+


「この廊下沿いは使用人室。使用人宿舎は別館だけど、こっちでも何人か暮らしているんだ」


そこは何の変哲もない廊下だったが、ある一室の前だけが異様だった。ーーちか、……ちか、……ちか、……と、一定間隔で怪しく点滅しているのだ。扉の隙間から漏れ出る不気味な赤い光のためだった。どう考えてもここがマーサの部屋だ。この扉の先で、殺人ヘアブラシが拘束されているのだという。セバスティアーノは好奇心をうずかせた。


「あと41時間」


アレキサンダーは頷く。次はちゃんと綺麗だと褒めてもらえる発光にすると決意して。ヘアブラシが光る必要はまったくないが、それならば、光った方が格好よくてお得だとアレキサンダーは信じている。

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