2.
11月末──イタリア・ヴェネツィア。
観光名所のリアルト橋付近に建っている一軒の家。
主であるロッセーリは、50年以上もここで暮らしている。
仕事のない夜には娘夫婦と孫娘の住む別宅に帰るが、日中の大半はこの家で過ごしていた。ハリーのような依頼の請負人と会うのもいつもここだった。
「…ったくよお、仕事もねえのにいきなり呼び出しやがって。俺は忙しいんだ、とっとと話せよジーサン」
うんざりしたような言い方で相手を煽る、砂色の長髪の若い男。
部屋に入るなり、ソファにドカッと腰を下ろしたかと思うと相手を見据えた。
「相変わらずイライラしておるのう。ワシがお前を呼びつけることは珍しくはないじゃろう」
溜め息をつき、木製のロッキングチェアを揺らす80近い老人がしわがれた声で続ける。
「色々と事情が立て込んでおってな。急な呼び出しほど簡単な話ではないことはお前でも想像できようが、ハリー」
「事情だあ?そんなこたあわかんねえよ。俺は孤高の一匹狼だからよ」
チッと舌打ちし、ハリーと呼ばれた男が苦々しい顔で言った。
「裏の世界にも顔が利くあんたなら、どんなに面倒なことでも片づけられるだろ?」
「昔とは立場が違っておる。表だった動きは取れん」
「へえ…“ヴェネツィアの黒い貴族”と呼ばれた頃のようには…かい?」
からかうような口調で、口元を歪めて言うハリー。
かつてロッセーリは、高利貸しを営む者たちの中心人物だった。
現在はその商売から手を引いているが、長年築いた情報網は今も健在だ。各国の情報機関やエージェントに独自の繋がりを持ち、東側諸国にも情報源があるとされている。
気怠そうに頭を振り、ロッセーリはしわの深い顔をいっそうしかめてみせる。
「お前に情報を与えてやれるのはそういう後ろ盾があってこそじゃ。自在に動き回れん理由も分かっとろう、若造めが」
「へいへい」
ロッセーリにジロリと睨まれ、ハリーは頭が上がらないというように肩をすくめてみせた。
「とにかくだ、ここんとこ俺に依頼をさっぱり寄こさねえのは何故か──納得できるように、今日こそはきちっと説明してもらうぜ」
「では、そろそろ本題に入ろうかの」
ギッと音を立て、ロッキングチェアからゆっくりと立ち上がったロッセーリは壁際の本棚に近づいた。書類の詰まったファイルを取り出し、2枚の資料写真を抜き出してハリーに渡す。
「──!?」
ハリーは写真を見た瞬間、息を呑む。
のどかな農村風景を撮った写真。美しい景色、真っ赤な夕焼けの中、トナカイたちを誘導する男の姿が写っている。ハンチング帽を深く被っていて顔は見えないが、背格好や煙草を吸う姿がある人物を思い起こさせた。
もう1枚はその拡大写真だ。画質が荒く判別が難しいものの、すぐにハリーの口からある名前が飛び出した。
「…“バード”……?」
緊張した声で訊く。ロッセーリは伸びた顎髭を擦りながら頷く。
「“バード”…“吟遊詩人”。お前はその名で呼んでおったか。そしてお前はその男から“ホッパー”…“跳ねるもの”と呼ばれておった」
「なんだよ…今更そんな話──だってあいつは…」
呟きかけ、ふたたび写真に目を落とすハリー。ロッセーリはPCを操作し、画面に写真を表示させた。雑誌の表紙と目次が見てとれる。
「この紀行雑誌は昨年12月に発売されたものでな。写真を撮ったのは誰か見てみい」
「何…?」
ハリーは画面を凝視していたが、わかった瞬間に目を見開いた。
「なんてこった…」
雑誌の記事には、とても細かな字で確かに『Photographer : EMILE』と記されていた。
写真を切り替えながら、ロッセーリは話を続ける。
「撮影時期は去年の8月。目的は集落やオーロラの取材。ディレクターやルポライター、スタッフなどが同行した、かなり大がかりな取材旅行だったようじゃ」
ハリーに渡したものと同じ画像をPC画面に映し出す。
「去年の8月…って、1年以上も前かよ」
ハリーは唇を噛みしめ、厳しい顔つきになる。
「ジーサン…あんた、いつこの写真に気付いたんだ?」
「雑誌が発売されて少し経った頃…1月下旬にシニョーレ・ノワールに依頼されて、アラン・ファーディナンドの別荘を探るために北欧方面の資料整理をしていたんじゃ」
「…あの頃か」
眉間に皺を寄せたまま、ハリーは記憶を辿っている。
「…どうしてすぐに俺に言わなかった?」
「理由は二つある。第一に、お前はスカンジナビアやハイランドへ飛び回っていて、ヴェネツィアに戻れる状況ではなかった。第二に、確証が無かった。遠目で顔がわからなかったこともあるがの。何よりその男は死んだ扱い、もしくは消えた存在となっていた──」
バンッ!
その瞬間、ハリーが勢いよくテーブルを叩いた。ロッセーリをキッと睨み、声を上げる。
「テメエが見捨てたせいだろうが!…あの時、俺が頼んでも何もしなかったのは誰だ!?誰のせいであいつが死んだと思ってんだよ!」
怒りがおさまらない様子のハリー。ロッセーリを厳しい表情で睨み続ける。
「…俺はあの件で、あんたを見限ろうとしたんだ!部下が任務中に撃たれたってのに、救出はおろか調べもしないでそのまま終わっちまうなんて、まともな上層部じゃねえってな!」
ハリーの脳裏に、数年前の出来事がまざまざと甦ってくる。
それはハリーが23、4歳の頃の話だ。
今のように依頼を受けて単独で動くのではなく、ロッセーリの元でエージェントとして各国で任務をこなしていた。
シカゴに飛び、ロッセーリに依頼されて非合法の諜報活動に協力していたのは、過去に“バード”と呼ばれていた男だった。当時はスティンガーと名乗らされていた。
ハリーはシカゴ行きに同行したものの、別の地域での任務を請け負っていた。
スティンガーもハリーも、特段危険な任務ではないと思っていた。だから別れる時も、いつものように何気なく拳を軽く合わせながら、
『死ぬなよ、親友』
と冗談めかした言葉を交わしていた。
だが、スティンガーの任務は秘密裏に行われていたにも関わらず、シカゴのギャングに情報が漏れていた。
さらに運が悪いことに別のギャングとの抗争にも巻き込まれてしまったのである。
抗争に混乱が生じ、スティンガーは撃たれてその場に取り残された。
直後にハリーがそれを知り、助けに向かおうとしたがロッセーリに止められてしまう。ロッセーリはスティンガーを“見捨て”、結果的に彼を切り捨てる形で任務は中止となった。
エージェントの生死を確認しようともせずにいたロッセーリをハリーは何度も問い詰め、スティンガーの救出を求めたが答えは変わらなかった。
『ヤツは死んだ。死体はシカゴのギャングがどうにかするだろう』
冷ややかな声で言うロッセーリに対し、ハリーは愕然となった。
──俺たちは、いったい“何”だ!?
──結局はあんたの手駒のひとつに過ぎねえのかよ!?
ハリーには、ロッセーリがたかが一人のエージェントの死など気にも留めていないように思えた。
機関の長としての対応はそれが当然なのかもしれない。だがそれを真っ向から理解するには、ハリーはまだ若すぎた。
──俺は部下の命を軽んじるようなヤツの下で働くのはゴメンだぜ!ああ、やめてやるさ!金輪際、あんたの指示は受けねえよ!!




