3.
ハリーはエージェントとして働くことを辞め、しばらくはヴェネツィアを離れて個人で依頼を受けていた。
再びロッセーリの元を訪れたのは28歳の頃だ。
以来、ハリーはヴェネツィアに留まることが増えていき、30歳になった頃には定住地として住み着くこととなる。
だからといって、スティンガーを切り捨てたロッセーリを許したわけではなかった。単独で依頼だけを請け負う形にしても、少しのわだかまりは残った。
ただ、エージェントとして働くよりは気楽と言えた。
ロッセーリの手駒として動くより、単独の方が金も多めに入ってくる。そう割り切ってのことだった。
「……だが、あんたが冷酷なだけの人間じゃねえってことを後から知った」
少しの間を置き、ハリーが独り言のように呟く。
「あんたは死んだエージェントたちの墓をサン・ミケーレ島に作ってやってた。しかも、一人一人の命日には必ず墓参りをしていた……それを知ったから、俺はここに戻ったんだ」
ハリーはうつむき加減で、悔しそうな表情のまま言う。
「スティンガーの墓も作ってくれていたのを知って…言うほど悪人じゃねえんだなって…な。ハハ……俺も甘いよな」
長い髪をかき上げながら、ため息をついた。
ややあって顔を上げて、ロッセーリをぐっと見据えた。その目に先ほどまでの激しい怒りの色は無かった。
「俺にこの写真を見せたってことは、ある程度の目星がついてるってこったろ?続きを聞かせろよ、ジーサン」
「……」
ロッセーリは黙って聞いていたが、しばしの後でハリーの顔を見つめて話し始めた。
「ワシも確証を得たわけではない。ただ、CIAの幹部に旧知の人物がおってな…機密資料の再整理が行われた。その報告がまとまり、お前に話せる時期がきたと思ったんじゃよ」
ロッキングチェアに歩み寄り、彼は深く腰を下ろした。ゆっくりと揺らしながら、思い起こすように話し出す。
「それまで実権を握っていたのはドロシー・エイムズ、通称“ドール”と呼ばれていた女でな…ワシとは言ってみれば因縁の関係、長らく敵対する勢力同士じゃ」
顎髭を擦り、ロッセーリは眉間に皺を寄せる。
「ワシは独自に調べていくうちに、撃たれたスティンガーを“ドール”が助けていたことを突き止めた。だが、交渉以前にこちらの命を狙ってくるような女だ。スティンガーを返せと言ったところで素直に聞くタマではない。結局、今年に入って“ドール”が失脚し、旧知の幹部が実権を握るまでワシは動けずにいた」
「…CIAがスティンガーを助けていたって?まさか…」
ハリーは怪訝な顔つきになる。
ロッセーリは頷き、
「その“まさか”じゃ。“ドール”は裏でシチリアン・マフィアのひとつであるコーサ・ノストラと繋がっておった。シカゴでギャングを吸収し、勢力を拡げていた“ファミリー”、それがワシらの諜報活動を阻んだ黒幕だった」
「……」
「情報によると、スティンガーは“ドール”に助けられた後、保護下に置かれた。単にこちらの情報を引き出すためにさらわれたのかと思っていたが、どうも違うようじゃ」
「なんだと…?どういうことだ?」
ロッセーリは一呼吸おき、話を続けた。
「スティンガーは名前や身分を変え、各地を転々と逃亡しながらの生活を送っていたようなんじゃ。ワシはようやく“スティンガーが生きている可能性”を掴んだ」
指を組み、チェアの揺れに身を任すロッセーリ。
「…ただ、“可能性がある”だけで“確信はない”。単に死亡確認がされていないだけで、その後の足取りも不明。ワシはCIAの協力を得つつ、調査を続けた。するとスティンガーの最新の痕跡が北極圏にあると出てきた。それで、お前に“北に気を留めておけ”と伝えたわけじゃ」
「……“北”ってのはそういう意味だったのか」
それは10月のエミールの合同展示会の直前、ヴェネツィアから発とうとしたハリーがロッセーリから聞かされた言葉だった。
何のことかまったくわからなかったが、展示会でエミールから次の仕事が北極圏だと聞かされた際に引っかかりを覚え、
『なあ、俺も行っていいか?』
と訊いてみたのだ。
自身の勘がそこそこ当たっていたことで、ハリーは口を歪ませて少し笑う。
「いやにタイミングがいいと思ったぜ。あんた、まさかエミールを“騙す”ような真似はしてねえだろうな?」
「……」
ロッセーリは無言だったが、片方の眉がピクリと上がったのをハリーは見逃さなかった。
「あいつは普段は穏やかだが、いったん火が点くとどうなるか俺もまだ知らねえ。利用するのも大概にしておくんだな」
「ワシに警告するようになるとはな。お前も優しくなったもんじゃ」
鼻先で笑うロッセーリ。
「ワシはテレビ局のディレクターに、腕の良いカメラマンを紹介しただけじゃぞ」
「やっぱりな……あんたのやり方は気に食わねえが、俺も口裏合わせといてやるよ」
ハリーがそう言うと、ロッセーリは黙ってしまった。
やがて目を伏せ、重々しい口調で言った。
「…ワシは正しい選択をしたとは思っていない。ただ、何もしないよりはマシだと思ったから動いただけじゃ」
だいぶ昔の事件を、今頃になって再調査し始めたのも。
結果的にエミールを巻き込んで、“仕事”と称して北の村を再訪させるのも。
そして──と、男の写真を指さす。
「仮にスティンガーだったとしても、本人はお前を避ける可能性もある。CIA絡みの逃亡生活の最中に誰かが捜しにきたと知れば…自分を狙いに来たのかと勘違いするかもしれん。それがかつての親友だったとしても、だ。こやつの中では、お前はまだ“ヴェネツィア”のエージェント扱いじゃからな」
「……」
「だからお前に“行け”とは言わん。スティンガーと敵対し、辛い思いをするかもしれん所へ行かせるのは、ワシも気が向かん」
そう言い、ロッセーリは琥珀色の瞳でジロリと見る。
まるで、お前が自分で選択しろと言わんばかりの言い方だった。
ハリーは肩をすくめ、ややあってニヤリと笑う。
「行く理由はもう揃ってるじゃねえか」
写真をテーブルに戻し、そう言った。
「腹は決まったぜ。任務でも依頼でもねえ、俺が自分で決めた“案件”だ。自分の目で確かめるために行く…それだけだ」
「……後悔するかもしれんぞ?」
「ジーサン、そんな気持ち悪い気遣いはあんたらしくねえよ。俺はもう二度と後悔したくねえ。だからこそ行くのさ」
スティンガーが撃たれ、彼を見捨ててしまった後悔…
そんなことはもう二度と繰り返したくない。
親友エミールを騙しても、もう1人の親友スティンガーが生きているかを確かめたかった。
ハリーは写真をもう一度取り上げる。2枚の写真を目に焼き付けるかのようにじっくりと確認し、拡大されている写真だけをジャケットの内ポケットに無雑作に突っ込む。
「CIAからの情報が入ったら連絡くれよ。俺は近場で簡単な依頼を受けることにしとくぜ。“いつでも動けるように”──な?」
ハリーはそれだけ言うと立ち上がり、振り向かずに部屋を出ていった。
(…さて、どこから攻めるか、だ)
エミールの話で大まかな撮影日程を聞いてはいたが、出発までは少なくとも半月ほど時間がある。
その間に自分でもできるかぎりのことをしておかなければ。
そう思い、ハリーはふと歩みを止めた。
(待てよ。それならあいつらを誘うってのは、逆にまずいんじゃねえか?)
ふいに井沢の顔が脳裏に浮かび、ハリーは眉をひそめる。
自分は“理解して行く”が、井沢やノワールは単にエミールの撮影旅行に誘われたと思うはずだ。
つまりエミール同様“何も知らない”人間を巻き込むことになる。
(……)
躊躇いを見せ、ハリーはチッと舌打ちしてまた歩き出した。
──スティンガーと敵対する可能性も…
ロッセーリの言葉が耳から離れていかない。
確かに…スティンガーから見れば、ハリーや“ヴェネツィア”は自分を見捨てた側だろう。
完全な敵対関係ではないにしろ、長く放置していたくせに今頃のこのこと現れたらスティンガーもいい気はしないはず……
もし自分だったら、とハリーは立場を置き換えて考えた。
だが、だからこそ井沢のような人間が傍にいれば不審がられずにすむかもしれない。
(……仕方ねえ。ここはあいつの純粋さを利用させてもらうとするかね。まずは悪意のないヤツらだと思わせる必要がある)
肩をすくめ、知り尽くした裏通りに建つ一軒のバーの前に立つ。
16時半を過ぎていた。今頃は夜の開店準備に忙しいことだろう。
ギッ…と軋む古いドアを開けると、カウンターの中から50代前半と見られるマスターが顔を出した。
ハリーを見るやいなや、ああ?と言いたげな表情に変わる。
「こっちに来てたのか、ハリー。今度は何だ?変なトラブルはごめんだぞ」
それを聞き、ハリーは後ろ手にドアを閉める。ニヤリと笑いかけ、
「まあそう言うなよ、マッテオ。ちょっと時間が空いちまってな。店を手伝うからメシ食わせろ」
「…食わせるのはいいが、手伝いはいらん。恩返しする立場の俺が、お前をこき使えるワケがないだろ」
目尻に皺が目立つ顔でマッテオは笑った。ハリーもハハッと笑う。
「この店オープンしたの、何年前だと思ってんだよ」
マッテオが店を開いた時、料理好きのハリーは味付けやメニュー作りを手伝っていた。
「恩を売ったつもりはねえし、そんなにみみっちい考えは持ってねえよ。俺はそんなに小さい器じゃねえつもりだ」
ハリーはカウンター席に座り込む。ややあって口を歪ませ、自嘲気味に笑って言った。
「利用できる者は何でも利用し、平気で友人を騙すようなクソ野郎だがな」




