第8話「夜更かしの理由」
真夜中のヴァルモンド公爵邸。
時計の針が12を回った頃、私はリゼットの部屋のカーペットの上で薄目を開けていた。
書き物机の上で、リゼットがまだ起きている。
羽根ペンが紙の上を走る音がさらさらと響く。インクの匂いが部屋に薄く漂って、ランプの灯りがリゼットの横顔をオレンジ色に染めている。
これで4日連続だ。
最初の夜は「ちょっと手紙を書くだけ」と言っていた。2日目は「すぐ終わるから」。そして今夜は何も言わず、夕食後にそのまま机に向かっている。
山と積まれた書類の束。領地の地図。収支報告書らしきもの。17歳の少女の机に載るべきものじゃない。
私はゆっくり立ち上がって、机の脚に身体を擦りつけた。
「あら、ミーシャ。起こしちゃった?」
リゼットが手を止めて私を見下ろす。目の下にうっすら影が出来ている。昨日はなかったその影が、4日分の睡眠不足を物語っていた。
にゃあ。
「もう少しだから。先に寝ていて」
先に寝ていて、とこの子は言う。でも「もう少し」が何時間になるのか、もう私は知っている。
机に飛び乗った。書類の端に前足を置いて、ペン先の動きを追う。
——読める。
猫の目でも、この世界の文字は読めてしまう。文字が読めると気づいたあの日以来、私はこの能力を隠している。文字を凝視しすぎないように。でも今夜は、少しだけ。
「南部領の灌漑計画」「小麦の収穫予測」「橋の修繕費用」。
これ、領地経営の実務書類だ。公爵令嬢が自分でやるようなものじゃない。普通は執事や管理官の仕事でしょう。
「お父様がお忙しいの。兄様も王都の仕事があるし」
リゼットが独り言のように呟く。猫に説明するつもりはないのだろう。ただ、声に出さないとやっていられないだけ。
「領民の暮らしに関わることだから、手は抜けないわ」
ペンが止まる。リゼットが数字を指でなぞり、眉をひそめ、別の書類と見比べて——ため息をつく。
「……合わない。どこかで計算が」
合わない数字を前に頭を抱えるリゼットを見て、私の中で何かが軋んだ。
この子のことを、私は誤解していたのかもしれない。
悪役令嬢。氷の薔薇。学園では完璧な仮面をかぶり、部屋では猫に愚痴を言う。そのギャップが面白いと思っていた。猫転生のコメディだと思っていた。
でもリゼットは——こうして毎晩、誰にも見せない場所で、領民のために数字と格闘しているのだ。
仮面の裏にあったのは弱さだけじゃない。責任感だ。
「ミーシャ? どうしたの、じっと見て」
リゼットが首を傾げる。私はその手に頭を押しつけた。言葉が使えないなら、体温で伝えるしかない。
頑張ってるね。ちゃんと見てるよ。
「ふふ、甘えん坊ね」
違う。甘えてるんじゃなくて——まあいい。伝わらなくても、ここにいる意味はある。
◆
結局、リゼットが書類を片づけたのは深夜2時を過ぎた頃だった。
ベッドに倒れ込むように横たわり、私を引き寄せて腕の中に閉じ込める。ラベンダーの香りにインクの匂いが混じっている。
「ねえ、ミーシャ」
眠たそうな声。もう半分夢の中にいるような。
「もし猫にも前世があるなら——ミーシャはきっと頑張り屋さんね」
心臓が跳ねた。
猫の心臓は人間より速く動くから、リゼットの腕の中でどくどくと脈打っているのが伝わっていないか不安になる。
「だってあなた、いつも私のそばにいてくれるでしょう。疲れてても、眠くても」
それは——うん、まあ、確かに。OL時代から残業体質だったし。
「前世の記憶があったら面白いのにね。『にゃあ』じゃなくて、お話しできたら——」
リゼットの声がそこで途切れた。寝息が聞こえ始める。
暗い部屋の中で、私だけが起きている。
前世の記憶、あるよ。お話もしたい。計算が合わない書類、たぶん私なら見つけられる。南部領の灌漑計画の数字、さっきチラッと見えた範囲だと第三区画の面積が転記ミスしてた。
でもそれを伝える手段がない。
この口は「にゃあ」しか言えない。この手は書類のページをめくれない。
——いや。本当にそうだろうか。
手紙を首に結ばれた時、私は思った。いつかこの行為に意味が出るかもしれない、と。
猫にできることは、人間が思うより多いかもしれない。少なくとも、この子の隣で夜更かしに付き合うことはできる。
リゼットの寝息を聞きながら、窓の外で夜が白み始めるまで——私は起きていた。
猫なのに。夜行性じゃない方の猫なのに。
……いや、それ普通に日中寝てるからだよね。午前中の日向ぼっこが効いてるだけじゃん。
反省。




