第7話「王子、猫を睨む」
学園の応接室で、私は猫に生まれ変わって以来、はじめて殺気を感じている。
殺気の出どころは、目の前のソファに座る銀髪碧眼の青年。第一王子クロード・ルクレール。リゼットの婚約者にして、この国の次期国王候補。
その整った顔が、こちらを真っ直ぐに睨んでいる。
……え? 何? 私なんかした?
「殿下、本日はお時間をいただきありがとうございます」
リゼットが完璧な角度でお辞儀をする。声のトーンが部屋の外用——氷の薔薇モード全開。背筋がぴんと伸びて、笑顔は微笑というより仮面に近い。
「ああ」
王子の返答、一文字。
リゼットの指先がかすかに震えるのを、膝の上にいる私は見逃さなかった。この距離じゃないと気づけない、ほんの微かな揺れ。
しかし今はリゼットの心配より先に、王子の視線をどうにかしたい。碧い目が明確に私をロックオンしている。表情は——怒り? 嫌悪? いや、なんだろう、もうちょっと複雑な何か。
猫アレルギーか?
「……その猫は」
王子が口を開く。
「ミーシャでございます。私の飼い猫です」
「学園に猫を連れてくるのか」
「お許しをいただいております。学園長から特別に」
リゼットの声に硬さが混じる。王子の眉間にしわが寄る。しわの対象は間違いなく私。
何なの。猫に恨みでもあるの?
前世で猫に引っかかれたトラウマとか? 猫アレルギーで目が痒いとか? それとも単純に動物が嫌い?
「……ふん」
王子が視線を逸らした。窓の外を見る横顔は確かに端正だけれど、その端正さに温度がない。氷の王子と氷の薔薇。この婚約、お互い凍結状態じゃないか。
リゼットが話を続ける。領地の境界線についての報告、次の社交パーティーの段取り。王子はぽつぽつと短く答えるだけ。「ああ」「そうか」「任せる」。
会話が事務連絡にしか聞こえない。婚約者同士のはずなのに、部長への業務報告より温度が低い。
そして——リゼットがミーシャの頭を撫でた瞬間、王子の視線がまた鋭くなる。
あ、今また睨まれた。
リゼットの指が私の耳を掻くたびに、王子の眉が微妙に動く。顎が引き締まる。唇が薄く結ばれる。
ん?
これ、もしかして——
いや、まさかね。猫に嫉妬するなんて、そんな馬鹿な話があるわけない。第一王子が猫にやきもち。ラノベでもボツになるでしょ、その設定。
「殿下、ミーシャが気になりますか? もしご不快でしたら——」
「別に。不快ではない」
不快ではない、と言いながら目が怖い。不快じゃないなら何なの、その表情。
リゼットがミーシャを膝から下ろそうとする。私は咄嗟にリゼットのスカートの裾に前足を引っ掛けた。下ろさないで。この状況、近くで観察したい。
「あら、ミーシャ。離れたくないの」
リゼットの声が一瞬だけ柔らかくなる。氷の仮面に亀裂が入って、猫に甘い素の声が漏れる。
王子の目が、その瞬間を捉えていた。
あ、今の、見てた。リゼットの素が一瞬出たの、見てた。
そして王子は——ほんの一瞬、ほんの刹那——何とも言えない顔をした。怒りとか嫌悪じゃない。もっと——なんていうか——
でもそれは本当に一瞬で、すぐに無表情の壁が下りる。
「報告は以上か」
「はい、殿下」
「では下がれ」
リゼットが立ち上がり、一礼する。私を抱えたまま部屋を出る直前、振り返らずに小さく息を吐くのが聞こえた。
◆
「もう嫌。どうしてあんなに冷たいの」
自室に戻った瞬間、リゼットは私を抱きしめて顔を埋めた。私の毛にぬるい水滴が染みる。涙だ。
「ミーシャは私のこと嫌いにならないでね」
にゃあ。
ならないよ。ならないけど——王子のあの表情、私には「嫌い」の顔に見えなかった。
もちろん確証はない。猫の直感なんて当てにならないし、前世でも人の感情を読むのは苦手だった。職場で「佐藤さんって鈍感だよね」って何回言われたか。
でもあの一瞬。
リゼットの素の声が漏れた時、王子が見せたあの表情。あれが嫌悪なら、人間の感情というものを根本から勉強し直さないといけない。
「ねえミーシャ、王子殿下は猫が嫌いなのかしら。あなたのこと、ずっと睨んでいたでしょう」
リゼットが私の目を覗き込んでくる。翠色の瞳が涙で潤んでいる。
違うと思う。たぶん、おそらく、きっと。
でも「にゃあ」じゃ伝わらない。
この口がもどかしい。人語が話せたら「あの人、猫が嫌いなんじゃなくてあなたが猫にだけ甘い顔するのが気に食わないんじゃない?」って言えるのに。
……って、それ嫉妬じゃん。
いやいやいや。安易な解釈はやめよう。情報が足りない。もっと観察が必要。
「はあ。猫にも嫌われるなんて、私って本当に——」
「にゃあ!」
強めに鳴いて、リゼットの手に頭を押しつける。違う、あなたは嫌われてない。少なくとも猫からは全力で好かれてる。
リゼットが少しだけ笑った。
「ありがとう、ミーシャ。あなたがいてくれるから、まだ頑張れるわ」
肩の力が抜けたリゼットの指が、私の背中をゆっくり撫でる。
——王子の真意は、まだわからない。
でも一つだけ確かなことがある。あの王子、次に会った時もきっと私を睨む。そしてリゼットはまたそれを「猫嫌い」と勘違いする。
このすれ違い、猫の私がなんとかしないといけないやつだ。
四本足で。「にゃあ」だけで。
……OL時代の上司と取引先の板挟みより難易度高くない?




