第6話「日向ぼっこの敗北」
窓辺に四角い光が落ちている。
朝のヴァルモンド公爵邸、リゼットの私室。淡い金色の光がカーペットの上に広がって、もうその時点で私の負けは半分決まっていた。
いや、まだだ。まだ理性がある。
私はミーシャ。前世は社畜OL佐藤美咲。今は白猫。猫になって数週間が経ち、だいぶこの身体にも慣れてきたけれど、ひとつだけ抗えないものがある。
日向ぼっこだ。
光の四角形が私を呼んでいる。ぬるい温度が、肉球の先からじわりと伝わってくる。やめろ、私には今日も任務がある。リゼットの行動を観察し、破滅フラグの気配を探り、この世界が本当に乙女ゲームなのか確かめなければ——
前足が、光の中に入っていた。
あれ? いつ動いた?
もう片方の前足も続く。後ろ足もするりと光の領域に吸い込まれて、気がつけば私は窓辺の光の四角にすっぽり収まっている。背中にぬくもりが広がり、目蓋がとろんと下がり始める。
……だめだ。
だめだって。OL時代の私なら、こんな——朝の貴重な時間を——
あったかい。
身体の力が、ゆるんでいく。カーペットの毛足が頬に触れて、ほわほわしている。窓の外で小鳥が鳴いている。遠くで使用人が廊下を歩く靴音。それすらも子守唄に聞こえて——
任務は……あとで……
ぐう。
◆
「ミーシャ、起きて」
リゼットの声で飛び起きると、窓辺の光の四角はとっくに部屋の反対側に移動していた。
何時間寝た? いや体感で2時間は確実に溶けている。社畜だった私の時間管理能力、猫になった途端ゼロになったの?
「お昼よ、ミーシャ。あなた朝からずっとそこで丸くなっていたわね」
リゼットが優しく笑いながら私を抱き上げる。ラベンダーの香りがふわりと鼻をくすぐった。今日は薄紫のドレスに真珠の耳飾り。外出用の完璧な「氷の薔薇」スタイルだ。
「午後から学園よ。一緒に行きましょう」
にゃあ。
いや行くのはいいけど、午前中まるごと日向ぼっこで消えたのは痛い。あの時間でリゼットの書斎をもう少し調べられたのに。
リゼットが不意に立ち止まり、引き出しから細い紙片を取り出す。
「ねえミーシャ、ちょっとじっとしてて」
何をするかと思えば——首のリボンに小さな手紙を結びつけ始めた。
「こうすると伝書猫みたいでしょう? ふふ、ナタリーに『猫便が届きました』って渡してきて」
紙片の角が顎の下でくすぐったい。前世なら社内メールで済む用件を、猫に結びつけるとは。いや、この世界にメールはないけれど。
「はい、完成。かわいい」
リゼットが満足そうに微笑む。この人、猫に手紙を結ぶ遊びが楽しくて仕方ないらしい。
しかし——伝書猫か。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、首元の紙片の重みを妙に意識してしまう。手紙を運ぶ。その行為が、いつか本当に意味を持つ日が来るかもしれない。
……なんて、猫の勘が囁いている。前世の勘じゃなくて、猫の。
◆
午後、学園の廊下を歩くリゼットの腕の中で、私は衝撃の光景を目にすることになる。
ナタリーが中庭の隅で、棒の先に羽飾りをつけた何かを振っている。
「ミーシャー、こっちよー」
猫じゃらしだ。
この世界にも猫じゃらしがあるのか。いや正確には「猫じゃらし」という概念をナタリーが独自に発明したのかもしれない。羽根つきの棒が左右に揺れる。
揺れている。
私の視線が、意思とは無関係に羽根を追い始める。左、右、左。肩が動く。尻尾が膨らむ。後ろ足に力が溜まっていく。
やめろ。
やめろ、佐藤美咲。お前は28歳だ。こんな羽根つきの棒ごときに——
飛んだ。
全力で飛びついて、羽根を両前足で挟み込み、ごろんと転がって後ろ足でけりけりしている自分に気づいた時にはもう遅い。
「きゃあ、かわいい! リゼットさま見てください、ミーシャがすごい勢いで!」
「ふふ、ミーシャったら」
リゼットが口元を手で隠して笑う。氷の薔薇の仮面が一瞬外れて、年相応の少女の顔が覗いている。
恥ずかしい。
猫として恥ずかしいんじゃなくて、28歳の元OLとして恥ずかしい。会議中に居眠りした時よりも、部長の名前を間違えた時よりも。
でも——前足の間で潰れた羽根の感触が、妙に心地よくて離せない。
「あら、まだ離さないの。よほど気に入ったのね」
ナタリーが観察するような目で私を見下ろしている。この侍女の視線、ときどき鋭すぎる。猫の動きに人間的な何かを感じ取っているような——
にゃあ。
とりあえず鳴いておく。何も考えていない猫の顔で。
◆
夜。リゼットの膝の上で、今日の敗北を振り返っていた。
日向ぼっこに午前中を奪われ、猫じゃらしに全力で飛びついた。情報収集ゼロ。OL時代なら始末書もの。
「今日も疲れたわ。王子殿下ったら、また目も合わせてくれなかったの」
リゼットの愚痴が始まる。指が私の耳の後ろをゆっくり撫でている。
「でもね、ミーシャが猫じゃらしで遊んでるの見たら、ちょっと元気出たわ」
それは嬉しいけど、複雑。
「明日はナタリーに新しいおもちゃを作ってもらおうかしら。鈴つきのやつ」
鈴つき。
それは——正直、ちょっと気になる。鈴の音って猫的にはかなり——
いやいや。
明日こそ、任務に集中する。日向ぼっこにも猫じゃらしにも負けない。元社畜の意地を見せてやる。
……でも朝の日差しがあったかかったら、ちょっとだけ。ちょっとだけなら。
リゼットの膝から、首元にまだ結ばれたままの小さな手紙がぶら下がっている。結局ナタリーに届けるのを忘れていたことに、この時の私はまだ気づいていなかった。




