第5話「ヒロイン、接近中」
学園に猫を持ち込む悪役令嬢。翌日にはもう噂になっていた。
「ヴァルモンド公爵令嬢が白猫を連れ歩いているらしいわ」
「さすが氷の薔薇、規則なんて眼中にないのね」
リゼットは噂を気にする素振りもなく、堂々と私を連れて登校している。かごの中から漏れ聞こえるひそひそ声を、猫耳はしっかり拾ってしまう。元OLとしては「職場の噂」に敏感にならざるを得ない。
昼休み。中庭のベンチでリゼットが私に魚をほぐしてくれている、いつもの光景。バラの生垣の向こうから、蝶が一匹ひらひらと飛んでくる。
猫の目が追う。追ってしまう。
駄目だ、今は食事中。報連相を——いや食事に報連相は関係ない。とにかく蝶を追うな。追うなと言っているのに体が。
ぴょん。
魚を放置して蝶に飛びかかる猫。前足で空を叩く。届かない。子猫のジャンプ力では蝶に追いつけるわけもなく、着地に失敗して芝生にべしゃっと転がる。
「もう、ミーシャったら」
リゼットが微かに笑う。その笑顔を見て、まあいいか、と思ってしまう自分がいる。猫の本能に負けた言い訳としては上等だろう。
蝶を諦めて魚に戻ろうとしたとき。
「きゃああ、猫ちゃん!」
高い声が飛んできた。バラの生垣の角から、金色の髪をした少女が駆けてくる。
走り方が独特。スカートの裾を気にせず、でも転ばない。天然の運動神経。瞳は蜂蜜色で、きらきら光っている。見た瞬間に分かった。
リリアーナ・フォレスト。男爵令嬢。乙女ゲームのヒロイン。
「白猫! しかも片耳グレー! 可愛い可愛い可愛い!」
突進してくる。猫に向かって一直線に。リゼットの存在を完全に無視して。
「ちょ、ちょっとあなた」
リゼットが慌てる。氷の薔薇モードが一瞬揺らぐ。公爵令嬢の横を素通りして猫に直行する人間に、対応マニュアルがないらしい。
「触っていいですか! いいですよね!」
聞いてから答えを待たないタイプ。
リリアーナの手が伸びてくる。温かい。体温が高い人だ。指先が私の顎の下に入り、くすぐるように動く。
気持ちいい。
猫の体が裏切る。ごろごろごろ。喉が全力で鳴り始める。止めたいのに止まらない。リリアーナの指が上手すぎる。ツボを知っている。動物好きのスキルが完全にカンストしている。
「この子、すっごく人懐っこいですね! お名前は?」
リリアーナが顔を上げて、初めてリゼットを見る。
「リゼット先輩! この子、先輩の猫ちゃんですか?」
「……ミーシャよ」
「ミーシャちゃん! ミーシャちゃんかぁ。ぴったりのお名前」
にこにこ。曇りなし。100パーセントの善意。
ここで重要な観察結果を記録しておく。元OLの目は伊達じゃない。
リリアーナの目にあるのは、猫への愛情と、リゼットへの——敵意じゃない。何だろう、これ。憧れ、に近い。
「リゼット先輩って、いつも素敵ですよね。遠くからずっと見てたんです」
「は?」
リゼットが硬直する。悪役令嬢に「素敵」と言い放つヒロイン。ゲームの脚本にこんなシーンがあったかどうか、途中までしか遊んでいない私には分からない。
「あの、よかったら、たまにミーシャちゃんを撫でさせてもらえませんか?」
「別に……勝手にしなさい」
リゼットの声はいつも通り冷たいが、拒絶ではない。戸惑い。予想外の接触に対する処理落ち。
リリアーナがまた私を撫でる。耳の後ろ。ここも上手い。
「ミーシャちゃんって、なんだかお利口さんですよね。目がじっとこっちを見てて、話を聞いてるみたい」
聞いてるよ。めちゃくちゃ聞いてるよ。
「猫が話を聞くわけないでしょう」
リゼットが言い、でも私と目が合う。一瞬。「聞いてるわよね?」という顔をしている。気づいているのか、いないのか。
「リゼット先輩、お昼一緒に食べてもいいですか?」
「……今日はもう終わりよ。行くわ、ミーシャ」
私を抱き上げ、足早に立ち去るリゼット。リリアーナが後ろから手を振っている。
「また来ます! ミーシャちゃん、ばいばーい!」
かごに入れられた猫の中で、元OLの脳がフル回転する。
乙女ゲームのヒロイン。天然。悪意なし。動物好き。リゼットを「素敵な先輩」として慕っている。
ゲームでは、このヒロインが攻略対象の王子と結ばれ、悪役令嬢のリゼットは婚約破棄される。でも目の前のリリアーナに、リゼットを陥れる意図は見えない。むしろ純粋に仲良くなりたがっている。
このゲーム、思ったより単純じゃないかもしれない。
帰りの馬車で、リゼットが呟く。
「あの子、変わってるわね」
変わっているのはお互い様だろう。猫を学園に連れてくる公爵令嬢と、その猫に一直線に突進するヒロイン。
「にゃあ」
「……嫌な子じゃないけど。近づかれると困るのよ」
リゼットが窓の外を見る。夕焼けが馬車の中にオレンジ色の影を落とし、リゼットの横顔を染めている。
困る理由。それはたぶん、リリアーナがクロード王子に近づく存在だから。自分の婚約者を奪うかもしれない相手。でもリゼットの声には怒りがない。あるのは——不安だ。
ゲーム通りに進めば、この不安は現実になる。
でも。
私はゲームのプレイヤーじゃない。猫だ。四本足で、にゃあしか言えない猫。
それでも。
「にゃあ」
リゼットの膝に頭を押しつける。猫にできる精一杯の「大丈夫」。
「……あんたに慰められてる時点で、終わってるわよね」
リゼットが苦笑して、私の頭を撫でる。
終わってない。始まってもいない。リゼットの戦いは、まだ全然始まったばかりだ。
――問題は、猫の私にできることが「にゃあ」と「もふもふされる」と「蝶に飛びかかって転がる」くらいしかないことなんだけど。
まあ、それはおいおい考えよう。今は肉球しか武器がないけど。




