第44話「二世代目の膝」
婚約披露の夜会は、王宮の大広間で開かれた。
シャンデリアの灯りが磨かれた床に落ちて、広間全体が光の池みたいになっている。楽団の音、衣擦れ、グラスの触れ合う音。豪華絢爛、欠席者なし。つまり、敵も全員出席である。
私は広間の端、ナタリーの腕の中にいた。王妃検分済みの「公認の猫」として、隅での見学を許されたのだ。本日の業務は祈ること。それから、何があっても飛び出さないこと。
リゼットは、美しかった。
ヴァルモンド家の深紅のドレスで、クロードの隣に立つ姿は、文句のつけようがなかった。所作も、挨拶も、笑顔の角度も。お妃教育の全部が、その立ち姿に詰まっていた。
だから敵は、文句のつけようがない場所を狙わず、古傷を狙ってきた。
「皆さま、本日は誠におめでたいこと」
モンフォール侯爵夫人が、グラスを手に、よく通る声で言った。広間が、すっと静かになる。
「それにしても殿下のお妃選びには、肝を冷やしましたわねえ。なにしろ一時は、断罪などというお話まであった方ですもの。……ねえ、ヴァルモンド嬢。怖くはありませんこと? 妃の冠は、令嬢の噂話より、ずっと重うございますわよ」
来た。
公衆の面前での、最後の一撃。冤罪と知った上で、「傷があった」という事実だけを光に晒す。返答を間違えれば角が立ち、黙れば認めたことになる。完璧な袋小路だ。
ナタリーの腕に、力がこもった。
リゼットは——笑った。
「怖うございます」
正面から、認めた。広間がざわめく。
「冠の重さは、まだ存じません。ですが夫人、噂の重さなら、人より少しだけ存じております。あの日、私は学びました。重いものを一人で持つから、潰れるのだと」
彼女は、まっすぐに侯爵夫人を見た。
「私には、重さを分けてくださる方々がおります。隣に立つと言ってくださった殿下。家の名誉を賭けてくれた兄。仕えてくれる者たち。それから——どんな夜も、黙って話を聞いてくれる、小さな友人が」
広間の視線が、一瞬、端の私に集まった。
おやめなさい。猫に注目を集めるな。祈る業務に支障が出る。
「ですから、冠が重い日は、皆で持ちます。一人で持って潰れるのは、もう、やめにしましたの。——夫人の御代の社交界では、重さは一人で持つものでしたかしら? でしたら、時代が変わりましたのね」
リゼットは完璧な礼で締めた。
侯爵夫人の扇が、止まった。返す言葉が、見つからなかったのだろう。「時代」と言われた側は、「古い」と認めずに反論する術がない。
そのときだった。
「——モンフォール侯爵夫人」
王妃が、玉座の前から、口を開いた。
「ひとつ、訂正を。『一時は断罪などという話もあった方』ではありません。『冤罪を、自力で晴らした方』です。王宮の記録は正確に。……それと」
王妃は、広間全体を見渡した。
「王妃の承認手続きは、本日この場をもって完了とします。リゼット・ヴァルモンドを、王太子クロードの婚約者として、正式に承認します」
広間が、どよめいた。
予定では、承認の宣言は後日の儀式のはずだった。それを前倒しで、敵の目の前で、公開で打った。これ以上ない引導だった。
「母上」
クロードが、進み出た。
「ありがとうございます。……俺は、リゼットを選んだ。家のためでも、王家のためでもなく、俺が選んだ。それを、母上に認めてもらえたことが、嬉しい」
広間の空気が、また少し変わった。
敬語が、途中から、消えていた。
公の場で、王子が王妃に「俺」で話した。それが何を意味するか、宮廷の人間なら全員分かる。あれは王族の挨拶ではなく、息子の言葉だった。
王妃は、しばらく黙っていた。
「……ようやく」
それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「命令ではない言葉で、話しましたね」
夜会の後。
リゼットとクロードが来賓の挨拶回りに追われている間、私は侍従に「王妃陛下がお呼びです」と回収された。猫を名指しで呼ぶ王妃も、それを当然の顔で運ぶ侍従も、この王宮はもう色々と限界だと思う。
王妃の私室は、思ったより簡素だった。
飾りの少ない部屋に、暖炉の火だけが揺れている。王妃は夜会の正装のまま、暖炉前の椅子に座っていた。バロンが足元に伏せている。
「……今夜のあの娘を、見ましたか」
見ました。完璧でした。
「『重い日は、皆で持つ』。……三十年前の私に、聞かせたい言葉です」
王妃は暖炉の火を見つめた。
「あなたに、話していないことが、ひとつあります」
膝の上で手袋を外しながら、彼女は言った。
「実家に、猫がいました」
……はい。
知っていました、とは言えないけれど。あなたの指が、ずっと喋っていましたから。
「名は、ペルル。私が十二の年に、納屋で生まれた仔を、もらい受けて。白くて、片耳が欠けた、不細工で賢い猫でした」
片耳。私の片耳のグレーを見て、最初の謁見で指が動いた理由が、今わかった。
「嫁ぐ朝、籠に入れて、連れて行くつもりでした。準備もしていた。でも、出立の馬車の前で、やめました。王宮は——私がこれから戦う場所は、あの子がのんびり日向で眠れる場所ではないと、分かっていたから。妹に託して、置いてきました」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「三年後に、死んだそうです。報せの手紙を、公務の合間に読みました。外交文書と陳情書の間に挟まっていたのです。読んで、畳んで、次の書類を開きました。泣く時間は、その日の予定に、含まれていなかったので」
声は、最後まで平坦だった。
平坦なまま、三十年分、冷えていた。
「以来、犬派ということにしています。犬は連れて歩けます。職務にできる。猫は——猫は、駄目です。猫は、膝の上のあれは、職務にできない。あれは私的な幸福で、私的な幸福は、置いてくるものと決めたので」
私は、床から王妃を見上げた。
この人は三十年、「猫を飼わない」という形で、喪に服してきたのだ。
だから私は、猫として、一番正しいと思うことをした。
椅子に飛び乗って、王妃の膝の上に、収まった。
「……っ」
王妃が、固まった。
バロンが顔を上げる。だが唸らない。彼はもう、知っているのだ。私の業務を。
「な……降りなさい。誰が乗っていいと」
にゃ、と短く答えた。降りません。猫は、座る場所を間違えない。
王妃の手が、宙で迷っていた。下ろす場所を失った手が、ふるえながら、三十年ぶりの選択をして——
私の背中に、降りた。
完璧な手つきだった。首筋から尻尾の付け根まで、毛並みに沿って、覚えているままに。
「…………重い」
口ではそう言いながら、手は止まらなかった。
二撫で目から、感触が変わった。手のひらから強張りが抜けて、ただ撫でるためだけの手になった。十二歳の女の子が納屋の仔猫を撫でた、その続きの手に。
暖炉の火が揺れて、部屋は暖かくて、誰も何も言わなかった。
王妃の膝は、リゼットの膝より少し硬くて、同じくらい、温かかった。
膝の上は、平等である。
公爵令嬢でも、王妃でも、猫が丸くなれば、そこはただの「誰かの膝」だ。
だから私は知っている。今、この国で一番偉い女性の膝の上で、三十年遅れの喪が、ひとつ明けていくのを。
ぐるぐると、喉を鳴らした。
精一杯、大きく。
ペルルの分も。




