第43話「女王陛下も、聞いてほしい」
「おお、おぬしが噂の」
廊下で、知らないおじさんに拾われた。
保護騒動から数日。婚約披露の夜会に向けて、リゼットの最終調整が始まり、私はまた王宮の控えの間に通う日々である。その昼下がり、ナタリーが席を外した隙に、扉の隙間から顔を出していたら、拾われた。
ゆったりした上着の、恰幅のいい、白髪まじりのおじさんだ。警備の厳重なこの王宮で、供も連れずにふらふら歩いている。
「ふむ、ふむ。白いのう。もちもちじゃのう。よし、おぬし、今日から『もち』じゃ」
勝手に命名された。
ミーシャという名前がある。あと、もちって何だ。
「もちよ、これをやろう。昼餉の残りの鴨じゃ」
懐紙に包んだ鴨肉を差し出してくる。礼儀として匂いだけ嗅ぐ。香辛料が強い。猫に香辛料は駄目なのだ。残念ながら、と顔を引いたら、おじさんは「ほう、賢い。毒見の心得があるか」と感心した。違う。
「陛下!」
廊下の向こうから侍従が三人、血相を変えて走ってきた。
「お一人で歩かれては困りますと、あれほど……!」
陛下。
陛下と言ったか、今。
おじさんは「見つかったか」と悪びれもせず笑い、私の頭をひと撫でして、連行されていった。去り際に「もちよ、またな」と手を振りながら。
あとでレオンに聞いたら、あれが国王陛下だった。
この国の頂点は、天然だった。
そして得心がいった。あの自由な人の分まで、誰かが「締める」側に回らなければ、国は回らない。三十年締め続けた人に、心当たりがある。
その夜、リゼットは夜会前の泊まり込みだった。
彼女が寝入った頃、客間の窓の外に、聞き慣れた気配が来た。
バロンだ。
見上げると、彼は数歩歩いて、振り返った。もう意味は知っている。「ついて来い」だ。
行き先も、知っている。
西の塔のバルコニーに、王妃はいた。
夜着にガウン、下ろした髪。月は前より細くなっていたが、立ち姿は同じだった。私が手すりの端に着地すると、彼女は驚かない。バロンを階下に確認して、それから小さく言った。
「……来たのですか」
呼んだのはそちらの犬ですが。
王妃は咎めなかった。視線を夜空に戻し、長いこと黙っていた。沈黙には慣れている。愚痴聞き係の業務は、待つことから始まる。
「……夜会の準備は、整いました」
やがて、声がした。
「あの娘は、よくやっています。系譜も、礼法も、こちらの予定より早い。茶会の受け答えの報告も読みました。……合格です。とうに」
なら、本人に言ってあげてほしい。
「言いません」
読まれた。
「私に褒められて緩むようでは、先がもちません。……と、いうのが建前で」
王妃は、ふ、と息だけで笑った。
「本当は、褒め方を忘れました。三十年も人を裁く側にいると、言葉が全部、裁定の形になる。『合格』『不合格』『可』『不可』。……可愛げのないこと」
それは、愚痴ですか。
「クロードにも、そうでした。あの子が剣の試合で勝っても、『当然です』としか言えなかった。抱き上げて褒めればよかったと、寝台の中で何度も思って、朝になると忘れる役を選び直す。その繰り返しで、あの子は敬語で話す息子になりました」
それも、愚痴ですね。
「バロンには、言えないのです。こういうことは」
王妃は手すりの下に目をやった。階下で律儀に伏せている、忠犬の影に。
「あの子は私を、完璧だと思っているから。完璧な主のままでいてやるのが、飼い主の務めでしょう。……あなたは違う。あなたは私を、最初から『過労の同類』みたいな目で見ている」
ばれていた。
「失礼な猫」
すみません。でも否定はしない。
王妃はガウンの前を合わせ、独り言の続きみたいに言った。
「……こんな話、聞いても、つまらないでしょう」
私は、首を横に振った。
ゆっくり、はっきりと。いいえ。
王妃の目が、見開かれた。
「…………今、首を」
頷く。はい。
「…………」
王妃は私を凝視した。氷の女王の完璧な無表情に、ひびが入って、その奥から出てきたのは——困惑と、ほんの少しの、笑いだった。
「……ふ」
声は、ほとんど息だった。でも確かに、笑った。
「ふふ。……なんですか、あなたは。本当に、なんなのですか」
ただの猫です。はい/いいえ機能を搭載した。
「つまらなくない、と。……そう」
王妃は夜空を見上げた。その横顔が、月明かりの中で、少しだけ若く見えた。
「では、もう少しだけ、話しましょうか。誰にも言えなかった、つまらない話を」
それから王妃は、ぽつり、ぽつりと話した。
嫁いできた最初の冬が、どれほど寒かったか。先代王妃の教育が、どれほど容赦なかったか。夜会で背中に視線を浴びながら、笑顔の角度だけで戦った若い日々のこと。国王陛下の天然に何度助けられ、何度白髪が増えたかということ。
愚痴だった。
三十年もので、上等に熟成された、正真正銘の愚痴だった。
私は手すりの端で香箱を組み、全部聞いた。相槌は打てない。にゃあ、と時々鳴くだけだ。でも、それでいいのだ。愚痴は、解決を求めていない。聞かれたいだけなのだ。それを私は、膝の上で何百晩もかけて学んだ。
月が傾いた頃、王妃は話し終えた。
「……長話を」
短い方です。うちのお嬢様の新記録は、もっとすごい。
王妃は背筋を伸ばし、いつもの「氷の女王」の輪郭に戻った。でも、声だけは、戻りきらなかった。
「また、来なさい」
それは命令の形をした、別の何かだった。
帰り道、バロンが客間の下まで送ってくれた。別れ際、私は彼に、にゃ、と鳴いた。
——大丈夫。聞いておいた。君が聞けない分は、私が聞く。
尻尾が、ぱたんと一回。
こうして、愚痴聞き係の顧客台帳に、二件目が記帳された。
一件目は未来の王太子妃。二件目は現役の王妃陛下。
……うちの係、取引先の格が上がりすぎでは?




