第42話「迎えに来たのは」
保護二日目の朝は、朝食の品評から始まった。
「白身魚の蒸したもの、鶏のささみ、それと山羊の乳を少々。どれから行きますか。ちなみに私のおすすめは魚です。骨は全部抜きました。ピンセットで。三十分かけて」
宮廷魔術師の朝の業務が、猫の骨抜きでいいのか。
オーギュストの世話は、異様に手厚かった。敷物は朝晩で日向の位置に動かされ、水は汲みたて。ブラッシングの申し出は丁重に断ったのに、ブラシだけが三種類、籠の外に並べて見せられた。選べということらしい。圧が強い。
「嫌われたくないのですよ、私は」
魚の骨を抜いた男が、しみじみ言った。
「研究対象に、ではなく。……あなたに、です。あなたはあの令嬢の大事なものだ。そして私は、あの令嬢の婚約者殿に雇われている身でね。板挟みというやつです」
板挟みの自覚はあったのか。
そのとき、塔の扉が、激しくノックされた。
「ファルネ殿! 開けてください!」
ナタリーの声だ。オーギュストが開けると、廊下には侍女と、書類の束と、その後ろに王子がいた。
「正式な異議申し立てです」
ナタリーが書類を突き出す。
「ヴァルモンド公爵家より、保護措置の根拠開示請求。あわせて、当該『獣』の身元保証書。署名は公爵家当主代理エルネスト・ヴァルモンド様。それと——」
「俺からは王子として、苦情の事実関係の照会を出した」
クロードが進み出る。
「『庭を荒らした』の実害報告はゼロ。『茶会の席に持ち込まれた』に至っては、招待状に『噂の猫ちゃんも、ぜひご一緒に』と書いたのは侯爵夫人本人だ。写しもある。……苦情の体をなしていない」
圧巻だった。
一晩でこれだけ揃えたのか。リゼットが暴れる代わりに、全員が書類で殴り込みに来た。文明的で、しかも強い。前世の法務部を思い出して、ちょっと泣きそうになった。
「ぐうの音も出ませんな」
オーギュストはあっさり言った。
「私としても、お返ししたいのは山々です。ただ、命令系統の問題でして。保護をお命じになったのは王妃陛下。解くのも陛下でなければ、私が命令違反になる」
そこで、話が止まった。
王妃に「取り消してください」と言える者は、この場にいない。王子ですら、母には手続きを踏むしかない。手続きには時間がかかる。組織とはそういうものだ。
——と、そのときだった。
開いたままの扉から、のそりと、大きな影が入ってきた。
バロン。
彼は誰にも目をくれず、まっすぐ部屋を横切ると、私の籠の前まで来て——
伏せた。
籠の正面に、どっしりと。動かない岩のように。
「……バロン?」
クロードが戸惑う。オーギュストが帳面を取り出す。職業病だ。
バロンは動かない。誰が呼んでも、尻尾ひとつ動かさない。王妃の犬が、王妃の命じた保護措置の前に伏せて、無言の抗議をしている。
その報せは、本宮まで届くのに、十五分とかからなかった。
王妃陛下が、塔に来た。
入ってくるなり、彼女は状況を一瞥した。書類の束。王子。侍女。帳面を構えた魔術師。籠。籠の前から動かない、自分の犬。
「…………」
王妃は、長い息を吐いた。
「バロン。あなたまで」
バロンは伏せたまま、主を見上げた。それ以上は、何もしない。それで、十分だったらしい。
「もういい。茶番は終わりです」
王妃は籠に歩み寄ると、オーギュストに目で命じた。魔術の留め具が、かちりと外れる。
そして、彼女は自分の手で籠の扉を開け——私を、抱き上げた。
その抱き方に、私は固まる。
完璧だった。
片手が胸の下、もう片手が後ろ足を支える。猫の体重が一点にかからない、猫が一番楽な抱き方。教本にはまず載っていない、抱き慣れた者だけが知る配分。リゼットでさえ、習得にふた月かかったのに。
この人、抱ける人だ。
それも、長く抱いてきた人の手だ。
「……苦情への対応は、これで完了とします」
王妃は私を抱いたまま、宣言した。
「『当該の獣は、王妃が直々に検分した』。記録にはそう残しなさい。私の検分以上の調査があると言う者には、私が直接話を聞きます」
つまり——王妃のお墨付きという、最強の盾で蓋をした。侯爵派はもう、この件を擦れない。擦れば王妃の検分に文句をつけることになる。
体面で始まった保護を、体面で終わらせた。鮮やかな帳尻だった。
王妃は私を、ナタリーの腕に渡した。離れる瞬間、彼女の指が一度だけ、私の耳の後ろを掻いた。完璧な位置を、完璧な強さで。
「……行きなさい。あの娘が待っています」
塔の出口で、振り返った。
バロンが、王妃の隣に戻って座っていた。
『王宮編のカギは犬』。
前世の雑誌の見出しが、頭の中で成仏していった。そういうことか。あの見出しの続きには、こう書いてあったのか。攻略本を読まなくても、犬が教えてくれた。
本宮の廊下を、ナタリーは早足で進んだ。角を曲がった先に、駆けてくる足音があった。
「ミーシャ!」
リゼットだった。
ドレスの裾をつまんで、廊下を、公爵令嬢にあるまじき速度で。
私はナタリーの腕から、彼女の胸に渡された。ぎゅう、と痛いくらいに抱きしめられる。首筋に、温かいものがぽたぽた落ちてきた。
「よかった……よかったぁ……」
崩れた泣き声だった。氷の薔薇もお妃教育も関係ない、ただの女の子の声だった。
にゃあ、と鳴いて、濡れた頬に頭を擦りつける。
ただいま。二日ぶりの定位置である。
「もう、どこにも行かせないんだから……あなた、私の誇りなんだから……」
茶会で言ったあの言葉、本人に二回目を聞かせてもらえるとは。
役得である。保護されてみるものだ。
……いや、二度とされたくはないが。
今夜の愚痴タイムは、さぞ長くなるだろう。
愚痴聞き係、本日付で業務再開である。




