第40話「茶会という名の戦場」
招待状には、こう書き添えられていた。
『噂の猫ちゃんも、ぜひご一緒に』
モンフォール侯爵夫人の茶会は、王宮の南の薔薇園で開かれた。侯爵家が社交の場として庭園を借り受けるのは、よくあることらしい。秋薔薇の盛りで、庭は淡い紅と白に埋まり、風が蜜の匂いを運んでくる。
景色だけなら、楽園だ。
景色だけなら。
「まあまあ、ヴァルモンド家のリゼット様。ようこそ。お会いできて光栄ですわ」
モンフォール侯爵夫人は、五十がらみの上品な貴婦人だった。笑顔には継ぎ目がなく、声は柔らかく、敵意の「て」の字も見当たらない。
見当たらないのに、分かる。
この笑顔は、模擬茶会で講師が再現していた、あの笑顔だ。
「そちらが噂の? ふふ、本当に連れていらしたのね。……あらあら、可愛らしい『獣』ですこと」
猫、と言わなかった。獣、と言った。
私はリゼットの腕の中で、置物モードを最深度に設定した。今日の私は装飾品だ。何があっても動かない。爪も出さない。シャーも言わない。猫の尊厳は屋敷に置いてきた。
席に着く。招かれた夫人と令嬢は十人ほど。全員が侯爵夫人の派閥か、その様子見組らしい。リゼットの席は、全員の視線が集まる位置に、丁寧に用意されていた。
戦闘開始は、お茶が注がれた直後だった。
「学園では、ずいぶんと華やかなお噂でしたわねえ」
一発目。模擬茶会と同じ弾だ。リゼットは笑顔のまま、三秒以内に答える。
「お騒がせいたしました。おかげさまで真実が明らかになり、学園長はじめ皆さまの公正さに、いまも感謝しております」
「あらまあ。でも、火のないところに煙は立たないとも申しますし?」
「ええ。ですから煙の出どころは、きちんと消し止められましたの」
おお、と内心で拍手した。受けて、流して、刺し返しすぎない。特訓の成果が出ている。
だが敵も、一人ではない。
「お妃教育は、いかが? ヴァルモンド家は武門でいらっしゃるから、宮廷の細やかなことは、さぞお骨折りでしょう」
「王家の系譜を二百年分も覚えるのですって? まあ、お労しい。生まれつき身についている方々と違って、後から学ぶのは大変ね」
「そういえば、わたくしの姪は三歳から宮廷におりますのよ。ほほほ」
弾幕が薄く、広く、絶え間ない。
一発一発は「世間話」の顔をしている。抗議すれば「あら、そんなつもりでは」と引かれる、証拠の残らない射撃だ。会議で言質を取らせない詰め方と同じ構造である。大人は怖い。
リゼットは、受け続けた。
笑顔のまま。お茶を飲み、菓子を褒め、薔薇を讃え、撃たれ、撃たれ、撃たれながら。
膝の上の私には、分かった。ドレスの下で、彼女の脚が強張っている。お茶を持つ指先が、カップの取っ手を、規定の角度のまま、白くなるほど握っている。
——撃たれに行きます、と王妃は言った。
これか。これがそうか。
助けたい。
膝から飛び出して、テーブルの上を蹂躙して、この茶会を物理的に終わらせたい。猫にはそれができる。ティーポットの一つも倒せば、茶会は終わる。
でも、駄目だ。
それをやれば「躾のなっていない獣」が事実になる。リゼットの査定に傷がつく。王妃の審査も終わる。そして何より——この戦場は、猫が代わりに戦っていい場所ではないのだ。断罪のときとは違う。あれは冤罪で、これは、彼女がこれから生きていく日常だから。
私は置物のまま、祈るしかなかった。
「それにしても」
侯爵夫人が、ふと、私に目を留めた。
「王宮に獣を入れるなど、前例のないことですわよねえ。王妃陛下も、ずいぶんと寛大でいらっしゃる」
空気が、一段冷えた。
「妃たる者の伴は、由緒ある侍女と決まっておりますのに。獣を頼みにするようでは、お心の鍛えが足りないのではなくて? ほほ」
これは、リゼットと私と王妃を、一発でまとめて撃つ弾だった。
リゼットのカップが、ソーサーに置かれた。
かちり、と小さな音がした。
「夫人。ひとつだけ、訂正させてくださいませ」
声は、静かだった。
「この子は、わたくしの『頼み』ではございません。わたくしの『誇り』です。わたくしが学園で立てなくなりかけたとき、この子は四本の足で立たせてくれました。妃になっても、それを忘れないために連れております。——忘れた妃に仕えるのは、民も大変でございましょうから」
薔薇園が、しん、とした。
侯爵夫人の笑顔が、0.5秒だけ、止まった。
「……まあ。お口の達者なこと」
「恐れ入ります。教育の賜物ですわ」
リゼットは笑顔のまま、お茶を一口飲んだ。カップの角度は、完璧だった。
茶会は、その後ほどなくお開きになった。
去り際、侯爵夫人はリゼットに向けて、最後の礼を執った。完璧で、敵意の見えない、美しい礼。
そして、すれ違いざまに、聞こえるか聞こえないかの声量で言った。
「近頃の王宮は、警備が緩くていらっしゃるのね。獣が入り込むくらい」
夫人は微笑んだまま、薔薇の向こうへ消えていった。
……今のは、捨て台詞ではない。
予告だ。耳の奥で、嫌な音がした。前世で「この件、上に上げさせてもらいますね」と言われたときと同じ音だ。
その夜。湯あみを終えても、リゼットの口は重いままだった。それでもいつものように、ベッドの端で私を膝に乗せる。
ランプの灯り。膝の温度。愚痴タイムの配置。
でも、彼女はなかなか話し出さなかった。
長い沈黙のあと、出てきたのは、一言だけだった。
「……悔しい」
それきり、また黙った。
私は膝の上で、彼女の手に頭を擦りつけた。にゃあ、と小さく鳴いてもみた。いつもなら笑ってくれるのに、今夜は指先が私の毛を撫でるだけだ。それくらいの夜なのだ。
今日の彼女は勝った。少なくとも負けてはいない。完璧に受けて、最後は見事に打ち返したのだから、特訓の先生も褒めるだろう。
でも、勝っても悔しいことは、ある。
笑顔のまま撃たれ続けて、笑顔のまま打ち返して、家に帰ってから、やっと「悔しい」と言える。それを三十年続けた人を、私はもう知っている。
「……ね、ミーシャ」
リゼットが、ぽつりと言った。
「王妃様は、こういうのを、ずっとお一人で?」
頷くべきか迷って、結局、頷いた。
はい。
たぶん、ずっと、お一人で。
リゼットは何かを考えるように、私の背中を撫でた。撫でながら、その目に、悔しさとは別の色が灯り始めていた。
それが何の色なのか、このときの私はまだ、ちゃんと分かっていなかった。
そして——侯爵夫人の「予告」が現実になるのは、この二日後である。
撃たれたのは、私だった。




