第39話「バルコニーの先客」
茶会まで、あと二日。リゼットは王宮に泊まり込みになった。
客間の続き部屋に、猫用の寝床も用意された。ナタリーが屋敷から運び込んだ、私のお気に入りのクッションだ。環境は申し分ない。リゼットは特訓の疲れで、ベッドに入って一分で寝息を立て始めた。
私は、眠れなかった。
月が、明るすぎるのだ。
猫になって知ったことだが、満月前後の夜、猫の体はどこか落ち着かなくなる。血の中で何かがそわそわする。窓辺に座って、青白く照らされた王宮の屋根の連なりを眺めていたら、下の中庭から、低い声がした。
「ヴフ」
見下ろすと、月光の中にバロンが座っていた。
こちらを見上げている。吠えるでもなく、唸るでもなく、一声だけ。
それから彼は数歩歩いて、立ち止まり、振り返った。
……それは、あれか。「ついて来い」か。
犬の「ついて来い」は分かりやすい。分かりやすいが、こちらは就業規則持ちの身である。部屋から出ないこと。二度目はないと言われている。ここで出れば、明確な違反だ。
バロンがもう一度、振り返る。
……いや、待て。考えようによっては、これは王妃の最側近からの招集である。組織図的には、就業規則より上位の命令系統ではないか? 規則を定めた本人の犬なのだから、解釈の余地はある。あるということにする。
窓から、出た。
屋根伝いに下り、中庭でバロンと合流する。夜気は冷たく、肉球から石の冷たさが染みてくる。バロンは私を一瞥すると、先に立って歩き出した。
警備の網の目を、完璧に避けたルートで。歩哨の死角、巡回の隙間、植え込みの影。さすがは警備網そのものみたいな犬である。私が一匹で歩くより、はるかに安全だ。
連れて行かれた先は、西の塔だった。
外階段の下でバロンは止まり、上を見た。
あのバルコニーの、真下だった。
そこから先は、犬には登れない。バロンは私を見て、それから上を見て、また私を見た。
「お前は行ける」と言っている。
……いいのか? 私が行って、いいのか?
バロンは答えず、階段の下に伏せた。定位置、という伏せ方だった。なるほど。いつも彼はここで、主が降りてくるのを待っているのか。バルコニーの足元の影は、塔の下のこの位置だったのだ。
私は外壁の蔦と石の出っ張りを伝って、登った。
バルコニーの手すりの端、植木鉢の陰に、音もなく着地する。
いた。
王妃陛下が、月の中に立っていた。
夜着の上に、厚手のガウンを羽織っただけの姿。結い上げていた髪が下ろされて、背中に流れている。昼間より、ずっと細く見えた。鎧を脱いだ騎士が一回り小さく見えるのと同じだ。
王妃は、月を見ていた。
長いこと、何も言わずに。
私は植木鉢の陰で置物になっていた。出るに出られない。これは完全に、入ってはいけない時間に入ってしまったやつだ。深夜のオフィスで、個室で泣いている上司を見てしまったときの、あの「存在を消す」やつをやるしかない。
夜風が、彼女の髪を揺らした。
「……バロン」
ふいに、王妃が口を開いた。下にいる犬に届くともつかない、小さな声で。
「明後日、あの娘は撃たれに行きます」
茶会のことだ。
「モンフォール侯爵夫人は、笑顔で礼を尽くして、毒を盛るでしょう。言葉の毒です。解毒剤はありません。私は——助けません」
声は、平坦だった。謁見の間と同じ温度の声。なのに、夜の中で聞くと、同じ声がまるで違って聞こえた。
「助けてもらえる戦場など、ないのだから」
手すりの上の手が、ゆっくりと閉じた。
「三十年前、私も撃たれました。誰も助けませんでした。先代の王妃陛下は言いました。『耐えなさい。それが妃の仕事です』と。……正しかったのでしょう。私は耐えた。耐えられてしまった。だから」
そこで、言葉が途切れた。
途切れたまま、続きは夜に溶けて、出てこなかった。
だから、私もあの娘にそうするしかない——続きは、たぶんそんな形をしていた。言葉にすれば認めてしまうから、言葉にしなかったのだ。
風が、植木鉢の葉を揺らした。
私の毛も、一緒に揺れる。
「————」
王妃が、振り向いた。
目が、合った。
終わった。就業規則違反、現行犯。深夜、王妃のプライベートバルコニーに猫が潜伏。情状酌量の余地なし。審査は打ち切り、王宮出入り禁止、リゼットに迷惑が——
「…………猫」
王妃は動かなかった。叫びもしなかった。ただ、私を見た。
それから、手すりの下——塔の足元に目をやった。月明かりの中、階段下に伏せるバロンの姿が、上からは見えたらしい。
「……バロンが、通したのですか」
視線が戻ってくる。
「あの子は、職務に私情を挟みません。挟んだとすれば、初めてです」
王妃は、それきり何も言わなかった。
去れとも、来いとも言われない。私は植木鉢の陰から半分だけ出た姿勢で、固まっている。月が、私と王妃の間の石の床を、白く照らしている。
長い沈黙のあと、王妃は月に視線を戻した。
「……聞かれましたね」
ぎく。
「いいでしょう。猫は、しゃべりません」
それは、リゼットがいつか言ったのと、同じ理屈だった。
しゃべらないから、言える。
王妃はガウンの前を掻き合わせ、最後にもう一度だけ月を見上げて、部屋へ続く硝子戸に手をかけた。
戸を開ける直前、振り返らずに、言った。
「夜は冷えます。早く戻りなさい。……明後日、あの娘の側にいるのでしょう」
にゃ、と小さく返事をした。心の中の「はい」は、音になると、これしかない。
「ならば、見ていなさい。あの娘が、どこまで耐えられるか」
硝子戸が、静かに閉まった。
帰り道、バロンは来たときと同じ完璧なルートで、私を客間の下まで送り届けてくれた。別れ際、彼は一度だけ私を見た。
月明かりの中の犬の目は、何かを頼んでいる目に見えた。
言葉は分からない。でも、たぶん、こうだ。
——主を、頼む。おれでは、聞いてやれないから。
部屋に戻ると、リゼットは同じ姿勢で眠っていた。私はベッドの足元に丸くなる。体の芯が、夜気で冷えていた。
明後日じゃない、もう明日だ。茶会。
撃たれに行く子と、撃たれるのを黙って見ているしかない人と、その両方の側に、一匹の猫。
……仕事が、増えた気がする。
残業代は出ない。鶏肉で手を打とう。




