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悪役令嬢のペットに転生したら、令嬢が毎晩愚痴を言ってきます  作者: 夜凪 蒼


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第38話「完璧な人の夜」

茶会まで、あと三日。


リゼットの特訓は、ついに夜間延長戦に突入した。モンフォール侯爵夫人の茶会を前に、礼法と会話術の総仕上げをするのだという。王宮に泊まり込む日も出てきた。残業に泊まり込み。完全にブラック企業の様相だが、本人が「やる」と言っているので、猫は付き添うのみである。


夜の王宮は、昼間とは別の建物みたいだ。


廊下の燭台は数を減らされ、光と光の間に深い影が溜まる。昼間あれだけいた人の気配が引いて、石の建物そのものの呼吸が聞こえてくる。遠くで衛兵の足音。風が高い窓を鳴らす音。どこかの暖炉の薪が爆ぜる音。


控えの間で丸くなっていても、耳だけは勝手に夜の王宮を聴いている。猫の耳に「営業時間外」はない。


夜半、特訓の休憩に、リゼットが控えの間に来た。


「ミーシャ、起きてた? 夜食ですって。一緒に食べましょ」


盆の上には、湯気の立つスープと、パンと、私用の小皿に鶏肉。夜の厨房もまだ動いているのか。王宮の労働環境が改めて心配になる。


リゼットはスープを一口飲んで、ほう、と息を吐いた。


「あったかい……五臓六腑に染みわたるわ……」


公爵令嬢の語彙ではないが、気持ちは分かる。深夜の温かい汁物は、人類共通の救済である。前世のコンビニの豚汁を思い出した。あれも午前二時の魂に染みた。


「聞いて、ミーシャ。さっきの特訓でね、扇子の開き方が『瞬き半分だけ遅い』って言われたの。瞬き半分よ? どうやって測ったのかしら」


愚痴のミニサイズ版を聞きながら、鶏肉をいただく。夜食の愚痴は消化にいい。


「でもね、先生が最後に言ったの。『ここまで仕上がれば、本番は大丈夫でしょう』って。あの厳しい先生が、初めて」


リゼットの目が、疲れの底で光っていた。


「私、行けると思う」


頷いておいた。今のは「はい/いいえ」案件として正しい運用だ。あくびではない。


特訓再開のため、リゼットが私を抱いて廊下を戻る、その途中だった。


渡り廊下の角で、彼女がふと足を止めた。


「……あら」


廊下の先、扉が薄く開いた部屋から、灯りが漏れている。


執務室だ。それも、王妃の。


リゼットは慌てて引き返そうとした。が、角を曲がる前に、私の位置からは部屋の中が見えてしまった。猫の目は暗がりに強く、視野も広い。


王妃が、机に向かっていた。


侍女はいない。供もいない。たった一人で、書類の山と向き合っている。羽根ペンの音が、夜の廊下まで規則正しく届く。脇には燭台と、手つかずのまま冷めているらしいお茶が一杯。


机の横の床に、バロンが伏せていた。


主の仕事が終わるのを、待つだけの姿勢で。


壁の時計が見えた。深夜の、もうずいぶん深い時刻だ。リゼットの特訓が「異例の夜間延長」なら、この人の執務は何なのだ。


「……行きましょう」


リゼットが小声で言って、そっと角を戻った。来た道を引き返しながら、彼女は独り言のように呟いた。


「王妃様って、いつお休みになってるのかしら」


私も同じことを考えていた。


朝、誰よりも早く謁見の間にいる。昼、執務と公務。夕方、犬の散歩——あれが唯一の休憩らしい休憩だ。そして深夜、一人で書類の山。


これは、あれだ。


私はこの働き方を知っている。前世で隣の島にいた、課長代理の働き方だ。「あの人いつ帰ってるの?」と全員が言い、誰も答えを知らなかった。倒れた日まで。


特訓が終わり、帰り支度をして、馬車寄せへ向かう。


夜気は冷えて、吐く息がうっすら白い。リゼットのショールに半分くるまれながら、私はいつもの癖で、西の塔を見上げた。


いた。


バルコニーに、あの影。


こんな時刻に。さっきまで執務室にいたはずなのに。


今夜は月が出ていて、前よりも輪郭がよく見えた。背筋の伸びた立ち姿。結い上げた髪。手すりに、手袋を外した手が置かれている。


そして、その足元に、大きな影がもう一つ。


バロンだ。


二つの影は、どちらも動かない。話してもいない。ただ夜の中に並んで、月だけが二つの影をまとめて照らしている。


「ミーシャ? どうしたの、上なんか見て」


リゼットには、角度的に見えていないらしい。にゃ、と誤魔化して、私はショールに潜り直した。


馬車が走り出す。


窓の外を、王宮の壁が流れていく。


考える。


完璧な人の一日が、ようやく全部つながった。誰よりも早く始まり、誰よりも遅く終わる。その一番最後、深夜のバルコニーが、あの人の一日の終点なのだ。


誰も見ていない場所で、誰にも聞かれない時間に、犬を一匹だけ連れて、夜に立つ。


あれは何の時間なのだろう。


反省会? 明日の段取り? それとも——何も考えない為だけの時間?


リゼットは学園の頃、部屋に戻って猫に愚痴った。つまり「氷の薔薇」には、解凍される場所があった。


あの人の氷は、どこで溶けるのだろう。


バルコニーで月に照らされても、氷は溶けない。犬は主を崇拝したまま、隣に座っているだけだ。


「……ふわ。ミーシャ、私、眠くなってきちゃった」


リゼットが私を抱いたまま、座席の背にもたれる。数十秒で、規則正しい寝息が聞こえてきた。特訓続きの令嬢は、猫を湯たんぽにして即落ちした。


おやすみ。よく頑張りました。


私は彼女の腕の中で、流れていく夜空を見ていた。


三日後、茶会。


その向こうに、まだ絵にならない、月夜のバルコニー。


王宮編、攻略対象が多すぎると前に言ったが、訂正する。


攻略対象が多いのではない。


放っておけない人が、多いのだ。

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