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悪役令嬢のペットに転生したら、令嬢が毎晩愚痴を言ってきます  作者: 夜凪 蒼


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第37話「縄張りと、職務と」

和解交渉を開始することにした。


相手はバロン。王妃の犬。私を木の上に追い上げた、あの山だ。


理由は三つある。一、リゼットの王宮生活は長くなる。犬と猫の冷戦は、いずれ人間同士の火種になりかねない。二、あの犬は王妃の最側近である。王妃攻略の情報源として、これ以上の人材はいない。三、単純に、あの体格と敵対し続けるのは寿命に悪い。


幸い、私には前世で培った技術がある。


気難しい取引先との関係構築術だ。


第一段階。相手の縄張りとルールを把握する。


控えの間の窓辺から数日観察した結果、バロンの行動はほぼ完璧に規則的だった。朝、王妃の居室前で待機。午前、王妃の執務に同行して扉の外で伏せ。昼、中庭の決まった木の下で休憩。午後、王宮の外周を巡回。夕方、王妃の散歩に同行。


巡回経路は毎日同じ。休憩場所も同じ。乱れがない。


こいつ、できる。


前世の私の職場にいたら、確実に「あの人がいるから回ってる」と言われるタイプだ。役職はないのに全部署から頼られる庶務のベテランの風格がある。


第二段階。相手のルールを尊重する姿勢を見せる。


私はバロンの巡回経路に入らないことにした。そして毎日、中庭の休憩時間に、十分な距離を取った塀の上から、挨拶だけする。日に温まった塀の石が、肉球にちょうどよかった。交渉は、足場の快適さが大事だ。


にゃ、と一声。「お疲れ様です」のつもりで。


初日、バロンは唸った。


二日目、唸らない。こちらを見て、見なかったことにする。


三日目、見た。三秒見て、視線を外す。


四日目——私が挨拶する前から、こちらを見ている。待たれていた。


五日目。にゃ、と挨拶したら、尻尾が一回だけ地面を叩いた。


ぱたん。


……返事だ。今の、返事だった。


塀の上で私は静かに感動していた。交渉成立まであと少し。気難しい取引先の窓口担当が、初めて雑談に応じてくれた日の感触だ。


第三段階は、思わぬ形でやってきた。


その日の午後、中庭の植え込みの陰で、何かが動いた。


私の耳と、バロンの耳が、同時にそちらを向いた。


がさり。植え込みから出てきたのは、イタチに似た小動物だった。この世界の名前は知らない。知らないが、目つきと動きで分かる。あれは厨房か食糧庫を狙う類の、職業的な侵入者だ。


バロンが立ち上がる。だが大型犬の直線的な突進では、植え込みの中の小動物は捕まらない。イタチもどきは植え込みの奥へ——


待て。そっちは。


私は塀から跳んだ。植え込みの反対側、イタチもどきの逃走経路の先に着地する。先回りは、猫の十八番だ。


挟み撃ちになったイタチもどきは、進路を変え、中庭の出口へ走った。そこには既にバロンが立っていた。読み通りの位置に。


イタチもどきは壁を駆け上がり、王宮の外へ消えていった。


捕獲はしていない。でも、追い出した。被害ゼロ。警備的には満点の結果である。


中庭の真ん中で、バロンと私は向き合った。


数秒の、沈黙。


バロンが、ゆっくりと尻尾を振った。ぱたん、ぱたん、と二回。


私も、にゃ、と返した。


共同作業、完了。本日をもって、冷戦は終結した。条約文書はないが、犬と猫の世界に紙は要らない。


夕方、私は塀の上から、王妃の散歩を見ていた。


西の庭園を、王妃とバロンが歩いていく。供の侍女は数歩後ろ。王妃の隣には、バロンだけ。


歩きながら、王妃はときどき、バロンに何か話しかけていた。


距離があって、内容までは聞こえない。でも、口調の輪郭だけは猫の耳に届く。謁見の間の、あの彫刻みたいな声ではなかった。もっと柔らかい、ただの独り言に近い声だ。


バロンは、聞いているのかいないのか、王妃の歩調に完璧に合わせて歩いている。


ふと、思った。


あの犬は、王妃の愚痴を聞いているのだろうか。


私がリゼットの愚痴を聞いてきたように、あの犬も、夜のバルコニーや散歩道で、誰にも言えない言葉を受け止めているのだろうか。


……いや。


たぶん、違う。


バロンの王妃を見る目は、忠誠と崇拝でできている。あれは「完璧な主」を守る目だ。主の弱音を聞く係の目ではない。リゼットの言葉を借りるなら、バロンの前で王妃はきっと、「王妃」のままなのだ。


犬は主を仰ぎ見る。


猫は人間を、同じ高さの、ちょっと困った同居人として見る。


だからリゼットは猫に愚痴れたのかもしれない。膝の上のこの生き物は私を崇拝していない、と分かっていたから。


帰りの馬車で、リゼットが私の額をつついた。


「ミーシャ、最近、王宮に慣れてきたみたいね。今日は衛兵さんが『あの猫、バロンと仲良くやってますよ』って」


報告が早い。王宮の情報網、優秀である。


「バロンって、王妃様の? ……あなた、すごいわ。私なんてまだ、王妃様に名前を呼んでいただいたこともないのに」


リゼットが冗談めかして笑い、それから、少しだけ真顔になった。


「……王妃様って、どんな方なのかしらね。教育のことは全部、講師の先生方を通してで、直接お話しする機会なんて、ほとんどないの。怖い方なのは分かるんだけど、それだけじゃない気がして」


それだけじゃない。


私も、そう思う。


撫で方を知っている指先。「私が昔知っていた猫」。バロンの頭の上で0.5秒だけ溶けた氷。夕暮れのバルコニーに立つ細い影。


手がかりは集まりつつある。でも、まだ絵にならない。


にゃあ、と曖昧に鳴いておいたら、リゼットは「そうよね、ミーシャにも分からないわよね」と笑った。


分からないことは、調べる。


幸い、こちらには新しい協力者ができた。王妃の最側近、四本足の同業者が。

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