第36話「犬、大きい」
事件は、中庭への抜け道で起きた。
控えの間の窓が、その日は少しだけ開いていた。秋の風が入ってきて、外から金木犀に似た花の香りがする。この世界の花は前世と微妙に違う匂いだが、秋の甘さは共通らしい。
魔が差した、と言うほかない。
ちょっとだけ。ちょっとだけ外の空気を吸って、すぐ戻るつもりだった。就業規則「部屋から出ないこと」には違反するが、窓の外の小さな中庭までなら、誰にも見つからない。レオンの言った通り、猫は警備の網の目の外側を歩けるのだ。
窓枠から植え込みへ。植え込みから芝生へ。
着地した瞬間、影が落ちた。
私の体の、三倍はある影が。
「————ヴ」
低い唸り声。
振り向いた先に、山がいた。
正確には犬だ。だが第一印象は山だった。金色がかった茶色の毛並み、樽のような胸板、私の頭くらいありそうな前足。立ち姿に無駄がなく、毛艶は完璧に手入れされている。どこからどう見ても、王宮の犬である。
そして、その毛色。
見覚えがある。封蝋に貼りついていた、あの一本の毛と同じ色だ。
君か。君だったのか。手紙に毛を提供していたのは。
「ヴヴヴ……」
唸り声が深くなった。腰が低く沈む。あれは威嚇ではなく、制圧前の姿勢だ。
ここで私の中の二つの人格が、同時に叫んだ。
元OLの私「落ち着いて。敵意がないことを示して、ゆっくり後退。野生動物との遭遇マニュアル通りに」
猫の本能「毛を逆立てろ! 背中を弓なりにしろ! シャーだ! シャーをかませ!」
体は本能を選んだ。
全身の毛がぶわっと膨らみ、背中が勝手にアーチを描き、喉から「シャアアアッ」が出てしまった。マニュアルが本能に敗北した。入社研修の知識が火災現場で吹き飛ぶのと同じである。
犬が、吠えた。
「ウォウッ!」
音圧。空気が震えた。鼓膜どころか、ひげの先までびりびりくる。
逃げた。私は逃げた。植え込みを抜け、彫像の台座に駆け上がり、気づいたら中庭の白樺もどきの木の、結構な高さの枝にいた。
火事場の猫力である。
枝の上から見下ろすと、犬は木の根元に座って、私を見上げていた。吠え続けるでもなく、座って見上げているだけだ。
「そこを動くな」と全身で言っている。
なんだこの統制の取れた行動は。野良の喧嘩ではない。これは——逮捕だ。私は今、現行犯逮捕されている。
「バロン!」
声がして、衛兵が二人駆けてきた。犬は座ったまま、視線だけそちらに流す。
「どうした、何かいたか——うわ、猫? 猫が木に」
「リゼット様の猫じゃないか? なんで外に」
ばれた。就業規則違反が、王宮の警備網に通報されてしまった。違反したのは網の目の外側を歩く猫のはずだったのに、犬という名の網があったとは。
騒ぎを聞きつけて、レオンが来た。事情を察した顔で木を見上げ、ため息をつき、よじ登って私を回収してくれた。騎士の制服に白い毛をたっぷりつけながら。
「お前なあ……審査中だぞ……」
ごもっともです。
レオンの腕の中から、私は地上の犬を見下ろした。バロンと呼ばれた犬は、もう唸っていなかった。任務完了、という顔で衛兵の隣に座っている。
「そいつはバロン。王妃様の犬だ」
王妃様の。
「陛下が唯一、自分で世話する生き物だよ。散歩も、餌も、人任せにしない。王宮じゅうの誰より礼儀正しい犬で、巡回ルートまで把握してる。……まあ、お前の同業者だな。職務に忠実なタイプの」
同業者。
犬と同業にされるのは複雑だが、言いたいことは分かる。あの動きは「王妃の居室周りに不審な侵入者を入れない」という職務の動きだった。私は不審者として、規定通りに処理されたのだ。
恨みはない。仕事だもの。
でも待ってほしい。ということは、だ。
『王宮編のカギは犬!?』
あの雑誌の見出しの犬は——こいつ、なのか?
このゲームの続編の、攻略のカギを握る犬が、私を木の上に追い上げた職務の鬼。これが「カギ」。どうやって。どう攻略に絡むの。教えて、前世の私。せめて記事を読んでから寝て。
夕方、事件は当然のように王妃の耳に入った。
謁見の間に呼ばれたリゼットは、平身低頭で謝罪した。私は彼女の腕の中で、限界まで小さくなっていた。猫は反省を体積で表現する。
「猫が窓から出た。バロンが見つけて、止めた。以上です」
王妃の声は、意外なほど平坦だった。
「ですが、二度目はありません。よろしいですね」
「はい。陛下」
「……バロン」
王妃が小さく呼ぶと、部屋の隅に伏せていた山が立ち上がり、彼女の椅子の横に音もなく座った。
そのときだ。
王妃の手が、バロンの頭に乗った。
検分の手つきではなかった。耳の付け根を、迷いなく、正確に、気持ちのいい場所を知り尽くした指が掻く。バロンの尻尾が、床を二回、ぱたんと叩いた。
王妃の口元が——ほんの一瞬、ゆるんだ。
氷が、溶けた。
私とリゼットが部屋を出るまで、それ以上は何もなかった。でも私は見た。確かに見た。あの完璧な「氷の女王」の素顔が、犬の頭の上に、0.5秒だけ存在したのだ。
帰り際の渡り廊下で、リゼットが足を止めた。
「あら……あんなところに、どなたかしら」
彼女の視線の先、西の塔の高いバルコニーに、人影がある。
夕暮れの逆光で、顔は見えない。ドレスの輪郭だけが、手すりの向こうに細く立っている。誰かを待つでもなく、景色を見るでもなく、ただ立っている。
「お付きの方もいないみたい。……行きましょう、ミーシャ。風が冷たくなってきたわ」
リゼットは歩き出した。
私は彼女の肩越しに、もう一度だけバルコニーを見た。
人影は、まだそこにいた。
夕日が沈みきるまで、ずっとそこにいそうな立ち方で。
その夜の愚痴タイムは、様子が違った。
「聞いて、ミーシャ。……じゃなくて。今日は、私が聞く番よ」
リゼットは私を膝に乗せると、じとりと見下ろした。
「窓から出て、バロンに追いかけられて、木に登ったんですって? 王妃様の御前で、私がどんな気持ちで頭を下げたか、分かる?」
にゃあ。
「『にゃあ』じゃありません」
愚痴を、言われた。
愚痴聞き係、本日をもって愚痴対象を兼務。人事制度が崩壊している。
でも、私は見逃していない。説教するリゼットの口元が、途中から笑いを噛み殺して、ふるふる震えていたのを。
「……木の上のあなた、ちょっと可愛かったわ」
ほら出た。
この主従、猫に甘い。




