第35話「おかえり、愚痴タイム」
その日の王宮は、朝から空気が硬かった。
リゼットの教育に「模擬茶会」なる科目が追加されたのだ。本物の茶会の前に、講師たちが意地悪な貴族夫人の役を演じて、受け答えを叩き込む訓練らしい。控えの間まで、壁越しにやりとりが聞こえてくる。
「『あら、ヴァルモンド家のご令嬢。学園では随分と、お噂が華やかでしたわね?』——はい、今のに三秒以内に返答を。笑顔のまま」
なんだその圧迫面接。
噂というのは断罪騒動のことだろう。あれは完全な濡れ衣で、公式に潔白も証明されたのに、社交界では「話の種」として一生擦られ続けるらしい。理不尽だ。炎上記事は訂正記事より長く残る。前世も今世も、世間とはそういうものか。
昼、廊下の窓辺で日向ぼっこをしていたら、巡回中のレオンが通りかかった。
「よう。お勤めご苦労さん」
そっちこそ。
レオンは窓の外の庭園を顎で示した。
「ここから見ると分かるけどな、王宮ってのは警備の網の目なんだよ。歩哨の配置、巡回の経路、全部決まってる。人間は決められた線の上しか歩けない。……でもお前は別だな」
ん?
「猫なら全部回れるんだよな、この王宮。塀の上も、植え込みの中も、屋根伝いも。警備計画の外側を自由に歩ける唯一の存在。……いいなあ。俺も猫になりてえ」
騎士が職務中に言っていい台詞ではない。
でも、覚えておこう。猫は王宮の網の目の外側を歩ける。いつか役に立つかもしれない情報だ。メモ帳がないので、海馬に直接書き込んでおく。
その夜。
屋敷に帰って湯あみを済ませたリゼットは、夜着のままベッドの端に腰かけて私を膝に乗せた。
ランプの灯り。膝の温度。この配置。
そして彼女は、すうっと息を吸った。
「聞いて、ミーシャ」
来た。
「模擬茶会の講師がね、本当に、本ッ当に、意地悪なの!」
来た来た来た。
「『三秒以内に返答を』って言うくせに、いい返しをすると『当意即妙が過ぎます、生意気に聞こえます』って言うの! どうしろっていうの!?」
正解の幅が針の穴ほどしかない減点方式。あるある。あるあるです。
「系譜学の先生は『先週教えました』が口癖だし、礼法の先生はカップの角度に定規を当ててくるし、外交儀礼の先生は仮想敵国の大使の役が妙に上手いし!」
リゼットの愚痴は止まらない。堰を切ったように、次から次へ。
私は膝の上で聞きながら、懐かしさに浸っていた。
帰ってきた。愚痴タイムが帰ってきた。
幸せ報告タイムも嬉しかったけれど、白状すれば、ちょっとだけ寂しかったのだ。愚痴聞き係として開店休業状態だったから。これで堂々と本業に戻れる。
——でも。
聞きながら、気づいたことがある。
前と、違う。
学園の頃の愚痴は、決壊だった。外で完璧な「氷の薔薇」を演じて、限界まで溜めて、部屋で猫相手にやっと溢れる。あれは悲鳴に近かった。誰にも言えないから、言葉の分からない猫に言うしかなかった。
今のは、違う。
リゼットは今日あった嫌なことを、ちゃんと「話」として組み立てて、聞かせている。どこが理不尽で、どこが自分の課題で、どこがただの笑い話か、整理しながら喋っている。
吐き出せないから漏れるのではなく、吐き出すと決めて、吐き出している。
「——でね、ここからが本題なんだけど」
愚痴に本題があるのか。
「模擬じゃない、本物のお茶会の招待状が来たの。再来週。主催はモンフォール侯爵夫人」
ナタリーが部屋の隅で、ぴくりと反応した。
「お嬢様、それは」
「ええ。例の派閥のね」
リゼットの声が少しだけ低くなる。
「クロードとの婚約に、面白くない顔をしている方々がいるの。モンフォール侯爵家は、自分の家から妃を出したかったから。お茶会は、その、なんていうか……」
品定めの場、ということか。模擬茶会は、このための特訓だったわけだ。講師たちの意地悪は、実戦を想定した負荷だったのだ。
「怖い?」
ナタリーが静かに聞いた。リゼットは少し考えてから、首を横に振った。
「怖いわ。でも、学園の頃みたいに、一人で抱えて眠れなくなる感じじゃないの。不思議ね」
そう言って、彼女は私の背中を撫でた。
「だって私、吐き出す場所を知ってるんだもの」
……。
それは。
それは、愚痴聞き係への、最高の人事評価では。
「あ、そうだ。ミーシャ、例の練習をしましょう」
リゼットがぽんと手を打った。例の練習。来た。最近始まった、あれだ。
「『はい』なら頷く。『いいえ』なら首を横に振る。いくわよ。——ミーシャは、お魚が好き?」
頷く。はい。ついでに、にゃ、と添えておいた。誠意である。
「まあ! 通じてる! じゃあ次。ミーシャは、鶏肉が好き?」
頷く。はい。
「ミーシャは、ナタリーが好き?」
頷く。はい。部屋の隅でナタリーが小さくガッツポーズをした。
「ミーシャは、私が好き?」
頷く。当然です。
「うふふ。じゃあ——明日のお茶会の練習、私、うまくやれると思う?」
……。
待ってほしい。それは「はい/いいえ」で答えていい質問ではない。未来予測であり、人事評価であり、励まし案件だ。二択クイズに混ぜ込んでいい重さではない。
私が固まっていると、ちょうど、あくびが出た。
猫のあくびは前触れなく出る。口が大きく開いて、頭が自然と上下に——
「! 頷いたわ! 『うまくやれる』って!」
違う。今のはあくびだ。生理現象だ。
「ナタリー、見た? ミーシャが太鼓判を押してくれたの!」
「見ました。今のは確かに『はい』でした」
侍女、判定が甘い。さっきのガッツポーズから察するに、この人は私の回答を娯楽として消費し始めている。
でも、リゼットが笑っているから、まあいい。誤審のまま太鼓判ということにしておこう。猫の品質保証つきだ。保証内容は「あくび」だが。
「よし。じゃあ、寝る前にもう一回だけ系譜のおさらいをするわ。見てて、ミーシャ」
リゼットは机に向かい、ノートを開いた。羽根ペンがインク壺に浸る音、紙の上を走る音。ランプの灯りが、彼女の横顔を照らしている。
学園の頃は、愚痴のあとは泣き疲れて眠るだけだった。
今は、愚痴のあとに、机に向かう。
吐き出して、軽くなって、それからもう一歩だけ進んで、寝る。
……強くなったなあ。
私は彼女のベッドの、いつもの位置で丸くなった。羽根ペンの音を子守唄に、目を閉じる。
愚痴タイムは帰ってきた。
でも、帰ってきたのは前と同じ場所じゃない。少し高いところにある、新しい場所だ。
おかえり。そして、おめでとう。
君の愚痴は、進化した。




