第34話「観察されている気がする」
視線を感じる。
控えの間のクッションの上、香箱座りの姿勢のまま、私は確信していた。見られている。窓の外からではない。扉の隙間からでもない。もっと堂々と、部屋の隅から。
灰色のローブの男が、そこに座っている。インクと薬草の入り混じった匂いが、距離があってもここまで届く。研究室ごと歩いているような男だ。
宮廷魔術師、オーギュスト・ファルネ。先日クロードに釘を刺されていた、あの男だ。膝の上に帳面を広げ、ペンを構え、私を見ている。
もう一時間になる。
「失礼。気にしないでください。私はいないものと思っていただいて結構です」
いるんだよ。
めちゃくちゃいるんだよ。存在感の塊が部屋の隅に鎮座して「いないものと思え」は無理がある。会議室の隅に座る本社の監査役と同じだ。いないものと思えるわけがない。
「ふむ。……『視線に気づき、観察者を警戒。知能の高い猫にはよくある反応』っと」
声に出して書くな。
私は決めた。徹底的に、普通の猫を演じる。猫らしさの見本市をお見せしよう。観察の結果「ただの猫でした」と結論が出れば、この男は離れていくはずだ。
まず、毛づくろい。前足を舐めて、顔を洗う。猫の日常仕草ナンバーワンだ。
「『毛づくろい開始。順序は前足から顔。教科書通り』……ほう、左前足から始めましたね。『利き手は左の可能性』っと」
利き手をメモされた。
次、おもちゃで遊ぶ。ナタリーが置いていってくれた羽根つきの棒に、じゃれてみせる。無心で。野性のままに。
「『羽根への反応良好。ただし』……ふむ。『時折、観察者の反応を確認する素振りあり。遊んでいる自分を客観視している猫は、果たして遊んでいると言えるのか』」
哲学を始めるな。
そして指摘が鋭い。確かに私は今、「遊ぶ私はどう見えているか」を気にしながら遊んでいた。接待ゴルフと同じ構造だ。楽しんでいるフリの上手さには自信があったのに、初見で見抜かれた。
「いやはや、実に興味深い」
オーギュストはペンを置き、ようやく帳面から顔を上げた。
「殿下に止められているのでね。あなたに触れません。検査もしません。魔力測定も、血の一滴もいただきません。約束は守る男です、私は」
その点だけは信用できそうだ。距離は保たれている。一定の、観察に最適な距離が。
「ただ、見るのは自由だ。考えるのも自由。……ねえ、猫くん。いや、ミーシャ嬢とお呼びすべきかな」
猫に敬称をつけるな。距離感が怖い。
「断罪の場の一件、調書を全部読みましたよ。あなたは『たまたま』証拠の手紙を咥えて、『たまたま』衆人環視の場に飛び込み、『たまたま』それを学園長の足元に落とした。三つの偶然が一直線に並ぶ確率を、私は計算してみたのです」
やめてくれ。
「結論。偶然ではない」
ですよね。
「では何か。魔獣の血統か。古代の使い魔の末裔か。あるいは精霊の依り代か。仮説は十七ほど立てましたが、どれも決め手に欠ける。あなたは魔力の流れがまったくの『普通』なのです。これが一番、不可解だ」
仮説十七の中に「中身が元OL」はないらしい。安心していいのか、人間の発想の限界を見たというべきか。
「ファルネ」
凍るような声が、扉から降ってきた。
王妃陛下が立っていた。
オーギュストが帳面を取り落としそうになる。私も思わず姿勢を正した。香箱座りから、前足を揃えるやつに。
「猫の観察が、王命だとは知りませんでした」
「こっ……これは陛下。いえ、これは私的な学術活動でして、職務の合間に」
「合間」
王妃が一歩、部屋に入る。
「東棟の結界の更新は」
「は、半分ほど」
「星見の塔の報告書は」
「く、九割がた」
「九割の報告書を、私は読めません。ゼロと同じです」
「おっしゃる通りで」
「仕事をなさい」
オーギュストは帳面を抱えて、深々と一礼し、横歩きで部屋を出ていった。退場の仕方まで観察対象みたいな男だった。
部屋には、王妃と私が残された。
……二人きり、である。
正確には一人と一匹だが、この空気の張り詰め方は完全に「上司と二人きりのエレベーター」だ。何か話すべきか。いや猫だから話せない。鳴くべきか。鳴くのは正解か。誰か採点基準をください。
王妃は、部屋の中央まで歩いてきて、私を見下ろした。
灰色の瞳。検分の目。
「……ファルネの言うことも、一理あります」
低い声だった。
「普通の猫は、断罪の場に証拠を運ばない」
ぎく。
「普通の猫は、王妃の前で姿勢を正さない」
ぎくぎく。
しまった。前足を揃えたのがまずかったか。普通の猫、難易度が高すぎる。
王妃はしばらく私を見ていた。それから、ふいと視線を窓の外に逃がした。
「ですが」
窓の外、秋の庭を見たまま、彼女は言った。
「賢いだけの獣なら、私は何も言いません。王宮に必要なのは、忠実であることです。あなたが彼女に忠実である限り——観察の結果がどうであれ、私の審査基準はひとつだけ」
視線が戻ってくる。
「あの娘が王太子妃の重さに潰れるとき、あなたはそれを支えられるのか。それだけです」
……。
それは、面接の質問としては——重すぎる。
「教育は始まったばかり。本当につらいのは、これからです。系譜の暗記などは準備運動。あの娘はこれから、社交界という戦場で、笑顔のまま撃たれ続けることになる」
笑顔のまま、撃たれ続ける。
「私は三十年、そうしてきました」
その一言は、自慢にも、脅しにも聞こえなかった。
ただの業務報告に聞こえた。誰にも残業時間を申告しなかった人の、初めての申告に。
王妃は踵を返し、扉へ向かった。出ていく直前、足を止めて、振り返らずに言った。
「……猫。先ほどの毛づくろい」
は、はい。
「左前足からでした。私が昔知っていた猫も、そうでした」
扉が、閉まった。
…………。
今、何か、すごい情報が出なかったか。
昔、知っていた猫。
犬派を宣言した人の口から、今、確かに、猫の思い出が出た。しかも毛づくろいの開始足を覚えている程度には、近くで、長く、見ていた猫の。
私はクッションの上で、しばらく固まっていた。
夕方、迎えに来たリゼットが、私を抱き上げて頬ずりした。柔らかい頬が、もふもふの腹に沈む。
「あら、ミーシャ、難しい顔してる」
にゃあ、と答えておいた。難しい顔にもなる。
「ふふ。帰りましょ。今日の愚痴はね、長いわよ。系譜の先生がね——」
ええ、いくらでも。膝と耳なら、貸せるだけある。
それにしても、この王宮、攻略対象が多すぎる。




