第33話「体験版しか、やってません」
懺悔します。
私、佐藤美咲、28歳(没年時)。このゲームの続編、買ったのに積みました。
王宮の控えの間。リゼットが隣室で婚約者教育を受けている間、私はこの部屋で待機である。試用期間中の猫に与えられたのは、クッション一つと水皿一つ、そして「部屋から出ないこと」という就業規則だ。
暇だ。
暇になると、人は——猫は、考えたくないことを考え始める。
事の発端は、教育初日の科目一覧だった。リゼットと一緒に聞いてしまったのだ。王家系譜学、宮廷礼法、外交儀礼、王領経済概論。聞いた瞬間、リゼットの肩がすっと下がり、私の血の気はすっと引いた。
知らない。
どれも、知らない。
前世の私は、このゲーム——『恋する乙女の舞踏会』をやり込んだ。学園編のルートは全部見たし、断罪イベントの分岐も把握していた。だからこそ学園でのあの日々を、攻略知識で乗り切れた。
問題は続編だ。
『恋する乙女の舞踏会〜王宮の薔薇〜』。学園卒業後、王宮を舞台にした続編。発売日に買った。買ったとも。限定版を。アクリルスタンドつきの。
そして、積んだ。
言い訳をさせてほしい。あの月は決算だった。経理部の応援に駆り出されて、終電で帰って、起動する気力があったのは最初の体験版部分だけだった。「製品版に引き継げます」の文字を見て、「落ち着いたらやろう」と思って、寝た。
落ち着く日は、来ない。
来ないまま、私は過労で倒れ、猫になった。
つまり今の私は、体験版の知識だけで本番に挑んでいる。資格試験で言えば、模試の最初の三問だけ解いて本試験に来た状態だ。
思い出せ。体験版に何があった。
オープニングは覚えている。主人公が王宮に上がる場面。お妃教育。意地悪な貴族たちの値踏み。それから——確か、攻略情報の先行記事をちらっと読んだ。発売前に雑誌で。あれに何が書いてあった。
『王宮編のカギは犬!?』
……犬。
そうだ、犬だ。見出しに犬って書いてあった。新キャラの紹介ページに大きな犬のスチルがあって、「もふもふ要員追加!」と思った記憶がある。それで、それで……それだけだ。記事の中身は電車で寝て読めなかった。
王宮編のカギは、犬。
何の役に立つんだ、この情報。
カギって何。どう犬がカギなの。犬が事件を解決するの。犬がラスボスなの。犬と仲良くなるとトゥルーエンドなの。分からない。体験版にすら犬は出てこなかった。
封蝋の犬の毛を思い出す。王宮には犬がいる。あの毛の主が「カギ」の犬なのだろうか。
……まあいい。落ち着こう。
冷静に考えれば、ゲーム知識がなくても私はやってきた。断罪だって、最後は知識じゃなくて脚力で解決した。猫の本体は四本の足と一つの鼻だ。攻略本がなければ、現地調査をすればいい。
水皿の水を飲んで、心を整える。陶器の縁が冷たくて、ひげに水滴がつく。
そのとき、扉が開いた。
「ミーシャ、いるかー」
レオンだった。近衛騎士の制服姿で、盆に何か載せて入ってくる。
「差し入れ。厨房で分けてもらった鶏のささみ。茹でただけのやつな」
王宮に来て三日目にして、私はこの男の配属を心から祝福している。クロードの護衛として、レオンも王宮詰めになったのだ。顔見知りの騎士が一人いるだけで、アウェイの職場は格段に楽になる。中途入社のとき、前の職場の先輩が同じ部署にいた、みたいな安心感だ。
ささみをいただく。淡白で、ほのかに温かい。王宮の厨房、仕事が丁寧だ。
「リゼット様の教育、初日から飛ばしてるらしいぞ。講師が三人がかりだと」
知ってる。壁越しに気配だけ伝わってくる。
「王妃様の肝煎りだからな。手加減なしだ。……まあ、あの方が認めた婚約だ。潰す気はないんだろうけど、磨き方が硬派っていうか」
レオンが私の隣に座り込んで、耳の後ろを掻いてくれる。職務中では、と思わなくもないが、護衛対象の婚約者の猫の警護も広義の職務である。たぶん。
「お前は気楽でいいよなあ……いや、お前も審査中か。お互い、宮仕えはつらいよな」
しみじみ言うな。こっちもしみじみしてしまう。
夕方、教育を終えたリゼットが控えの間に戻ってきた。
扉を開けた瞬間の顔で分かった。搾りきった雑巾の顔だ。前世の私が月末にしていた顔である。
「ミーシャ……」
名前を呼んで、彼女は私の隣にぺたりと座り込んだ。公爵令嬢が床に直接。礼法の講義を六時間受けた人の所作ではないが、誰も見ていないからセーフだ。私は見ているが、猫はノーカウントである。
「王家の系譜、二百年分……来週までに……」
二百年。
「クロードのひいひいおじい様の弟の奥様の実家まで覚えるの……どうして……もう全員お亡くなりなのに……」
ごもっともすぎる。亡くなった方々の人間関係を暗記する仕事、前世にもあった。組織図の旧版を覚えさせられる引き継ぎ業務だ。
リゼットは私を膝に乗せると、長い長いため息をついた。
来るか。来るのか。あの時間が。
「……はあ。帰ってからにするわ。ここは王宮だもの」
おっと。
こらえた。この子、愚痴をこらえた。
成長なのか、それとも壁ができたのか。膝の上から見上げたリゼットの顔は、疲れてはいるが、折れてはいなかった。
「ね、ミーシャ。あのね、ひとつだけ、いいことがあったの」
お、はい。
「お昼にね、リリアーナちゃんから手紙が届いたの。学園のみんなで寄せ書きしてくれて。『お妃教育、頑張ってください! 学園からお祈りしています!』って。あの子の字、丸くて大きくて、便箋からはみ出してた」
リゼットがくすっと笑う。
「焼き菓子も入ってたわ。あなたの分も。……はちみつのにおいがするやつ」
にゃ。
それは大事な情報だ。最初に言ってほしい。
帰りの馬車で、リゼットは私を抱いたまま、窓の外の夕焼けを見ていた。疲れた横顔に、オレンジ色の光が当たっている。
「ねえミーシャ。王妃様って、あれを全部覚えてらっしゃるのよね。二百年分の系譜も、礼法も、外交も、全部」
たぶんね。
「三十年前は、王妃様も私と同じように、覚えたのかしら」
ふと、謁見の間のあの指先を思い出した。
撫でる形に開いて、閉じた手。
あの人にも、二百年分の系譜に潰されそうな夜があったのだろうか。そのとき、誰かが膝の上にいたのだろうか。
……分からない。攻略本は積んである。前世の部屋に。
分かっているのは一つだけ。今夜、屋敷に帰ったら、こらえた分の愚痴が出る。たっぷり出る。猫はそれを全部聞く。
それが私の本業だ。試用期間中でも、本業は揺らがない。




