第32話「審査員席の氷の女王」
王宮の床は、肉球に冷たい。
ヴァルモンド邸の床は木で、絨毯が敷いてあって、歩くと微かに軋む音がする。王宮の床は白い石で、磨き抜かれていて、音がしない。私の白い毛並みがうっすら映り込むほどの艶だ。毎朝これを磨く人の身にもなってほしい。労働環境が気になるのは前世の癖である。
「ミーシャ、お願いだから、じっとしててね」
リゼットの腕の中で、私は置物に徹していた。
登城初日。リゼットは朝から三回着替え、ナタリーは髪を結い直すこと四回、馬車の中では二人とも一言も喋らなかった。緊張は伝染する。猫にも伝染する。さっきから尻尾の毛が勝手に膨らもうとするのを、意思の力で抑え込んでいる。
長い廊下を進む。壁には代々の王の肖像画。天井からは見たこともない大きさの燭台。空気には、嗅いだことのない香が薄く焚かれている。甘いような、苦いような。この匂いを「王宮の匂い」として、私の鼻は一生覚えるのだろう。
両開きの扉の前で、案内の侍従が止まった。
「王妃陛下が、お待ちです」
扉が開く。
その部屋は、静かだった。
広い部屋の中央、一段高い椅子に、その人は座っていた。
銀色の髪を結い上げ、深い青のドレスをまとい、背筋は定規で引いたように真っ直ぐ。年齢は分からない。肌には皺があるのに、姿勢と気配が年齢という概念を拒否している。
氷の女王、ヴィオレーヌ・ルクレール王妃陛下。
なるほど、と腕の中で思った。
なるほど、これは、氷だ。
リゼットの「氷の薔薇」は、氷の下に薔薇が透けて見える。怒ると氷が割れるし、猫の前では全部溶ける。でもこの人の氷には、下が見えない。何メートル掘っても氷しか出てこなさそうな、永久凍土の佇まいだ。
「リゼット・ヴァルモンドです。本日はお目通りを賜り——」
「楽になさい」
声まで温度が低い。低いのに、不思議とよく通る。
「形式の挨拶は時間の無駄です。あなたの所作は入室の三歩で確認しました。合格です。座りなさい」
三歩で。
リゼットが示された椅子に腰を下ろす。私はその膝の上に置かれた。置物継続中である。
「さて」
王妃の視線が、私に向いた。
審査開始だ。背筋が伸びる。猫の背筋は常に丸いが、心の背筋は伸ばせる。
「それが、例の猫」
例の、という言い方に含みがあった。断罪の場に乱入した猫の噂は、王宮にも届いているらしい。前科持ち扱いである。あれは人助けだったのだが、猫に弁明の機会はない。
「名は」
「ミーシャと申します」
「毛色は白。片耳に灰色。……ふん」
王妃が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。衣擦れの音すらしない歩き方だ。どういう技術なのか。
目の前に立ち、王妃は私を見下ろした。
近くで見ると、瞳は淡い灰色。冷たい目だと思った——のだが、その目が私を「検分」していく途中で、一瞬だけ、おかしな動きをする。
視線が私の毛並みをなぞった、そのとき。
王妃の右手の指先が、ぴくりと動いたのだ。
何かを撫でる形に、半分だけ開いて——すぐに、閉じた。
……ん?
今の、何?
「王宮に動物を入れた前例はありません」
指先の動きなどなかったかのように、王妃は続けた。
「ですが殿下が、あなたの猫の同伴を強く望んでいる。婚約者教育は長く、苦しい。心の支えが必要だと」
へえ。あの王子、そんなことを。
「母上」
部屋の入り口から声がした。クロードだ。銀髪の王子様が、足早に入ってくる。遅れて駆けつけたらしい。
「審査には私も同席すると申し上げたはずです」
「あなたが同席すると、私が猫に甘くなるとでも?」
「いえ。母上が猫に厳しくなりすぎないように、です」
おや、と思った。
王子、母親に敬語なのか。
リゼットには砕けた口調になったのに。レオンにも普通に話すのに。母親にだけ、一枚壁のある喋り方をする。親子の会話というより、上司と部下の会話に聞こえる。前世の役員フロアでよく聞いた種類の会話だ。
「審査の結果を申し渡します」
王妃は私から視線を外さないまま言った。
「保留」
保留。
「本日この場で可否は決めません。婚約者教育の期間中、その猫も登城を許します。そして私が直々に、観察します。王宮にふさわしい猫か、どうか」
つまり、審査期間の延長。
即戦力採用ではなく、試用期間つき採用ということだ。何という現代的な人事制度。王宮、意外とちゃんとしている。
「猫が一度でも王宮の品位を損なう振る舞いをすれば、その時点で出入りを禁じます。よろしいですね」
「はい。……ありがとうございます、陛下」
リゼットが頭を下げる。私も心の中で頭を下げた。粗相一発アウトの試用期間。プレッシャーのかかる雇用形態である。
退出の許しが出て、リゼットが私を抱えて扉に向かう。
そのときだった。
「ヴァルモンド嬢」
王妃の声が背中にかかった。
「ひとつ、言っておきます」
リゼットが振り返る。王妃は椅子に戻り、もう書類に目を落としていた。顔も上げずに、彼女は言った。
「私は、犬派です」
…………。
宣戦布告!?
廊下に出てから、リゼットと私はしばらく無言だった。緊張の糸が切れて、リゼットの腕から力が抜けていく。
「……ミーシャ、聞いた? 犬派ですって」
聞いた。聞きました。審査員が最初から対立陣営の所属だった。出来レースの匂いがする。
「でも、追い出されなかったわ。観察してくださるって。これって、脈はあるってことよね?」
前向きだ。この子は本当に強くなった。
歩き出した廊下の角で、クロードが追いついてきた。
「リゼット。すまない、母上は昔からああいう人なんだ」
「ううん。覚悟はしていたから。それより同席してくれてありがとう、殿下」
「……殿下じゃない」
「あっ。クロード」
照れ屋同士の空気が発生し始めたので、私は腕の中で空気と化した。お幸せに。
と、クロードの視線がふと、廊下の先に向いた。
柱の陰に、誰かいる。
灰色のローブを着た、ひょろりと背の高い男だ。こちらを——正確には、私を見ている。手元の帳面に何かを書きつけながら。
クロードの目が冷えた。
「ファルネ」
「おっと」
「言ったはずだ。その猫を調べることは許さん。公式にも、非公式にもだ。これは王子としての命令だ」
「調べてなどおりませんよ、殿下。私はただ、見ていただけです。見て、思ったことを書き留めていただけです。学者が目と手を縛られたら、残るのは耳だけになってしまう」
「ならば耳も縛られたいか」
「おお、怖い」
ローブの男はひらひらと手を振って、柱の向こうに消えていった。最後の一瞬、帳面越しにこちらを見た目が、子供みたいに輝いていたのが嫌だった。
ああいう目をする大人を、私は前世で知っている。
新しいシステムを導入したがるIT部門の人の目だ。
「クロード、今の方は?」
「宮廷魔術師の一人だ。気にしなくていい。……猫には近づけさせない」
クロードが私の頭を、ぎこちなく一回だけ撫でた。この王子の撫で方は相変わらず不器用だが、敵ではない手つきだ。
帰りの馬車の中で、私は窓の外を流れる王宮の壁を見ながら考えていた。
氷の女王。試用期間。犬派宣言。怪しいローブ。
それから——撫でる形に半分開いて、閉じられた、あの指先。
あの手は、たぶん。
昔、何かを撫でていた手だ。
にゃあ、と小さく鳴いたら、向かいの席のリゼットが「帰ったらおやつにしましょうね」と微笑んだ。
「それとね、今夜は聞いてもらうわよ。王妃様、想像の三割増しだったわ……」
愚痴の予約が入った。承ります。当係、年中無休です。
通じてないが、おやつは欲しい。




