表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢のペットに転生したら、令嬢が毎晩愚痴を言ってきます  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/40

第32話「審査員席の氷の女王」

王宮の床は、肉球に冷たい。


ヴァルモンド邸の床は木で、絨毯が敷いてあって、歩くと微かに軋む音がする。王宮の床は白い石で、磨き抜かれていて、音がしない。私の白い毛並みがうっすら映り込むほどの艶だ。毎朝これを磨く人の身にもなってほしい。労働環境が気になるのは前世の癖である。


「ミーシャ、お願いだから、じっとしててね」


リゼットの腕の中で、私は置物に徹していた。


登城初日。リゼットは朝から三回着替え、ナタリーは髪を結い直すこと四回、馬車の中では二人とも一言も喋らなかった。緊張は伝染する。猫にも伝染する。さっきから尻尾の毛が勝手に膨らもうとするのを、意思の力で抑え込んでいる。


長い廊下を進む。壁には代々の王の肖像画。天井からは見たこともない大きさの燭台。空気には、嗅いだことのない香が薄く焚かれている。甘いような、苦いような。この匂いを「王宮の匂い」として、私の鼻は一生覚えるのだろう。


両開きの扉の前で、案内の侍従が止まった。


「王妃陛下が、お待ちです」


扉が開く。


その部屋は、静かだった。


広い部屋の中央、一段高い椅子に、その人は座っていた。


銀色の髪を結い上げ、深い青のドレスをまとい、背筋は定規で引いたように真っ直ぐ。年齢は分からない。肌には皺があるのに、姿勢と気配が年齢という概念を拒否している。


氷の女王、ヴィオレーヌ・ルクレール王妃陛下。


なるほど、と腕の中で思った。


なるほど、これは、氷だ。


リゼットの「氷の薔薇」は、氷の下に薔薇が透けて見える。怒ると氷が割れるし、猫の前では全部溶ける。でもこの人の氷には、下が見えない。何メートル掘っても氷しか出てこなさそうな、永久凍土の佇まいだ。


「リゼット・ヴァルモンドです。本日はお目通りを賜り——」


「楽になさい」


声まで温度が低い。低いのに、不思議とよく通る。


「形式の挨拶は時間の無駄です。あなたの所作は入室の三歩で確認しました。合格です。座りなさい」


三歩で。


リゼットが示された椅子に腰を下ろす。私はその膝の上に置かれた。置物継続中である。


「さて」


王妃の視線が、私に向いた。


審査開始だ。背筋が伸びる。猫の背筋は常に丸いが、心の背筋は伸ばせる。


「それが、例の猫」


例の、という言い方に含みがあった。断罪の場に乱入した猫の噂は、王宮にも届いているらしい。前科持ち扱いである。あれは人助けだったのだが、猫に弁明の機会はない。


「名は」


「ミーシャと申します」


「毛色は白。片耳に灰色。……ふん」


王妃が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。衣擦れの音すらしない歩き方だ。どういう技術なのか。


目の前に立ち、王妃は私を見下ろした。


近くで見ると、瞳は淡い灰色。冷たい目だと思った——のだが、その目が私を「検分」していく途中で、一瞬だけ、おかしな動きをする。


視線が私の毛並みをなぞった、そのとき。


王妃の右手の指先が、ぴくりと動いたのだ。


何かを撫でる形に、半分だけ開いて——すぐに、閉じた。


……ん?


今の、何?


「王宮に動物を入れた前例はありません」


指先の動きなどなかったかのように、王妃は続けた。


「ですが殿下が、あなたの猫の同伴を強く望んでいる。婚約者教育は長く、苦しい。心の支えが必要だと」


へえ。あの王子、そんなことを。


「母上」


部屋の入り口から声がした。クロードだ。銀髪の王子様が、足早に入ってくる。遅れて駆けつけたらしい。


「審査には私も同席すると申し上げたはずです」


「あなたが同席すると、私が猫に甘くなるとでも?」


「いえ。母上が猫に厳しくなりすぎないように、です」


おや、と思った。


王子、母親に敬語なのか。


リゼットには砕けた口調になったのに。レオンにも普通に話すのに。母親にだけ、一枚壁のある喋り方をする。親子の会話というより、上司と部下の会話に聞こえる。前世の役員フロアでよく聞いた種類の会話だ。


「審査の結果を申し渡します」


王妃は私から視線を外さないまま言った。


「保留」


保留。


「本日この場で可否は決めません。婚約者教育の期間中、その猫も登城を許します。そして私が直々に、観察します。王宮にふさわしい猫か、どうか」


つまり、審査期間の延長。


即戦力採用ではなく、試用期間つき採用ということだ。何という現代的な人事制度。王宮、意外とちゃんとしている。


「猫が一度でも王宮の品位を損なう振る舞いをすれば、その時点で出入りを禁じます。よろしいですね」


「はい。……ありがとうございます、陛下」


リゼットが頭を下げる。私も心の中で頭を下げた。粗相一発アウトの試用期間。プレッシャーのかかる雇用形態である。


退出の許しが出て、リゼットが私を抱えて扉に向かう。


そのときだった。


「ヴァルモンド嬢」


王妃の声が背中にかかった。


「ひとつ、言っておきます」


リゼットが振り返る。王妃は椅子に戻り、もう書類に目を落としていた。顔も上げずに、彼女は言った。


「私は、犬派です」


…………。


宣戦布告!?


廊下に出てから、リゼットと私はしばらく無言だった。緊張の糸が切れて、リゼットの腕から力が抜けていく。


「……ミーシャ、聞いた? 犬派ですって」


聞いた。聞きました。審査員が最初から対立陣営の所属だった。出来レースの匂いがする。


「でも、追い出されなかったわ。観察してくださるって。これって、脈はあるってことよね?」


前向きだ。この子は本当に強くなった。


歩き出した廊下の角で、クロードが追いついてきた。


「リゼット。すまない、母上は昔からああいう人なんだ」


「ううん。覚悟はしていたから。それより同席してくれてありがとう、殿下」


「……殿下じゃない」


「あっ。クロード」


照れ屋同士の空気が発生し始めたので、私は腕の中で空気と化した。お幸せに。


と、クロードの視線がふと、廊下の先に向いた。


柱の陰に、誰かいる。


灰色のローブを着た、ひょろりと背の高い男だ。こちらを——正確には、私を見ている。手元の帳面に何かを書きつけながら。


クロードの目が冷えた。


「ファルネ」


「おっと」


「言ったはずだ。その猫を調べることは許さん。公式にも、非公式にもだ。これは王子としての命令だ」


「調べてなどおりませんよ、殿下。私はただ、見ていただけです。見て、思ったことを書き留めていただけです。学者が目と手を縛られたら、残るのは耳だけになってしまう」


「ならば耳も縛られたいか」


「おお、怖い」


ローブの男はひらひらと手を振って、柱の向こうに消えていった。最後の一瞬、帳面越しにこちらを見た目が、子供みたいに輝いていたのが嫌だった。


ああいう目をする大人を、私は前世で知っている。


新しいシステムを導入したがるIT部門の人の目だ。


「クロード、今の方は?」


「宮廷魔術師の一人だ。気にしなくていい。……猫には近づけさせない」


クロードが私の頭を、ぎこちなく一回だけ撫でた。この王子の撫で方は相変わらず不器用だが、敵ではない手つきだ。


帰りの馬車の中で、私は窓の外を流れる王宮の壁を見ながら考えていた。


氷の女王。試用期間。犬派宣言。怪しいローブ。


それから——撫でる形に半分開いて、閉じられた、あの指先。


あの手は、たぶん。


昔、何かを撫でていた手だ。


にゃあ、と小さく鳴いたら、向かいの席のリゼットが「帰ったらおやつにしましょうね」と微笑んだ。


「それとね、今夜は聞いてもらうわよ。王妃様、想像の三割増しだったわ……」


愚痴の予約が入った。承ります。当係、年中無休です。


通じてないが、おやつは欲しい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ