第31話「その封筒、開けたくない」
ナタリーの足音がいつもより速い。
廊下の向こうから近づいてくる規則正しい音が、今日に限って半拍ずつ前のめりになっている。私は窓辺の陽だまりで丸まったまま、片耳だけそちらに向けた。猫の耳は便利だ。寝たふりをしながら情報収集ができる。前世でこの機能があれば、寝たふりで会議を乗り切れたのに。
扉が開く。ナタリーが銀の盆を捧げ持って入ってきた。
盆の上には、手紙が一通。
それだけなら珍しくもない。ヴァルモンド家には毎日山ほど手紙が届く。領地の報告書、社交界の招待状、リリアーナちゃんからの焼き菓子つきのお手紙。郵便物の仕分けはナタリーの仕事で、彼女はいつも涼しい顔でさばいている。
その涼しい顔が、今日は強張っていた。
「……ミーシャ」
にゃ。
「大変なことになりました」
ナタリーが盆を机に置く。私は陽だまりから起き上がり、伸びをひとつしてから机に飛び乗った。元OLの習性として、「大変なこと」と聞くと確認せずにはいられない。大体において「大変なこと」は早めに把握した方が傷が浅い。月曜の朝のメールボックスと同じだ。
手紙を見る。
上質な白い封筒。そして封を留める蝋の色は——深い、青。
王家の封蝋だった。
翼を広げた獅子の紋章。ヴァルモンド家の鷹とは格の違う、この国でただ一つの印。
思わず匂いを嗅いだ。猫の癖だ。情報は鼻からも入ってくる。
蝋の匂い、上等な紙の匂い、ほのかな香——そして。
……犬?
封蝋の縁に、短い毛が一本、埋まるように貼りついていた。金色がかった茶色の毛。猫の毛ではない。もっと太くて硬い。前世の同僚が飼っていたゴールデンレトリバー、その服についていた毛にそっくりだ。
王家の手紙に、犬の毛。
封蝋を押した誰かのそばに、犬がいたということだ。へえ、と思う。王宮で犬を飼っている人がいるのか。手紙の中身より先にそんなことが気になるのは、私が猫だからだろう。同業他社の動向は気になる。犬は同業ではないが。
「お嬢様がお帰りになるまで、開けられません。でも」
ナタリーが封筒の宛名を指でなぞる。
「王家から、お嬢様宛て。この時期に。……内容は、たぶんあれです」
あれ。
あれというのは、あれだろう。婚約の件だ。
断罪騒動が片付いて、リゼットとクロードの仲は雨降って地固まるどころか、地面が固まりすぎて照れ屋同士の膠着状態に入っている。両家の合意は済んでいるらしい。でもレオンから聞きかじった話では、王子の婚約には続きの手続きがあるのだという。王妃様の承認と、社交界へのお披露目。
つまりこの封筒の中には、リゼットの未来が入っている。
「……お嬢様、今日に限って帰りが遅いですね」
ナタリーがそわそわと窓の外を見る。私もそわそわと窓の外を見る。猫と侍女が並んで門の方を眺める図は、傍から見ればのどかだろうが、内実は人事発表を待つ社員二名である。
日が傾いて、庭の木々の影が長くなった頃、馬車の音がした。
「ただいま、ミーシャ! 今日はね——」
部屋に入ってくるなり私を抱き上げかけたリゼットが、机の上の封筒に気づいて止まった。
「…………」
抱き上げる手が、止まったままだ。私は中途半端に持ち上げられた姿勢で宙にいる。降ろしてほしい。せめて抱くなら最後まで抱いてほしい。
「ナタリー。あれ、いつ」
「昼過ぎに。王家の急使が」
リゼットはようやく私を胸に抱え直すと、深呼吸をひとつして、机に向かった。指先が封蝋にかかる。割る直前、その指がほんの少し震えているのが、抱かれている私には伝わってきた。
ぱき、と蝋の割れる音。
便箋を開く音。
沈黙。
長い。長いぞ。私は腕の中から精一杯首を伸ばして文面を覗き込んだ。読める。読めてしまうのだから仕方ない。
『リゼット・ヴァルモンド嬢の王太子クロード殿下との婚約につき、王妃の承認手続きを開始する。つきましては婚約者教育のため、来週より王宮へ登城されたし』
おお。
おおお。
ついに来た。婚約が正式に動き出す。良かったじゃないか。あんなに泣いて、あんなに愚痴って、断罪までされかけて、それでも好きだった相手と——
『なお』
文面には続きがあった。
『貴嬢が猫を同伴する意向である旨、殿下より伺っている。王宮への動物の立ち入りは前例がない。同伴の可否については、王妃が直々に審査する』
…………。
…………ん?
審査?
誰を?
『追って審査の日程を通知する。当日は猫を連れて参上されたし』
私を!?
腕の中で硬直する私の頭上で、リゼットが便箋を持ったまま立ち尽くしている。
「……審査」
ですよね。私も今、同じ単語で止まってます。
「ミーシャが、審査される……王妃様に……」
リゼットの顔から血の気が引いていくのが分かった。それはつまり、王妃様というのが「審査」という単語と組み合わさると顔色が変わる類の人物だということで。
「お嬢様。王妃様って、その、どのような」
ナタリーが恐る恐る聞く。リゼットは便箋を机に置き、私をぎゅっと抱きしめ直した。苦しい。不安なときに猫を強く抱く癖、直っていない。
「社交界で何て呼ばれているか知ってる?」
「いえ」
「『氷の女王』よ」
……どこかで聞いたような二つ名である。
「私の『氷の薔薇』なんて、あの方の前では雪解け水みたいなものだわ。完璧なの。所作も、言葉も、政も、全部。三十年間、公の場で一度も隙を見せたことがない方なの」
つまり、リゼットの上位互換。ラスボスの風格だ。乙女ゲームで言えば最終章の関門キャラである。
——あ。
そこまで考えて、嫌なことに気づいてしまった。
考えないようにしていたのに。
私が知っているこのゲームの範囲は、学園編で終わっている。断罪イベントがクライマックスで、その先は「末永く幸せに暮らしました」のスチル一枚だ。王宮も、王妃も、婚約者教育も、私の攻略知識の外側にある。
ここから先は、攻略本のないルートだ。
「ミーシャ」
リゼットが私の顔を覗き込む。さっきまで青かった顔に、無理やりの微笑みが浮かんでいる。
「お願い。審査の日、粗相しないでね」
にゃあ、と返事をしておいた。
任せてほしい。前世では面接の通過率だけは高かった。第一印象と愛想笑いで乗り切るのは得意分野だ。
……愛想笑い。
猫の顔は、笑えない。
武器が一つ、もう消えた。
その夜、リゼットはベッドに入ってからも長いこと寝つけずにいた。私は枕元で丸くなりながら、暗闇の中で天蓋を見上げている彼女の呼吸を聞いている。
「……ねえ、ミーシャ。起きてる?」
にゃ。
「私、王太子妃になるのよね」
なるんだろうね。あの王子と両想いなんだから。
「クロードの隣にいられるのは、嬉しいの。本当よ。でもね」
毛布の中から手が伸びてきて、私の背中に乗る。手のひらが冷たい。秋の夜のせいだけではない冷たさだ。
「王太子妃になるってことは、いつか——あの方の場所に、私が立つってことなのよね」
あの方。氷の女王。
「三十年間、隙を見せない人生って、どんなかしら」
その呟きは、愚痴というには静かすぎた。
私は答えの代わりに、冷たい手のひらの下で、ぐるぐると喉を鳴らした。猫の喉は0.02秒で温まる優秀な暖房器具である。手が温まれば、人間は少しだけ眠りやすくなる。
リゼットの呼吸が、ゆっくり深くなっていく。
寝入る直前、彼女が小さく言った。
「明日から、忙しくなるわ」
知ってる。
そして私は、人生……猫生最大の面接を控えている。
エントリーシートに書ける特技が「にゃあ」しかないのだけど、どうしたらいいんでしょうか。




