第30話「この子の猫でよかった」
いつもの夜。
いつもの部屋。いつもの膝の上。
リゼットの指が、私の背中をゆっくり撫でている。爪の先が毛並みに沿って、首筋から尻尾の付け根まで滑る。このリズム。この圧。完璧だ。何百回と繰り返されて、リゼットの手は私の体の地図を完全に把握している。
窓の外では虫の声がしている。季節が変わったのだと、腹の底でぼんやり思う。
「ミーシャ」
にゃ。
「ありがとう」
唐突だった。
リゼットの声は穏やかだ。怒っていない。泣いてもいない。静かに、事実を述べるように。
「あなたが来てくれて、私は変われたの」
大げさだ。私は何もしていない。走っただけだし、鳴いただけだし、膝の上にいただけだ。
「誰にも見せられなかった顔を、あなたにだけ見せられた。それがどれだけ救いだったか」
リゼットの指が止まる。
「猫相手に大げさよね。でも本当のことだから」
指が再び動き始める。ゆっくり、丁寧に。
私は目を閉じて、その手の温度を全身で受け止めている。
「あ、そうそう。クロードが言ってたわ。魔術師の件、やめるって」
心臓が一拍、大きく鳴った。
「『俺が好きになったのはリゼットの猫で、リゼットがそのままでいいと言うなら、俺も何もしない』って」
あの王子、意外とまともなことを言う。照れ屋のくせに要所は押さえてくるあたり、王族の血は伊達じゃない。
「ちょっと見直したわ。ちょっとだけよ」
ちょっとだけ、と言いつつリゼットの耳が赤い。お似合いだ、この二人。照れ屋同士で一生すれ違っていてほしい気もするが、猫としてはそろそろ安心して昼寝に専念したい。
魔術師の検査はなくなった。私はこのまま、猫でいられる。
ほっとした。尻尾の先がぱたん、と膝を叩いた。安堵が体の末端まで伝わっている。猫の体は感情を隠せない。
──思い返せば、おかしな猫生だった。
OLから猫に転生して、悪役令嬢の愚痴を聞いて、毛玉を追いかけて、日向ぼっこで半日溶かして、王子に睨まれて、ヒロインに抱きしめられて、騎士に腹を撫でられて、断罪の場に全力疾走して。
猫らしいことと猫らしくないことを交互にやりながら、気づいたらここにいる。
リゼットの膝の上。
前世の佐藤美咲には、こんな場所はなかった。帰る場所はあったが、帰りたい場所はなかった。ワンルームのドアを開けても誰もいないし、「おかえり」もない。
今は違う。
学園から帰ってきたリゼットが真っ先に私を探す。「ミーシャ、どこ?」と呼ぶ声が廊下に響いて、見つけた瞬間に表情がほどける。
あの笑顔を見るたびに思う。この子の猫に転生して、本当によかった。
「ミーシャ」
にゃ。
「眠い?」
……眠い。
膝が暖かいのがいけない。リゼットの体温と、ランプの熱と、毛布のふわふわが三方向から攻めてくる。猫の本能が「寝ろ」と全力で命令している。抗えない。前世の残業耐性をもってしても、この暖かさには勝てない。
「寝ていいわよ」
リゼットが笑う。笑い声が頭の上から降ってきて、振動が体に伝わる。心地いい。
目を閉じる。
──私は猫です。
ただの猫です。
元OLで、エクセルが得意で、VLOOKUPなら任せてほしいけど、今はただの猫です。
前世の記憶があって、人語が全部わかって、たまに猫じゃない行動をするけど。
それでも、ただの猫です。
でも。
この子の猫で、よかった。
どんな人生よりも、どんな転生先よりも、リゼット・ヴァルモンドの猫であることが、私の一番の幸運だ。
瞼の裏が暗くなっていく。リゼットの指がまだ動いている。心臓の音が聞こえる。リゼットのと、私のと、二つ分。
意識が溶けていく手前で、最後に一つだけ。
にゃあ。
──おやすみ、リゼット。明日も、愚痴でも幸せでも、なんでも聞くから。
リゼットが何か言った気がしたが、もう聞こえない。
猫は、眠るのが仕事だから。
今日も一日、ちゃんと働いた。




