第29話「今日もね、聞いて」
夜。リゼットが帰ってきた。
いつものように私を膝に乗せ、いつものようにランプの灯りの中で語り始める。
「今日ね、聞いて」
来た。愚痴タイムだ。
──と思ったのだが。
「クロードが、目を合わせてくれたの」
……ん?
「しかもね、『今日の髪飾り、似合っている』って」
それは愚痴ではない。
「あとね、リリアーナちゃんとお茶をしたの。彼女ったら、私の分のケーキも注文しちゃって。『リゼット様は甘いものがお好きですよね』って覚えていてくれたの」
それも愚痴ではない。
「あ、それからレオン殿が廊下で会ったとき、『今日のミーシャは元気でしたか』って聞いてきたの。あなた人気者ね」
全然愚痴ではない。
リゼットの声が弾んでいる。以前の愚痴タイムとは別の時間になっている。報告の中に不満がない。悔しさがない。怒りがない。
「お兄様がこっそり手紙をくれたの。『よくやった』って一言だけ。でもお兄様にしては饒舌なほうよ」
エルネスト兄様の手紙が一言で「饒舌」扱いされる兄妹関係。前世の上司のメールは「了」の一文字だったが、あれより短い。
リゼットが私の耳の後ろを掻いてくれる。ここ。ここが気持ちいい。自動的に喉が鳴る。ごろごろ。猫の喉は正直だ。
「あ、あとね。クロードがちょっと変なこと言ってたの」
変なこと?
「『ミーシャに魔術的な加護がないか調べたい』って。断罪の場であんな動きをした猫は普通じゃないから、って」
レオンから聞いていたけど、リゼットの口から聞くと急に現実味が増す。猫の背筋が伸びる。伸びたのは緊張であって、撫でてもらいたいからではない。
「私が止めたわ。『ミーシャは普通の猫よ。ちょっと賢いだけ』って」
リゼットの指が、私の顎の下をくすぐる。
「だって——魔術師に調べさせて、もしミーシャが普通の猫じゃないって分かったら。取り上げられるかもしれないでしょう?」
その発想はなかった。研究対象として没収される猫。前世でいう特許侵害で差し押さえられる製品的な。いや、もう少し生々しい。
「だからクロードには『猫を怖がらせないで』って怒ったの。殿下、困った顔してた」
あの王子、婚約者に怒られたのか。王族の威厳はどこに。
「殿下って呼ぶなと言われたのに、怒るときはつい戻るのよ。習慣って怖いわ」
怖いのは習慣じゃなくてリゼットだと思う。
「ナタリーがね、新しい紅茶を仕入れてくれたの。林檎と蜂蜜の香りがするやつ。明日の愚痴タイムに淹れてくれるって」
愚痴タイムと言いつつ内容が幸せ報告なのだが、本人は気づいているのだろうか。
私は膝の上で丸くなりながら、少し複雑な気持ちでいる。
嬉しい。
リゼットが幸せそうで、嬉しい。愚痴を聞くために猫をやってきたような日々だったから、目的が達成されつつあるのは喜ばしいことだ。
でも──ちょっとだけ寂しい。
前世の社畜脳が「自分の存在価値が減っている」と警鐘を鳴らしている。愚痴聞き係がいらなくなったら、私の仕事は何だ。
いやいやいや。猫だろう。仕事とか考えるな。猫に業務内容はない。膝の上にいればいいのだ。
「ミーシャ?」
リゼットが私の顔を覗き込む。
「なんだか今日、ちょっと不満そうね」
にゃ。不満じゃない。断じて不満じゃない。
「……もしかして、愚痴が減って退屈?」
鋭い。この子は猫の表情を読むのがうますぎる。
「大丈夫よ。愚痴がなくなっても、報告はするから」
リゼットが私の鼻先を指で軽くつつく。
「だって、あなたに聞いてほしいもの。嬉しいことも、楽しいことも」
…………。
それは。
反則だ。
前世で「話を聞いてほしい」と言われたことがあっただろうか。愚痴を聞いてもらう側ばかりで、誰かの幸せを真っ先に報告される立場なんて、なかったかもしれない。
「今日もね、聞いて」──その言葉の意味が変わっている。
「辛いから聞いて」ではなく、「嬉しいから聞いて」に。
愚痴タイムが、幸せ報告タイムに変わった。
リゼットの膝は相変わらずぽかぽかで、ランプの灯りは相変わらず穏やかで、部屋には林檎と蜂蜜の紅茶の余韻が漂っている。
変わったのは、この子の声の温度だ。
前より、ずいぶん柔らかい。
にゃあ。
──聞いてるよ。ずっと。




