第3話「愚痴のお時間です」
猫生活一週間。日課ができた。
朝、リゼットの髪の間から目覚める。朝食のおこぼれを貰う。リゼットが学園に行く。昼間は部屋で惰眠を貪る。夕方、リゼットが帰ってくる。
そして夜。
愚痴タイムが始まる。
「聞いてミーシャ」
来た。今日もこのセリフから始まる。リゼットが猫を膝に乗せ、髪をほどき、ドレスの肩紐を緩めて――リラックスモードに入る合図。ナタリーが淹れたカモミールティーの香りが部屋に広がると、公爵令嬢の愚痴が止まらなくなる。
「クロード殿下がね、今日、図書室で」
王子の話だ。この一週間で分かったことだが、リゼットの愚痴の8割はクロード王子の話である。残り2割は「令嬢たちの陰口がうざい」と「お父様が過保護すぎる」で構成されている。
「私が先に席についていたの。殿下が後から来て、隣の席に座ったのよ」
ほう。
「それで、私が挨拶したら、殿下は何て言ったと思う?」
知らない。猫だから。
「『ああ』よ。『ああ』。婚約者に向かって『ああ』って何? 人語の退化?」
辛辣。だけど気持ちは分かる。前世の職場でも「お疲れ」を「ぁー」で済ませる上司がいた。
「それでね、私は気にしないふりをして本を読んでいたの。そしたら殿下がちらちらこっちを見るのよ。見るなら話しかけなさいよ」
それはもしかして、王子なりのコミュニケーションでは。
「にゃあ」
「でしょう? ミーシャもそう思うわよね。失礼な殿下」
いや、そういう意味で鳴いたんじゃないんだけど。猫語は誤解を生む。
「しかも帰り際に、殿下が私のところに来て何て言ったと思う?」
期待して待つ。
「『今日は暖かかったな』ですって。天気の話! 婚約者に天気! 外交の場でもそんな挨拶しないわよ!」
いやいやいや。ちょっと待ってほしい。
隣に座る。ちらちら見る。わざわざ帰り際に話しかける。それ、照れてるだけでは。乙女ゲームのクールキャラが序盤にやる典型的なアレでは。
でも猫は「それ好意ですよ」と言えない。「にゃあ」しか出ない。
「にゃ」
「そうよね、呆れるわよね」
翻訳が違う。
リゼットが膝の上の私をもふもふしながら、溜息をつく。カモミールティーを一口飲んで、また溜息。
「……正直に言うとね」
声のトーンが変わる。
「婚約を解消してほしいなんて、思ってないの。殿下のこと、嫌いじゃないのよ。だからこそ、あの態度が——」
ぎゅ、と私を抱きしめる力が少し強くなる。
ああ、この子。好きなんだ、王子のこと。
だけどそれを言える相手が、猫しかいない。
「にゃあ」
大丈夫、聞いてますよ。経費精算のスキルは役に立たないけど、愚痴を聞くスキルならOL時代に鍛えてある。上司の自慢話に3時間つきあった実績がある。王子の愚痴なんて可愛いもんだ。
リゼットが少し笑う。泣きそうなのか笑っているのか分からない、曖昧な表情。
「ミーシャは優しいわね。ちゃんと聞いてくれて」
聞いてるどころか分析してますよ、元OLなので。
愚痴タイムが終わり、リゼットがベッドに移動する。私も定位置の枕元へ。
ふと、部屋の隅にある書斎机が目に入る。
書類が積まれている。明日の授業の予習だろうか。羊皮紙に、インクで細かい文字が並んでいる。
猫の目は暗がりに強い。月明かりだけで、文字がはっきり読める。
——読める。
この世界の文字が、読める。
立ち上がって、ふらふらと机に近づく。テーブルの脚に爪をかけ、よじ登り、書類の前に座る。文字をじっと見つめる。
「……外交論、第三章。婚姻による同盟関係の構築について」
教科書だ。内容は前世の知識がなくても理解できる。文字が読めるなら、この世界の情報にアクセスできる。ゲームの知識だけじゃなく、リアルタイムの情報が。
これは大きい。
「ミーシャ? 何してるの、こんな時間に」
リゼットの声。慌てて机から降りようとして、足を滑らせた。書類の上で肉球がつるっと滑り、羊皮紙の山と一緒に床に落ちる。
「もう、散らかさないでよ」
リゼットが苦笑しながら書類を拾い、私を抱き上げてベッドに戻る。
「猫が書類に興味を持つわけないわよね。虫でもいたのかしら」
虫じゃない。文字を読んでいた。でもそんなこと、口が裂けても言えない。口が裂けても「にゃあ」しか出ないけど。
枕元に丸くなりながら、考える。
文字が読める。人語が理解できる。前世の記憶がある。乙女ゲームの知識もある。
悪役令嬢のペットという立場は、思ったより悪くないかもしれない。猫の体は不便だけど、情報収集には向いている。誰も猫を警戒しない。
――問題は、集めた情報をどう伝えるか。
リゼットの寝息が聞こえ始める。穏やかで、規則正しい呼吸。
この子を守りたい。
悪役令嬢の結末がどうなるか、ゲームでは途中までしか見ていない。でも婚約破棄と社交界追放だけは知っている。
それを回避する方法を、四本足で、「にゃあ」だけで、なんとかしなければならない。
……前世の上司が聞いたら、「佐藤さん、その企画書ちょっと無理がありますね」って言うだろうな。
知ってる。




