第2話「この子、二つの顔」
猫になって三日が経つ。
分かってきたことがいくつかある。
一つ、この体は子猫だ。生後2ヶ月くらいだろうか。手足が短く、ジャンプ力がない。テーブルの上に飛び乗ろうとして3回失敗し、4回目でようやく爪が引っかかって這い上がれる、そんな感じ。
二つ、人間の言葉は完全に理解できる。聞き取りは満点。発話は零点。TOEIC で言えばリスニング990のスピーキング0。そんな試験はない。
三つ、猫の本能が思ったより強い。
昨日、窓辺の日だまりにふらふらと引き寄せられた。「いや、今は部屋の構造を把握するべきでは」と脳内で業務指示を出したのに、体は勝手にぽてっと横になり、2時間消えた。起きたら夕方。報連相もできない体で2時間の無断離席。前世の上司が見たら泣く。
そして四つ目。これが一番重要な発見。
リゼット・ヴァルモンドという人間は、外と中で完全に別の生き物である。
朝。リゼットが身支度を整える時間から、それは始まる。
ナタリーがドレスのレースを整え、髪を結い上げていく。鏡の前のリゼットは、一ミリも表情を動かさない。背筋はまっすぐ。瞳は氷点下。完璧な貴族令嬢が、そこにいる。
「行ってくるわ」
私に向かって短く言い残し、部屋を出る。その声も冷たい。
学園での様子は見られないけれど、ナタリーの独り言から断片的に聞こえてくる。
「今日もお嬢様、ローゼンハイム子爵令嬢を一言で黙らせたそうですよ」
「3年の男子生徒が告白して、『時間の無駄ね』とだけ仰ったとか」
氷の薔薇。近寄りがたい完璧な令嬢。触れれば凍る。
ところが。
夕方。学園から帰ってきたリゼットが自室の扉を閉めた瞬間、空気が変わる。
「ミーシャあぁぁぁ!」
叫びながら猫を抱き上げる悪役令嬢。さっきまで氷点下だった声が沸騰している。
「今日もねぇ、馬鹿みたいに暑かったの。日傘を差したかったけど、公爵令嬢が日傘なんて軟弱なことできないでしょう? ねぇミーシャ」
すりすり。頬ずりされる。首筋にリゼットの髪が触れて、くすぐったい。かすかに汗の匂いがして、あ、本当に暑かったんだな、とOL的共感が芽生える。
「あと、クロード殿下がまた私の挨拶を無視したの。無視よ? 婚約者の挨拶を無視する王子って何? 欠陥品じゃない?」
もぐもぐ。クッキーを口に押し込みながら愚痴る公爵令嬢。さっきまで微動だにしなかった表情筋が全力稼働している。頬はクッキーで膨らみ、眉間にはしわ。
この子、外と中で別人じゃない?
いや、別人というか。外が鎧で、中が素なのだろう。学園での「氷の薔薇」は、17歳の女の子が必死に作り上げた仮面。
で、その仮面を外す相手が――猫の私しかいない。
ちょっと切なくなりかけたけど、リゼットが私の肉球をぷにぷに押し始めたので感傷は吹き飛ぶ。
「ぷにぷにぷに。ミーシャの肉球、いい匂い」
OLの記憶を持つ猫の肉球を嗅いで「いい匂い」と言う公爵令嬢。状況が複雑すぎる。
「にゃ」
とりあえず鳴いてみる。リゼットの目が星になる。
「鳴いた! 可愛い! もう一回!」
「にゃあ」
「天才! ミーシャは天才よ!」
鳴いただけで天才認定される世界。前世では経費精算を100件さばいても「お疲れ」の一言だった。評価制度に問題がある。
リゼットが私を膝に乗せ、背中を撫で始める。指先の力加減が絶妙で、背骨の横を的確にたどっていく。猫の体がごろごろと喉を鳴らす。これも勝手に出る。鳴らしたくて鳴らしているわけじゃなく、体が反射で鳴らしている。
「ふふ、ミーシャはこの辺りが好きなのね」
好きというか、抗えない。猫の体、反則が多い。
ナタリーがお茶を運んできて、その光景を見て一瞬だけ立ち止まる。
「お嬢様、猫を膝に乗せたままだとドレスに毛がつきますが」
「知ってるわ。でもミーシャのほうが大事」
ナタリーが何か言いたげな顔をして、でも何も言わずにお茶を置いた。この侍女、たぶん色々と飲み込むのが上手い人だ。
夜。リゼットがベッドに入ると、定位置は決まっている。枕元。リゼットの髪の横に丸くなる。ラベンダーの香りがするシーツと、ローズの残り香がするリゼットの髪に挟まれて、猫の体は否応なしに眠くなる。
「おやすみ、ミーシャ」
小さな声。学園では絶対に聞かせない、甘えた響き。
「……にゃ」
おやすみなさい、リゼットお嬢様。
あなたの二つの顔、私はどっちも嫌いじゃないですよ。
――ただ、どっちの顔も可愛いとか言ったら、たぶんこの世界の女性陣に怒られるんだろうな。悪役令嬢だし。
まあいいか。猫だし。猫に社交界の政治は関係ない。
たぶん。




